第12話スパイス王国の女王からの招待状(後編)
炎竜の心臓が、テーブルの中央に鎮座していた。
近づくだけで目が痛む。湯気ではなく、辛味成分そのものが空気に溶け出し、蝋燭の炎を赤く染めている。長年この国の宴席に立ち続けた侍女たちでさえ、料理を運んできた後は素早く後退し、できる限り距離を取っていた。
サフラン女王は悠然とフォークを手に取り、レオノーラを見た。
「では、始めましょうか」
「ええ。…お先にどうぞ、女王様」
女王は迷わず、肉の最も赤い部位を大きく切り取り、口に運んだ。
刹那——謁見の間の空気が変わった。
女王の額に、大粒の汗が噴き出す。しかし表情は崩れない。それどころか、目が細まり、口元に満足の色が浮かんだ。この国の最高権力者は、自国の「地獄」を快楽として享受する者だった。
「…さあ、貴女も」
レオノーラはフォークを手に取り、ゆっくりと肉を切り分けた。香りだけで、口の中に熱が走る。これが本番だ、と全身が告げていた。
一口、含んだ。
最初の一秒は、何も起きなかった。
二秒目に、舌の先端が燃え始めた。三秒目には、喉の奥まで炎が伝播し、四秒目には、脳髄を直接叩くような熱の波が押し寄せてきた。スパイスの複雑な層が順番に爆ぜ、クミンの香ばしさ、カルダモンの清涼感、そして唐辛子の純粋な暴力が、舌の上で三重奏を奏でている。
扉のそばで待機していたエリックとリリアが、漂ってくる辛気だけで目を潤ませた。
「…エリック様、わたくし、まだ食べていないのに涙が…」
「…僕もだ。あれを食べた後に、本当に毒味役をやらなければならないのか…?」
二人の会話を、レオノーラは背中で聞いていた。しかし今、彼女の意識は料理の中にあった。
辛い。確かに辛い。しかし…
(…面白い。この熱の積み重なり方は、ただの破壊ではない。三段階の香辛料が、それぞれ異なるタイミングで受容体を開いていく。まるで、波が重なるように…)
レオノーラは、フォークを置いた。
「…イリーナ」
扉の外で待機していたイリーナへの合図だ。
重い音とともに、廊下からコンテナが運び込まれてきた。イリーナが封印に両手をかけ、深く息を吸う。道中で設計し直した新しい冷却回路——熱蓄積水晶を用いた南国仕様の魔導システムが、今夜初めて実戦に臨む。
「…行きますわよ、お嬢様」
「ええ」
封印が解かれた瞬間、謁見の間に「冬」が爆発した。
真っ白な冷気の霧が床を這い広がり、香炉の火を次々と鎮めていく。南国育ちの廷臣たちが、生まれて初めて感じる「冷たさ」に悲鳴を上げて後退った。しかしサフラン女王だけは、身じろぎ一つしない。むしろ、押し寄せる冷気を正面から受けながら、その蒼白い霧を興味深そうに眺めていた。
「…博覧会の時より、鋭い冷気ですわね」
「南国の熱気に打ち勝つためには、それ相応の刃が必要ですわ」
レオノーラはジョッキを手に取り、コンテナから液体を注いだ。
ホップの量を三倍に増やし、アルコール度数を極限まで高めた上で、凍りつく寸前まで引き締めた一杯。イリーナの新回路が生み出す精密な冷気によって、ジョッキの表面には見る間に細かな霜の結晶が咲いていく。
「サフラン女王。…貴女の料理は確かに素晴らしい炎ですわ。ならばそれを受けるわたくしの麦酒は、一切の情けを容赦せぬ氷の刃でなくてはなりません。…和らげるのではありませんわよ。辛味の暴力と冷気の暴力を正面から衝突させ、味覚の限界の向こう側へ貴女を連れて行って差し上げますわ」
女王は不敵な笑みを浮かべ、もう一口、炎竜の心臓を頬張った。
喉が、鼻腔が、脳髄が、スパイスの猛攻によって火花を散らす。女王の呼吸が荒くなり、額の汗が顎へと伝わっていく。廷臣たちが固唾を飲んで見守る中、レオノーラは霜を纏うジョッキを、静かに差し出した。
女王の手が、それを掴んだ。
