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第10話 世界麦酒博覧会への招待状(後編)

 博覧会二日目の正午。

特設会場の扉が再び開かれた瞬間、昨日とは明らかに異なる空気が流れ込んできた。各国の代表たちの目に、昨夜とは違う光が宿っている。好奇心ではなく期待だ。前夜の一杯が、彼らの喉に確かな「続き」を刻み込んでいた。

 サフラン女王が真っ先に席についた。昨日と同じ最前列、しかし今日は背筋をまっすぐに伸ばし、両手をテーブルの上に置いて待ち構えている。その隣では、ルチアーノが顎髭を撫でながら「さて今日は何が来るか」と目を輝かせていた。イリーナだけが、やや離れた席で腕を組み、わずかに緊張した面持ちで正面を見つめている。

 カウンターの奥で、レオノーラはジョッキを磨いていた。

 いつも通りの所作で、いつも通りの表情で。しかし今日の彼女の周囲には、昨日とは異なる種類の静けさが満ちていた。それに気づいたカイルが、少し離れた席からその横顔を眺め、小さく息を吐いた。

「…今日は、何をするつもりだ」

「昨日は、それぞれの喉に『個別の一杯』を差し上げましたわ。…今日は、全員に同じ一杯を差し上げますわよ」

「同じ一杯を? 国も気候も体質も違う者たちに?」

「ええ。…世界中の喉を同時に鳴らす一杯。それがわたくしの本日の演目ですわ」

 カイルは何も言わなかった。ただジョッキを傾け、静かに成り行きを待った。


 レオノーラが演壇へと歩み出たのは、正午の鐘が鳴り終わった直後だった。

 会場が、自然と静まり返る。

「皆様。昨日は、それぞれのご出身に合わせた一杯を差し上げましたわ。貴女方の喉が何を求めているか、どんな温度に最も美しく反応するか。それを確かめるための、いわば試奏でしたの」

 サフラン女王の眉が、わずかに上がった。

「試奏、ですって。昨日のあれが、まだ本番ではなかったと?」

「ええ。今日が、本番ですわ」

 レオノーラは静かに振り返り、カウンターの奥に鎮座する「特別な樽」へと手をかけた。

 その樽は、昨日まで会場に並んでいたものとは明らかに異なっていた。木材の色が深く、表面には細かな魔法陣が刻まれ、周囲の空気を僅かに歪ませるほどの何かを内包している。イリーナが二週間かけて設計した精密な定温回路が、樽の内側を完璧に支配していた。

「これは、わたくしが此度の博覧会のために、一から設計した麦酒ですわ。名前はまだありません。…なぜなら、この一杯は今夜、皆様の喉の上で初めて、その名を与えられるはずだから」

 会場がざわめいた。

「イリーナ」

 レオノーラが静かに呼ぶ。

「…はい、お嬢様」

 イリーナが席を立ち、カウンターへと向かった。彼女の指先に魔力が灯り、樽に刻まれた魔法陣が呼応するように青白く輝く。樽の内部温度が、コンマ一度単位で調整されていく。

「…温度、設定完了しました。誤差なし」

「結構ですわ」

 レオノーラはジョッキを手に取り、樽の栓を引いた。

 流れ出した液体は、これまでの黄金色とも、琥珀色とも異なっていた。深い、深い——秋の夕暮れのような、赤みを帯びた褐色。それがジョッキを満たしていく様子を、会場全員が息を詰めて見つめていた。注ぎ終わった瞬間、細かな泡が静かに立ち上り、表面に薄い白い層を作る。

 香りが、広がった。

 最初に来たのは、ホップの凛とした苦みの気配。次いで、深く焙煎された麦芽の香ばしさ。そして最後に、ほんのわずか——蜂蜜と、木の実を思わせる、甘く温かな残り香。

 サフラン女王が、思わず目を閉じた。

「…これは」

「まだ飲んでいませんわよ、女王様」

「分かっているわ。…でも、香りだけで、もう」

 給仕たちが、同じ一杯を会場全員に配り始めた。各国の代表へ、随行員たちへ、そして——カイルとクラリスへ。来賓席の隅では、エリックとリリアの前にも、一脚ずつそっと置かれた。

