幕間 黄金の嵐の陰で、砂糖菓子は静かに溶ける
王都アスカーニエン全域を飲み込んだ「世界麦酒博覧会」。その熱狂は、もはや一つの祭典という枠組みを超え、都市そのものを巨大な蒸留器へと変えていた。
広場を埋め尽くす数万の群衆、次々と打ち抜かれる木樽の乾いた音、そして太陽の光を浴びて黄金色に輝く麦酒の飛沫。レオノーラ・フォン・グランツェルが指揮するその狂乱は、暴力的なまでの「喉越し」をもって、人々の理性と喉を等しく焼き尽くしていた。
だが。
その熱狂の濁流からわずかに外れた、広場の北西——ゴミ集積所のほど近くにある薄暗い死角に、場違いなほど優雅で、そして場違いなほど貧相な一軒の屋台があった。
「…リリア。本当に、これで勝てると思うか?」
エリック王太子は、高級な絹の袖を肘まで捲り上げ、慣れない手つきで小鍋をかき混ぜながら、不安げに周囲を窺った。彼の前には、高貴な香りを放つ最高級ハーブ「ルミナス・ミント」の束と、たっぷりの蜂蜜、そして繊細な装飾が施された砂糖菓子が並んでいる。
「もちろんですわ、エリック様。…ご覧なさい、あの野蛮な光景を。人々は皆、レオノーラの毒々しい苦い酒に喉を焼かれ、脂ぎった肉を貪り、心身ともに疲れ果てています。そこへ、わたくしたちの『癒やしと清涼のハーブティー』と、『宝石のような砂糖菓子』を差し出すのですわ。これこそが真の王道。疲れ切った人々は、砂漠のオアシスを求めるように、こちらへ這い寄ってくるはずですわ!」
リリアは、フリルをたっぷりとあしらったエプロンを翻し、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
二人の計画はこうだ。レオノーラが提供する「刺激」と「苦味」で極限まで痛めつけられた人々の味覚に、真逆の「甘美」と「癒やし」を提供することで、支持を一気に奪い取る。名付けて、『王道・聖域作戦』。
「なるほど。…確かに、あの苦い酒は飲み続ければ喉が痛むはず。そこに、僕たちが丁寧に淹れた芳醇なティーがあれば…。よし、看板を出せ! 『王太子特製・魂を洗う雫』だ!」
博覧会二日目の正午。気温が上がり、広場の熱気は最高潮に達していた。
「…あ、喉が…。喉が焼けるようだ…!」
一人の筋骨逞しい近衛騎士が、ふらふらとした足取りで屋台の前にやってきた。午前中だけでレオノーラの「瞬間冷却ラガー」を五ジョッキ煽り、シュヴァイネハクセの暴力的な脂に胃を完全に掌握された男だ。
「いらっしゃいませ、勇敢な騎士様」
リリアが、鈴の鳴るような声で話しかける。
「麦酒の苦味でお疲れではありませんか? 淑女の慈愛がこもった、こちらの『ミントと蜂蜜の特製ティー』をどうぞ。貴方の荒んだ胃袋を、優しく包み込んで差し上げますわ。…付け合わせの砂糖菓子もご一緒に」
騎士は朦朧とした意識のまま、繊細なカップを手に取った。温かく、甘い。ハーブの香りが鼻腔をくすぐる。
だが。
「…甘い。…温い。…香りが、邪魔だ…っ!!」
騎士は一口飲んだ瞬間、悲鳴のような声を上げてカップを置いた。
「な、なんですって!? 貴方、これが最高級ハーブだと分からないの!?」
リリアが驚愕に目を見開くが、騎士の瞳には、飢えた獣のような光が宿っていた。
「違う…! 俺が今求めているのは、そんな優しさじゃないんだ! 喉を切り裂くような炭酸のキレ! 脳を震わせるホップの苦味! そして、そのすべてを洗い流す絶対零度の冷気だ! こんな温い砂糖水、飲んでいられるか! どこだ、レオノーラ様の一杯はどこだぁぁっ!!」
騎士は叫びながら、再び麦酒の噴水へと駆け戻っていった。
「…な、な…っ。なんですの、あの無作法な男は!」
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
次にやってきた海洋都市の商人たちも、西方の美食家たちも、一様に二人の屋台の前で足を止めるが、メニューを見た瞬間に顔をしかめて去っていく。
