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第12話 スパイス王国の女王からの招待状(前編)

 博覧会の狂乱が残した「黄金の余韻」がようやく落ち着きを見せ始めた頃のことだ。

 グランツェル公爵家の執務室では、レオノーラ・フォン・グランツェルが分厚い帳簿と向き合っていた。博覧会の収支計算、各国との物流契約の精査、そして新たな醸造レシピの開発メモ。机の上は書類の山で埋め尽くされ、傍らに置かれたジョッキだけが、今日も変わらず黄金色に輝いている。

 そこへ、使用人が一通の書状を恭しく持参した。

 羊皮紙ではなかった。南方の希少な香辛料が練り込まれた、重厚でしなやかな赤色の皮革に記されている。封を切った瞬間に立ち上ったのは、鼻腔を突き抜けるようなクローブの刺激と、燃えるような唐辛子の香りだった。隣に控えていたクラリスが盛大にくしゃみをして部屋の隅へ退き、廊下を通りがかった使用人が咳き込みながら走り去る中、レオノーラだけが微動だにしない。

「…あら。サフラン女王から、直々の果たし状かしら」

 金のペーパーナイフを脇に置き、不敵な笑みを浮かべながら文面を読み進める。太陽の熱量をそのまま閉じ込めたような朱色のインクで、傲岸不遜な言葉が並んでいた。

『レオノーラ・フォン・グランツェルへ。博覧会でのあの一杯、確かに我が喉を驚かせた。だが、貴女の冷たさが我が国の真の炎を完全に制圧できるか否か、それはまだ証明されていない。我が王宮にて供される「地獄の釜の晩餐」を食し、それに合う温度の魔術を再び示してみせよ。もし期待を裏切れば、貴女の物流ルートは我が国の国境にてすべて灰に帰すと知れ』

 レオノーラはしばらく書状を眺め、それからゆっくりとジョッキを傾けた。一口、喉に流し込む。黄金色の液体が喉を下りていく感覚を確かめるように、静かに目を閉じた。

「おーほっほっほ! 灰に帰すですって? 面白いことをおっしゃる女王様だこと」

 扇子をぱちんと鋭く閉じ、窓の外へ視線を向ける。王宮の庭園を覆い尽くさんばかりに青々と繁るホップの蔓が、夏の陽光を浴びてきらきらと揺れていた。

「宣戦布告を受けて立たないようでは、悪役令嬢の名が廃りますわ。…イリーナ!」

 返事は、扉の向こうからくぐもった呻き声のような形でやってきた。

「何ですか、お嬢様。今、魔導回路の修繕中ですわ…。先週の博覧会で焼き切れた箇所が、まだ三十七か所も残っておりますのに…」

「後回しですわ。今すぐここへ」

 どすどすと重い足音がして、扉が開いた。作業用エプロンを纏い、額に煤をつけたイリーナが、不満を隠しもせずに立っている。

「何でしょうか。…あ、その書状、もしかしてサフラン女王から…?」

「ご名答。…次の戦場は南国ですわ、イリーナ。砂漠の果て、太陽が最も近くに座す場所。…貴女の冷却技術を総動員し、灼熱の砂嵐の中でもマイナス一度を絶対維持できる特注の装甲コンテナを、今から二週間で十基完成させなさいな」

 沈黙。

「…十基」

「ええ」

「…二週間で」

「ええ」

「…南国の熱気の中で、マイナス一度を維持し続ける装甲コンテナを、十基」

「話の飲み込みが早くて助かりますわ」

「殺す気ですか!!」

 イリーナの絶叫が、執務室に響き渡った。書類の山がびりびりと震え、ジョッキの表面に細かな波紋が広がる。

「南国の熱気の中では、魔力消費が通常の三倍になるんですよ! その環境でマイナス一度を維持し続けるなんて、帝国でも国家プロジェクト級の話ですわ! それを二週間で十基なんて、人間に頼む仕事じゃありませんわ!!」