「レオノーラ様、わたくしたちにも…?」

「飲まないとおっしゃるなら、別に構いませんわよ」

 エリックは渋い顔でジョッキを見つめ、それからリリアと視線を交わした。


 全員のジョッキが揃った。

「この一杯は、特定の国の喉のために作ったわけではありませんわ。…砂漠の乾きにも、北国の凍えにも、海の潮気にも、等しく応える温度で引き締めてあります。…理屈は、後でいくらでも説明して差し上げますわ。今は、ただ飲んでくださいまし」

 レオノーラは自らもジョッキを手に取り、会場を見渡した。

「世界中の喉が、一つの真実に辿り着くために。…乾杯」

 その一言が、静かに落ちた。

 全員が、一斉にジョッキを傾けた。


 沈黙が来た。

 一口目を飲み込んだ瞬間、会場の全員が——同じタイミングで、動きを止めた。

 最初に声を上げたのは、ルチアーノだった。

「…ッ、ハッハッハ!!!」

 豪快な笑い声が、会場の天井に弾けた。しかしそれは、いつもの軽口を叩く笑いとは違った。何か、胸の奥底から突き上げてくるものを、笑い声という形でしか表現できなかったような…そういう笑いだった。

 サフラン女王は、笑わなかった。その代わり、目を閉じたまま、ゆっくりともう一口飲んだ。そしてまた一口。ジョッキが空になった時、女王はようやく目を開き、天井を見上げて、静かに呟いた。

「…砂漠に、雨が降ったわ」

 誰も、その言葉の意味を問わなかった。全員が、それぞれの胸の中で、同じような何かを感じていたからだ。

 イリーナは、両手でジョッキを包むように持ち、額をそっと当てていた。冷たいはずのジョッキが、不思議と温かく感じられる。彼女の指先が、かすかに震えていた。

 カイルは無言のまま飲み干し、静かにジョッキをテーブルに置いた。その目が、一瞬だけ潤んだように見えたが、誰も指摘しなかった。

 クラリスは、泣いていた。声も上げず、ただ涙をぼろぼろとこぼしながら、それでも二口目、三口目と飲み続けている。


 来賓席の隅で、エリックはジョッキを空にしたまま、しばらく動けなかった。

 隣でリリアが、信じられないものを見る目でエリックを見ている。

「エリック様。今、泣いていらっしゃいます?」

「…泣いていない」

「でも、目が」

「泣いていないと言っている」

「わたくしも、泣いていませんわよ」

「…分かっている」

 二人は、揃ってジョッキの底を見つめた。そこには、最後の一滴が揺れている。

「…なぜ、こんなものが作れるんだ、あの女は」

 エリックの声は、怒りでも悔しさでもなくただ、純粋な問いだった。

 リリアは答えなかった。いや、答えられなかった。


 会場が、ゆっくりと息を吹き返し始めた頃。

 最初に立ち上がったのは、サフラン女王だった。

 女王はレオノーラに向かって歩み寄り、その前に立ち、黄金の腕輪をじゃらりと鳴らした。

「…名前を聞かせなさい。この一杯の」

「まだ決めておりませんの。今夜、皆様の喉の上で決まると申し上げましたでしょう? …何がよろしいかしら、女王様」

 サフラン女王は少し考え、それから口角を上げた。

「『地平線』がいいわ。…どこにいても、必ず見える。そして、どこからでも、同じように美しい」

 会場が、静かな拍手で満たされた。

 レオノーラは扇子を広げ、口元を隠しながら、満足げに微笑んだ。

「…結構ですわ。では本日より、この一杯の名は『地平線』。…世界中の喉へ、届けて差し上げますわ」

 その夜、博覧会の特設会場は夜が更けても灯りが消えなかった。

 三カ国の代表が、同じテーブルで「地平線」を傾けながら、言葉の壁など忘れたように笑い合っている。その光景を、カウンターの奥からレオノーラはいつもの目で眺めていた。

 ジョッキを磨く手が、今日も静かに動いている。


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