第12話 スパイス王国の女王からの招待状(中編)
スパイス王国の国境を越えた翌朝、一行は紅蓮宮へと続く街道を進んでいた。
王都アスカーニエンとは、何もかもが違う。空の色が違う。空気の密度が違う。そして何より、鼻腔に飛び込んでくる情報の量が、桁違いだった。
クミン、カルダモン、唐辛子、コリアンダー。それだけではない。レオノーラが嗅いだことのない、名前すら知らない香辛料の薫りが、街道の両脇から絶え間なく押し寄せてくる。市場の屋台では色鮮やかな香辛料が山積みにされ、売り子たちの威勢の良い声が飛び交い、象が荷を背負って悠然と通り過ぎていく。
馬車の窓に顔を近づけ、レオノーラはその一つひとつを丁寧に吸い込んでいた。
「…お嬢様、そんなに窓から身を乗り出すと危ないですわよ」
イリーナが呆れた声で言う。
「うるさいですわ。今、重要なことを考えていますの」
「何をですか」
「このクミンの香り、麦芽の焦げた甘みと合わせたらどうなるかしら。…それからあの赤い香辛料、タマリンドと組み合わせて仕込みに使えば——」
「まだ女王陛下に会ってもいないのに、もうレシピを考えているんですか」
「情報収集と並行して考えるのは、経営者の基本ですわ」
イリーナは深いため息をついて、設計図に視線を戻した。南国の熱気に対応した新しい冷却回路の設計は、道中もずっと続いている。帝国の醸造院にいた頃には想像もしなかった環境での作業だったが、その分、回路設計の幅は日々広がっていた。
後方の馬車では、エリックとリリアが黙々とジョッキを磨いていた。馬車の振動でジョッキが揺れるたびに水がこぼれ、二人の膝は濡れ鼠だ。しかしもはやそれに抗議する気力もなく、ただひたすら手を動かしている。
「…エリック様、あと何個ですか」
「…数えるな、リリア。絶望するだけだ」
「でも、数えないともっと絶望しますわ」
「…それもそうだな」
紅蓮宮が見えてきたのは、午後の日差しが最も強くなる時刻だった。
赤砂岩で築かれた巨大な建造物は、夏の陽光を受けて燃えるような緋色に輝き、そびえ立つ尖塔の先が、白く霞んだ空へと突き刺さっている。城壁には無数の旗が翻り、門の前には黄金の鎧を纏った衛兵が整列していた。
馬車が城門の前で停まると、先触れとして派遣されていた武官が出迎えた。
「グランツェルのレオノーラ様をお迎えします。女王陛下がお待ちです」
「ありがとう。…それで、晩餐の準備は整っていますの?」
「はい。料理人たちは昨日から仕込みを始めております」
「昨日から」
レオノーラは小さく眉を上げた。昨日から仕込みを始めるほどの料理。それがどれほどのものかは、想像するしかない。しかしその想像が、逆に食欲を刺激した。
「イリーナ、コンテナの状態は?」
「…三号と七号が、道中の熱気で魔導回路に負荷がかかっています。今から熱蓄積水晶の組み込み作業を始めれば、晩餐が終わる頃には安定するかと」
「では、荷を下ろし次第すぐに取りかかりなさい」
「はい。…ただ、作業場所をお借りできますか。野外では砂が回路に入り込む恐れがありますので」
武官が頷いた。「厩舎の隣に作業用の小屋があります。そちらをお使いください」
「エリック殿下、リリア様。荷の積み下ろしをお願いしますわ」
二人が無言で馬車から降りた。もはや抗議の言葉すら出てこない。黙って荷を掴み、黙って運び始める。その背中は、旅に出る前よりひとまわり逞しくなっていた。
謁見の間への廊下は、外の熱気とは打って変わって、ひんやりと涼しかった。
壁に沿って等間隔に置かれた香炉から、絶え間なく薫りが立ち上っている。単体では刺激的な香辛料の薫りが、石の冷気に混ざり合うことで、不思議な調和を生んでいた。レオノーラはその薫りの構成を分析しながら、武官の後を歩いた。
「女王陛下は、グランツェル様の到着を心待ちにしておられます」
「そうですか。しかし書状には『期待を裏切れば物流ルートを灰に帰す』とも書いてありましたわね」
「…はい、そちらも本気でございます」
「結構ですわ。わたくし、本気の相手との方が、お話が早くて好きですのよ」
武官は何とも言えない表情で前を向いた。
謁見の間の扉が開かれた瞬間、香辛料の薫りが一段と濃くなった。しかし今度は薫りだけではない。扉の向こうから、熱が押し寄せてくる。料理の熱、香炉の熱、そして——この国の女王が放つ、圧倒的な存在感の熱だ。
サフラン女王は、玉座の前に設えられた長テーブルの上座に座っていた。
博覧会の時に見た、豪奢な絹の衣装。黄金の腕輪をじゃらじゃらと鳴らし、褐色の肌に南国の太陽を宿したその姿は、座っているだけで「この国の中心」であることを全身で語っていた。