「だからこそ、貴女に頼んでいるのですわよ」

「褒め言葉になっていませんからね!?」

「死ぬ気で魔力を練れば、新しい回路が開けるものですわ。…それに、南国へ向かう道中は馬車の中で休めますもの。行きの二週間で回路を作り、現地で組み上げる。充分でしょう?」

「行きに二週間かけながら作業して、その後に現地で組み上げる…。つまり、休む時間がどこにもありませんね?」

「鋭い洞察力ですわ」

 イリーナは天を仰いだ。帝国の醸造院で芸術を追求していた日々が、はるか彼方の遠い星のように思える。

「…分かりましたわ。やります。やればいいんでしょう、やれば」

「さすがですわ、イリーナ。では材料の調達リストを今夜中に—— 」

「今夜中!?」


 翌日、川辺ではエリックとリリアが今日もジョッキを磨いていた。

 八十万個の洗浄という途方もない刑罰を科されてから数日。二人の手はすっかり荒れ、貴族らしい白い指先は今やタールと石鹸水で赤く染まっている。

「エリック様…。指の感覚が、もう…」

「黙って磨け、リリア…。あと七十九万八千個だ…」

「残りの数を言わないでくださいまし…! 絶望が増すだけですわ…!」

 そこへ、レオノーラが颯爽と現れた。その表情は晴れやかで、どこか遠くを見ている。

「ごきげんよう、お二人さん。手を止めてよろしくてよ」

 エリックとリリアが、条件反射のように身を固くした。レオノーラがこういう顔をする時は、決まって碌なことがない。

「…何ですか」

「南国への遠征に、随行していただきますわ。荷物持ちとして。それから毒味役として。…道中でジョッキを磨き続けていただいても構いませんわよ?」

「南国…!?」

「スパイス王国まで、馬車で二週間の旅ですわ。…ああ、ご安心なさいな。旅費はわたくしが持ちます。その代わり、現地でのあらゆる雑務をお任せしますわ。荷の積み下ろし、コンテナの搬入、そして必要があれば試食も」

「試食って、あの書状にあった『地獄の釜の晩餐』の…?」

「そうですわ。…サフラン女王の料理は、最初の一口で失神する者も珍しくないと聞きますわね。そういう意味でも、毒味役は重要なお仕事ですわよ」

 リリアが、ジョッキを手にしたまま石畳に崩れ落ちた。


 出発の朝。

 王宮の正門前には、レオノーラが手配した四台の頑丈な馬車が並んでいた。先頭の一台はレオノーラとイリーナが乗る指揮車両、二台目と三台目には建造途中の装甲コンテナの部材が山積みにされ、最後尾の一台には——エリックとリリアと、まだ磨き終えていないジョッキの山が押し込まれていた。

「ちゃんと磨き続けるのですよ、道中も」

「馬車の中で!?」

「振動で水がこぼれますわよ!?」

「工夫しなさい。独創性も、悪役令嬢に随行する者の必須能力ですわ」

 カイルが馬の手綱を握りながら、無言でレオノーラの横顔を見た。

「…本当に行くのか、あの灼熱の地へ」

「当然ですわ。サフラン女王の挑戦を無視するなど、わたくしの矜持が許しませんもの」

「イリーナの魔力が、途中で尽きたら?」

「尽きる前に補充すればよろしい。…わたくしの特製スタウト、二十本分は積んでありますわ」

「魔力回復に麦酒を使うのか…」

「一石二鳥ですわ」

 カイルはそれ以上何も言わず、手綱を鳴らした。

 馬車が動き出す。王都の石畳が後ろへ流れ、やがて城門をくぐり、南へと続く街道へと踏み出していく。

 レオノーラは窓から王都を振り返り、遠ざかるホップの蔓を眺めながら、静かにジョッキを傾けた。

「…さあ、参りますわよ。灼熱の砂漠の向こう側へ」

 車輪が街道の石を踏み鳴らし、一行は南へ向かって走り出した。

 スパイス王国の太陽が、まるで来訪者を嘲笑うかのように、遥か南の空で燃え盛っていた。

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