一気に、煽った。
「…っ!! …ぁ、ああっ…!!!」
喉を通る瞬間、スパイスの熱気が「絶対零度のキレ」によって一刀両断にされた。しかしそれは単なる鎮火ではない。圧倒的な冷たさと強烈なホップの苦味が、辛味の持つ「香りの粒子」を舌の上に強制的に定着させ、肉の旨味を宇宙のような広がりへと変貌させた。辛い、苦い、冷たい——三つの暴力が正面衝突した瞬間、その向こう側に、これまで一度も味わったことのない「第四の何か」が口いっぱいに広がった。
「…なんという。…脳を叩き割るような冷たさが、わたくしの愛した炎を!これほどまでに芳醇な旋律に変えるというのか。…苦い、あまりにも苦いのに、この肉の脂が甘い蜜のように感じられる…!!」
女王はジョッキを空にし、その重厚な底を肘掛けに叩きつけた。謁見の間に衝撃音が響き渡る。
沈黙が流れた。
女王は、しばらく目を閉じていた。余韻の中にいる人間の顔だ。鼻腔にまだ残るホップの香りと、舌の上に居座る複雑な甘みを、一つひとつ確かめるように。
やがて目を開き、レオノーラを見た。
「…一つ、聞かせなさい」
「なんでしょう」
「博覧会の時と、今夜の一杯。同じ技術を使っているのに、なぜ今夜の方が深い?」
レオノーラは少し考え、扇子を広げた。
「貴女の前菜のおかげですわ」
「…前菜?」
「ええ。あの三段階の香辛料構成…クミン、カルダモン、唐辛子が順番に受容体を開いていく設計。…あれが、わたくしの麦酒を迎える土台を作ってくれましたの。博覧会では、貴女の喉は何も準備していなかった。今夜は、貴女の料理人が丁寧に耕してくれた後に、わたくしが種を蒔いた。…だから深いのですわ」
サフラン女王は、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。
「…つまり、料理と麦酒は対等だと言いたいの?」
「対等どころか、共犯ですわ。…どちらが欠けても、今夜の味は生まれませんでしたわよ」
女王はしばらく黙っていた。
それから、腕輪をじゃらりと鳴らしながら立ち上がった。
「レオノーラ・フォン・グランツェル! 貴女のこの温度の支配力と、この絶望的なまでの喉越し、我が国の全ての香辛料の利権をかけて、今すぐ全土に普及させることを命ずるわ! 契約よ!!」
「おーほっほっほ! 望むところですわ。…わたくしの物流網に南国のスパイスが加われば、世界の胃袋に死角はありませんわね」
その傍らで、扉のそばに控えていたエリックとリリアが、揃って膝をついていた。
二人は毒味役として一口ずつ料理を口にした後、床に這いつくばってレオノーラの飲み残した麦酒を手探りで探し、それを見つけて一口飲み、そのままの姿勢で動けなくなっていた。
「エリック様。…口の中が、まだ燃えていますわ…」
「でも、あの麦酒を飲んだ後は…不思議と、悪くなかった…」
「認めたくはありませんが、わたくしも…」
二人は顔を見合わせ、同時に目を逸らした。
イリーナがその様子を死んだ魚のような目で眺めながら、新しい設計図を広げた。
「…お嬢様、南国の拠点を作るとなれば、定温コンテナをさらに十基は増産しなければなりませんが」
「ええ、そうですわね。帰路の馬車の中で設計しておいてくださいな」
「…また馬車の中で」
「行きに設計して帰りに組み上げる、貴女の専売特許でしょう」
「専売特許にした覚えはありませんわ」と言いながらも、イリーナの手はすでに鉛筆を動かし始めていた。
晩餐が終わり、サフラン女王との契約が正式に結ばれた後。
レオノーラは与えられた客室の窓辺に座り、一人でジョッキを傾けていた。
砂漠の夜は、昼間が嘘のように冷え込む。空気が澄み渡り、星が手の届きそうな距離で瞬いていた。王都の夜空とは違う、南国の大きな星だ。