テーブルの上には、すでに料理が並び始めていた。
中央に鎮座するのは、昨日から仕込まれたという「炎竜の心臓のスパイス焼き」だ。近づくだけで目が痛んだ。湯気ではなく、辛味成分そのものが空気中に溶け出し、白く霞んでいる。蝋燭の炎が、その辛気に当てられてか、心なしか赤みを増していた。
「よく来たわね、グランツェルの令嬢。…道中は快適でしたか」
「ええ、おかげさまで。貴女の国の香辛料の薫りが、道中ずっと楽しませてくれましたわ」
「ふふ。お世辞がお上手ね」
「お世辞ではありませんわよ。…クミンとカルダモンの配合が、王都周辺とは全く異なる。この国の土と気候が、香辛料そのものを変えているのですわ」
サフラン女王の目が、わずかに細くなった。
「…よく気づきましたわ。我が国の香辛料は、同じ種でも他国のものとは風味が違う。土壌と水と、この太陽の強さが育てるものですの」
「それを麦酒に使えば、どんな一杯ができるか——道中ずっと考えておりましたわよ」
「まあ」
女王は、初めて口元を緩めた。しかしすぐに表情を引き締め、テーブルの料理へと視線を向けた。
「では、本題に入りましょうか。…わたくしが貴女を呼んだのは、博覧会の一杯の続きを確かめるためよ。あの時の超炭酸のドライ・ラガーは、確かに我が喉を驚かせた。…でも、あれは王都の環境で作られたもの。この国の太陽の下で、この料理を相手に、同じことができるかどうか——それを見せてもらいたいの」
「承知しましたわ」
「ただし」
女王の声が、一段低くなった。
「この料理を口にする前に、一つだけ聞いておきたいことがあります。…貴女は、この料理の辛さを甘く見ていないかしら?」
「どういう意味かしら?」
「博覧会では、我が国の料理は出していない。貴女が今夜口にするのは、我が国の宴席で最高位に置かれる一皿ですわ。…これを食した外国人の八割が、一口目で箸を置いている」
「残り二割は?」
「二口目で置くわ」
沈黙が流れた。
扉のそばでその会話を聞いていたエリックとリリアが、揃って顔色を変えた。
「…エリック様、わたくしたち毒味役ですわよね…?」
「…聞こえなかったことにしよう、リリア」
「聞こえてしまいましたわ、しっかりと…!」
レオノーラは二人の会話を背中で聞きながら、サフラン女王に向かって扇子を広げた。
「おーほっほっほ! 面白い前置きですわ、女王様。…ですが、わたくし、辛いものは嫌いではありませんの。…問題は辛さではなく、その辛さの後に何が来るか、ですわ」
「ほう。どういう意味かしら」
「辛さとは、破壊ですわ。味覚を一時的に焼き尽くし、受容体を強制的に開く。…その瞬間に何を流し込むかで、料理が単なる試練になるか、忘れられない体験になるかが決まる。…わたくしの一杯が、その役割を果たして差し上げますわ」
女王はしばらくレオノーラを見つめ、それから低く笑った。
「…気に入ったわ、その答え。では、始めましょうか」
晩餐が始まった。
最初の一皿は、「炎竜の心臓」ではなく、前菜として出された比較的穏やかなスパイス料理だった。それでも、レオノーラの舌には充分な刺激だ。香辛料の複雑な層が、口の中で順番に展開されていく。
「…これは」
「気づきましたか?」
女王が、楽しそうに聞いた。
「…最初にクミンが来て、次いでカルダモン、そして最後に唐辛子の熱が追いかけてくる。…三段階の構成ですわね」
「正解。我が国の料理は、単に辛いだけではない。香辛料をどの順番で、どのタイミングで感じさせるか——それを設計するのが、料理人の技ですの」
「…まるで、麦酒の温度設計と同じですわね」
レオノーラは思わず呟いた。一口目の冷気、二口目の適温、三口目の熱。自分がずっとやってきたことと、まったく同じ思想が、この国の料理には宿っていた。
「女王様。…貴女の料理人は、天才ですわ」
「ええ、知っているわ。だから貴女に試させているの」
前菜が終わり、いよいよ「炎竜の心臓」が運ばれてきた。
皿が近づくにつれ、空気が変わった。辛味成分が、じわじわと目と鼻を刺激し始める。エリックが後退り、リリアが目を白黒させた。
しかしレオノーラは、その皿を真正面から迎え、ゆっくりと香りを確かめた。
「…イリーナ、準備はよろしくて?」
扉の外から、コツコツと壁を叩く音が返ってきた。コンテナの準備が整った合図だ。
レオノーラは微笑み、フォークを手に取った。
「では、始めますわよ。女王様」
その夜の本番は、ここから始まった。