「…おいおい、この暑い中で温かいティーだと? 正気か?」
「砂糖菓子? 冗談だろう。脂の乗った肉の後には、さらに苦いエールをぶつけるのが正解だよ。あの令嬢が言っていた通りだ、『甘えは味覚の死』ってな!」
広場から聞こえてくるのは、レオノーラの高笑いと、ジョッキが触れ合う地鳴りのような音だけだ。
「おーほっほっほ! 皆様、喉の乾きを『優しさ』で誤魔化してはいけませんわ! 真の救済は、この冷徹なキレの向こう側にしかありませんのよ!」
その声が響くたびに、エリックとリリアの屋台からは、物理的に温度が奪われていくようだった。
三日目の夕刻。
屋台の周囲には、売れ残った砂糖菓子が夏の熱気で無残に溶け、べたべたとした甘い溜まり場を作っていた。ルミナス・ミントの束は萎れ、芳醇だったはずの香りは、広場を支配する「肉の焦げる匂い」と「麦芽の発酵臭」に完全に敗北し、異臭となって漂っている。
「…エリック様。売上は、どうなりましたの?」
リリアが、煤けたエプロンで額の汗を拭いながら尋ねた。
エリックは、震える手で売上箱を開けた。
「…銅貨、三枚だ。…それも、道に迷った子供が間違えて置いていったものだ…」
二人は、膝から崩れ落ちた。
目の前を、黄金色の海が通り過ぎていく。レオノーラが監修した移動式サーバーを背負った給仕たちが、飛ぶように麦酒を売り捌き、人々は銀貨を惜しげもなく投げ合っている。そこには、二人が信じた「王道の優雅さ」など微塵もなかった。あるのは剥き出しの食欲と、それを極限まで増幅させるレオノーラの冷徹な計算だけだった。
「…なぜ。わたくしたちの方が、ずっと高潔で、体に良いものを作っているのに。…なぜ、あんな苦くて冷たいだけの水に、世界が跪くのですわ…」
リリアが震える声で呟いたその時。
「おーほっほっほ! まだそんなことをおっしゃっているのかしら、お二人さん」
影が差した。
振り返れば、博覧会を完全制覇し、勝利の女神のようなオーラを纏ったレオノーラが立っていた。その背後には、死んだ魚のような目をしたイリーナと、数十人の近衛騎士が粛々と控えている。
「…レ、レオノーラ。嘲笑いに来たのか…」
「嘲笑う? いいえ、わたくしは『請求』しに来ましたのよ」
レオノーラは帳簿をぱらりと開き、指先でとあるページを叩いた。
「殿下、この屋台の設置場所は、本来わたくしの瞬間冷却氷室を置く予定だった場所ですわ。そこを無断で占拠し、さらにこの甘ったるい匂いで、わたくしの繊細なビールの香りを三日間にわたって妨害した罪。…その損害、金貨五千枚で手を打って差し上げますわ」
「金貨、五千…!?」
エリックの顔が、今度こそ紙のように白くなった。
「払えないとおっしゃるなら、別の解決策もありますわ。…ちょうど、博覧会で汚れた八十万個のジョッキが、貴方たちを待っていますの。一つ一つ、真心込めて、手作業で磨き上げていただきますわ。魔道具の使用は禁止です。…ああ、仕上がりが雑なものはやり直しを命じますわよ」
レオノーラは溶けた砂糖菓子を一瞥し、冷たく付け加えた。
「甘いものは、勝った後にだけ許される贅沢。…戦場に持ち込むのは、ただの『隙』ですわ。…さあ、洗い場へご案内しなさいな」
「ひっ…! 離してくださいまし! わたくしは聖女に…聖女になるはずでしたのにぃぃー!」
「レオノーラ! 覚えていろよ! ジョッキを全部割ってやるからなぁぁー!」
二人の悲痛な叫びは、数万人の「乾杯!」の声にたちまちかき消された。
溶けた砂糖菓子のように、二人のプライドはアスカーニエンの石畳へと静かに消えていった。残ったのは、レオノーラの高笑いと、どこまでも深く重厚な、麦酒の余韻だけだった。
こうして博覧会は幕を閉じた。
黄金の嵐が去った後、王都に残ったのは、八十万のジョッキと、それを洗い続ける二人の王族のすすり泣きであった。




