第10話 世界麦酒博覧会への招待状(中編)
博覧会開幕の朝、王都アスカーニエンは夜明け前から異様な熱気に包まれていた。
北門からは、氷結帝国の重厚な魔導馬車が粛々と連なり、その周囲だけ真夏の空気が音もなく凍りついている。南門からは、サフラン女王率いる「スパイス王国」の一団が、象が引く極彩色の車列とともに砂塵を巻き上げながら入城した。そして西の港からは、「海洋都市国家ヴェネルカ」の総督、ルチアーノ・マルヴァジアが、金銀刺繍の絹マントを潮風に翻しながら桟橋を闊歩している。
三者三様の「冬」「夏」「潮風」が、王都の石畳の上で正面衝突した。
「ッ、寒い! なんですの、この冷気は! 砂漠育ちのわたくしに、この仕打ちは失礼にもほどがありますわよ!」
サフラン女王が、黄金の腕輪をじゃらじゃらと鳴らしながら、前方を歩くイリーナの一団を鋭く睨みつけた。褐色の肌に纏った薄絹の衣装では、フロストヴァルトの魔力冷気はあまりに堪える。
「文句があるなら、適切な防寒具を用意してから来ることね。氷の民にとって、これは通常気温ですわ」
イリーナが振り返りもせずに言い放つ。彼女の吐く息が白く凍り、サフラン女王の方へゆるゆると流れていった。
「ほぅ…氷の御令嬢、ずいぶんと冷たいご挨拶ですな! ここはひとつ、この海の男ルチアーノが仲裁して差し上げましょうか?」
そこへ、港から上がったばかりのルチアーノが、恰幅の良い体を揺らしながら割って入った。顎髭を撫でて豪快に笑う。
「わたしの港では、北の民も南の民も、ジョッキを一つ空ければ兄弟だ! ハッハッハ!」
「…海の商人風情が、帝国の外交に口を挟まないでくださる?」
「おお、怖い怖い! 氷の姫君は、笑い方もお忘れになったのかな?」
イリーナの眉がぴくりと跳ね上がった。周囲の石畳に、みるみる霜が走る。サフラン女王の護衛たちが一斉に槍に手をかけ、ヴェネルカの水兵たちが面白そうにその様子を眺め、帝国の近衛兵が静かに剣の柄に触れた。
王宮のバルコニーから、その一部始終を眺めていたエリックが、深いため息をついた。
「なんだ、あの集団は。開幕前から、外交問題が発生しているぞ」
「エリック様。朝から頭が痛いですわ…」
リリアが青い顔でこめかみを押さえている。
広場の混乱を、特設会場の入口に立ちながら眺めていたレオノーラは、扇子をぱちんと閉じた。
「…クラリス」
「は、はい!」
「開場ですわよ」
「神の喉越しが、世界を繋ぐ瞬間ですわ——!!!」
クラリスが目を爛々と輝かせて扉を開け放つ。
王宮の大広間を改装した「世界麦酒博覧会・特設会場」に、三カ国の代表団が雪崩れ込んだ瞬間——全員の足が、一斉に止まった。
天井まで届く巨大な木樽が、左右に整然と並んでいる。その間を縫うように走る長テーブルには、磨き上げられたジョッキが兵隊のように隙間なく並べられ、燭台の明かりを受けてきらきらと輝いていた。貴族の晩餐に相応しい繊細な食器も、高価なリネンも、どこにも存在しない。代わりに鎮座しているのは、岩塩の塊と山のように積み上げられたプレッツェル。そして、会場の奥から絶え間なく漂ってくる、肉の焼ける香ばしい薫りだ。
「…これが、博覧会の会場?」
サフラン女王が眉をひそめた。
「わたしはてっきり、もっとその…格式ある晩餐を想像していたのだが」
ルチアーノが首をかしげる。その隣でイリーナは無言のまま、ただ品定めするように会場を見渡していた。
「格式なら、王宮に腐るほどございますわ。つまらなければ、どうぞご自由に帰還なさいまし」
レオノーラの声が、会場の奥から涼やかに響いた。
三カ国の視線が、一点に集まる。
カウンターの中に立つレオノーラは、今日も変わらず優雅にジョッキを磨いていた。最高礼装である深紅のドレスに身を包みながら、その手元だけは、職人のように淀みなく動いている。背筋はまっすぐ、表情は涼しく、周囲の喧騒を歯牙にもかけない。
「ようこそ、世界の皆様。本日は、肩書きも国境も、いったん棚の上に置いていただきますわ。ここにあるのは、ジョッキと、それを傾ける喉だけ。それ以上でも、それ以下でもありません」