扉をノックする音がした。
「…お嬢様、起きていらっしゃいますか」
イリーナだった。
「ええ。入りなさい」
扉が開き、イリーナが二つのジョッキを携えて入ってきた。珍しいことに、設計図を持っていない。
「今夜の残りがコンテナに少しあったので、持ってきましたわ」
「珍しいですわね、貴女から誘うなんて」
「たまには」
向かいの椅子に腰を下ろし、二人は無言で一口飲んだ。砂漠の夜の静寂の中で、苦味がじわりと広がる。
「…新回路、うまくいきましたわね」
「ええ。熱蓄積水晶、想定以上に安定していましたわ。王都に持ち帰れば、夏場の輸送精度が格段に上がります」
「それは良かった」
しばらく沈黙が続いた。砂漠の風が窓を揺らし、遠くで夜の虫が鳴く。
「…お嬢様」
「なにかしら」
「今夜の女王様との話、聞いていましたわ。…料理と麦酒は共犯だ、という」
「ええ」
「…帝国にいた頃のわたくしは、冷却だけを突き詰めていた。何と合わせるか、誰が飲むか、どんな場所で飲むか——そういうことを、考えたことがありませんでしたわ」
レオノーラは、イリーナの顔を見た。
「今は、考えますの?」
「…考えますわ。お嬢様の隣にいると、嫌でも考えさせられますもの」
レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。
「それは良い傾向ですわ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
二人は再び、黙ってジョッキを傾けた。
しばらくして、イリーナが思い出したように言った。
「…そういえば、道中で一通、書状が届いておりましたわ。お嬢様宛です。渡すのを忘れていましたわ」
「まあ。誰からかしら」
イリーナが懐から取り出した封筒は、見慣れない紋章で封じられていた。山と月を組み合わせた、古風な意匠だ。
レオノーラが封を切り、文面を読んだ。
ほんの数行だった。しかし読み終えた瞬間、レオノーラの手が静止した。
「…お嬢様?」
「…イリーナ。貴女、山岳地帯の高地で魔導回路を動かしたことはありますの?」
「…高地? 薄い空気の中では魔力消費が増えますが、対応できなくはありませんわ。…なぜですか」
「次の行き先が決まりましたわ」
レオノーラは書状をイリーナに差し出した。
差出人の名はなかった。ただ、こう書かれていた。
『グランツェルの令嬢よ。汝の麦酒の噂、神の御許にまで届きたり。されど、汝はまだ真の麦酒を知らぬ。我らが百年の沈黙の中で育てた「祈りの一杯」を前に、汝の氷の魔法が通じるか、試してみよ』
イリーナは文面を読み、眉をひそめた。
「…サン・ガルス断絶修道院。まさか、あの伝説の…?」
「ええ。いかなる使者も、王族の書状も、一度として門を開けさせることのできなかった聖域ですわ。…それが、わざわざ書状を寄越してきた」
「…なぜ今更」
「分かりませんわ。だから、行くのですわよ」
砂漠の夜風が、窓を静かに揺らした。
レオノーラは書状を折り畳み、ジョッキを持ち上げた。星空を透かした琥珀色の液体が、かすかに揺れている。
「おーほっほっほ…。百年の祈りが、わたくしを呼んでいますわよ、イリーナ」
「…呼ばれているというより、試されているように読めましたが」
「同じことですわ」
イリーナは深いため息をつき、設計図を取り出した。
「…高地対応の冷却回路、今から設計を始めますわ」
「帰路の馬車の中で構いませんわよ」
「今から始めた方が、到着までに間に合いますわ」
窓の外で、砂漠の夜が静かに更けていく。
星の光の下で、二人は次の旅の準備を始めた。百年の沈黙が守る聖域へ。レオノーラ・フォン・グランツェルの次なる戦場は、この砂漠の夜から、静かに幕を開けようとしていた。