サフラン女王が、面白そうに口角を上げた。
「……大きく出ましたね、グランツェルの令嬢。よろしい、その言葉、受けて立ちましょう」
「ハッハッハ! わたしは最初からそのつもりだ!」
ルチアーノが豪快に笑いながら、一番近くの椅子に体を投げ出す。イリーナはしばらく躊躇した後、最も端の席に、背筋を伸ばして腰を下ろした。
最初の一杯が配られた瞬間から、会場の空気が変わった。
レオノーラがサフラン女王へ供したのは、超炭酸のドライ・ラガーだった。砂漠の気候と、常に体内に溜め込まれた「熱」を計算し抜いた、スパイス王国のための一杯だ。女王が一口煽るなり、じわじわと広がる苦味が、熱を鮮やかに洗い流し、思わず目を閉じさせた。
「……っ。なるほど。砂漠の乾きを、これほど的確に突いてくる麦酒は、初めてですわ」
続いてルチアーノへは、海塩と柑橘のニュアンスを持つ、潮風を思わせるゴーゼを。一口含んだ瞬間、彼は両手を大きく広げて笑い声を上げた。
「ハッハッハ! これは、わたしの故郷の港の夕暮れだ! どうやって分かった、令嬢!」
「貴方の日焼けした首筋と、まとわりつく潮の香りを嗅げば、自ずとわかりますわ」
「いやはや、鼻まで利くのか!」
そしてイリーナへは——レオノーラは無言で、深い琥珀色のバーレイワインを差し出した。アルコール度数が高く、干し葡萄と蜂蜜を思わせる複雑な甘みを持つ、急かず時間をかけて飲むべき一杯だ。
「これは?」
「氷の国の冬は長い。…貴女はずっと、急ぐことばかりを覚えさせられてきたのではないかしら。今日くらいは、ゆっくりと飲みなさいな」
イリーナが、珍しく言葉に詰まった。その白い指が、ゆっくりとジョッキに伸びる。
その様子を見ていたサフラン女王とルチアーノが、示し合わせたように笑い出した。
「あの氷の姫君が、黙り込むとは!」
「令嬢、あなたは魔法使いより、よほど恐ろしい」
やがて各国の随行員たちにも次々と一杯が配られ、会場はたちまち喧騒に包まれた。
ついさっきまで険しい目で睨み合っていたフロストヴァルトの近衛兵とスパイス王国の護衛が、同じテーブルでジョッキを傾けている。ヴェネルカの商人がプレッツェルを頬張りながら、隣の帝国文官と身振り手振りで何かを語り合っていた。言葉は通じなくとも、ジョッキを掲げれば「乾杯」の意味は伝わる。それだけで十分だった。
壁際でその光景を眺めていたカイルが、静かに己のジョッキを口に運んだ。
「…恐ろしい女だ」
隣に立つクラリスが、目に涙を浮かべながら深く頷いた。
「神の御意志は、喉越しにあり! 国境すら、一杯で溶かしてしまわれるとは…!」
その頃、来賓席の隅では、エリックとリリアが揃って膝に手を置き、呆然と広間を見渡していた。外交の場で半日かけても生まれないような空気が、たった一杯のビールで、呆気なく出来上がっている。
「…なぜだ。なぜ、こうなる」
「エリック様。わたくし、もう、何も分かりませんわ…」
リリアが虚ろな目でプレッツェルを一口齧った。塩気が強すぎて、眉が寄る。その瞬間、隣のヴェネルカの商人がニカッと笑い、ジョッキを差し出してきた。
「これを飲めば、塩気が丁度よくなるぞ!」
リリアは反射的に受け取り、一口飲み——目を丸くした。
「リリア、お前、今…」
「ち、違いますわ! これは、その、喉が渇いていただけで…!」
会場の奥から、高らかな笑い声が響く。
「おーほっほっほ! 世界は、一つのジョッキから始まりますのよ!」
レオノーラが夕暮れに染まり始めた会場を見渡しながら、新たな樽へと手をかけた。その横顔は、いつになく晴れやかで——カウンター越しに、誰よりも楽しそうだった。
世界麦酒博覧会、第一日目の夜。
王都は史上初めて、三カ国の笑い声と乾杯の音で夜を迎えた。だが、これはまだ幕開けに過ぎない。レオノーラが真に仕掛ける「喉越しの宣戦布告」は、明日の正午——博覧会の本舞台で、ようやく幕を開けるのだ。




