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第10話:世界麦酒博覧会への招待状(前半)

 イリーナ・フロストヴァルトが「最高冷却責任者」として着任してから、七日が経った。

 王都アスカーニエンの地下深く、かつては王室の秘密貯蔵庫として静寂に包まれていた巨大な空間は、今や「世界の喉を支配するための心臓部」へと変貌を遂げていた。石造りの高い天井には、レオノーラの氷魔法とイリーナの精密な魔導回路が複雑に絡み合い、青白い燐光を絶え間なく放っている。その幻想的な光の下で、数百という木樽とガラス瓶が、出撃を待つ兵士のように整然と並んでいた。

「お、お嬢様……。今週で、もう、指先の感覚が、ありませんわ」

 かつての白銀の軍服を脱ぎ捨て、泥と霜に汚れた作業用エプロンを纏ったイリーナが、巨大な冷却魔導陣の前で膝をついた。彼女の周囲には、レオノーラが考案した新型の「魔法定温輸送コンテナ」が高々と積み上げられている。その一つひとつが、イリーナの絶え間ない魔力供給によって、内部温度マイナス二度という絶対的な静寂を維持していた。

「あら、イリーナ。帝国の主席醸造官ともあろうお方の魔力が、たった一週間の実務で底をつくなんて。随分と平和な環境でお育ちになったのね」

 レオノーラは磨き上げたジョッキを傾け、琥珀色の液体をゆったりと喉に流し込みながら、涼しい顔で言い放った。

「平和……!? 帝国では、これほどの高密度な魔力運用は、十人がかりの国家儀式でしか行いませんわよ!? それを一人で、しかも七日間連続で!」

「だから貴女を十人分の値段で買い取って差し上げたのですわ。費用対効果という言葉、ご存知かしら?」

「知っていますわよ!!」

 イリーナが震える拳を床に叩きつけるが、レオノーラはどこ吹く風だ。

「いいですか、イリーナ。このコンテナはこれから、南方の灼熱の砂漠を越え、スパイス王国まで二十日間の長旅を耐え抜かねばなりませんの。内部温度はマイナス二度、湿度は六十パーセント。一秒の狂い、一度の揺らぎも許しませんわ。鮮度が落ちれば、それはただの色のついた水。わたくしの名誉を汚す不届きものですわよ」

「分かっていますわ。分かっていますけれど……!」

「結構。では、泣き言を言う暇があるなら、その指先から至高の冷気をお出しなさい。……それとも、魔力回復エールが必要かしら?」

 レオノーラが差し出したのは、漆黒のスタウトだった。深いコクと強烈な苦味の中に、魔力触媒を高濃度で配合したレオノーラ特製の「作業員向け一杯」である。イリーナはそのジョッキを奪い取るように受け取り、一息に飲み干した。喉を鳴らして熱い吐息を漏らし、震える手を再び魔導回路へとかざしながら、絞り出すように呟く。

「覚えていらっしゃい、レオノーラ様。いつか必ず、貴女を私の絶対零度でカチコチに凍らせて——私の専属小作人にして差し上げますわっ」

「おーほっほっほ! 威勢の良いことですわ。ですがその冷気は、今すぐコンテナに注ぎ込みなさい。…物流こそが、世界の喉を鳴らすための最短ルートなのですから」


 レオノーラが見据えているのは、王国内の流通などではなかった。

 彼女が今、着々と準備を進めているのは「定温輸送」という前代未聞の概念を世界へ確立し、それをもって各国の王族・権力者を王都へ引きずり出す——『第一回・世界麦酒博覧会』という、途方もない計画だった。

 イリーナの魔力と、レオノーラの氷魔法を組み合わせた「魔法定温輸送コンテナ」は、どれほど遠隔地へ運ばれようとも、内部の温度を一定に保ち続ける。つまり王都で注いだキンキンに冷えた一杯が、砂漠の向こうの王族の手元に届いた時も、全く同じ温度で、全く同じ鮮度で、その喉を鳴らすことができるのだ。

 レオノーラは夜通しかけてその特性を各国の王族に合わせた「特注の一杯」に仕立て上げ、博覧会への招待状とともに、世界中へ向けて一斉に発送した。


 一方、王宮のテラスでは。

「エリック様。見てください。あんなに素敵だったバラ園が。すべて、あの忌々しいホップの蔓に覆い尽くされてしまいましたわ……」

 リリアが真珠のハンカチを握りしめ、涙ながらに訴えた。かつて優雅な香りが漂っていた庭園は、今や力強く伸びるホップの緑と独特の苦い薫りが支配する「軍事農園」と化している。

「父上も父上だ……! レオノーラが『物流こそが国家の要、麦酒こそが外交の鍵です』と囁いただけで、近衛騎士団の半分を樽の護衛に回すなどと。わが国の精鋭が、今や剣ではなく樽を守るために訓練しているのか!」

 エリックが手すりを叩くが、その声は空虚に響くだけだった。王宮の食堂からは繊細なフレンチの香りが消え、常に肉の焼ける匂いと脂の薫りが漂っている。仕事終わりの騎士たちが上げる「乾杯!」の地鳴りのような唱和が、夜ごと王宮の格式を粉々に砕き続けていた。

 そこへ、一人の伝令が血相を変えて駆け込んできた。

「エリック殿下! 重大報告です! レオノーラ総監より、全隣国へ宣戦布告……いえ、親書が発送されたようで!」

「親書? あの女、今度はどこへ喧嘩を売った」

「それが……南方のスパイス王国、西方の海洋都市国家ヴェネルカ、そして北方の氷結帝国——すべての国家に対し、『至高の喉越しと、それに溺れる三日間を約束する』として、王都への招待状を送りつけたようです! しかも、ただの紙ではなく、それぞれの王族の好みに合わせた特注の一杯を、魔法のコンテナに詰めて同時に発送したとのことで!」

「……博覧会だと?」

 エリックとリリアは、顔を見合わせた。レオノーラが一本のジョッキを外交の杖に変え、世界の地図そのものを塗り替えようとしていることを、二人はまだ理解できていなかった。


 数日後。レオノーラの放った「招待状」は、世界中の権力者のもとへ、文字通り「冷えたまま」届けられた。

 南方の砂漠を統べるスパイス王国の女王、サフランは、焼けつくような酷暑の中で届いた魔法のコンテナを前に、疑念の目を細めた。

「……馬鹿な。グランツェルからここまで、早馬でも十日はかかる。どのような魔法を使おうとも、届く頃には温い腐り水に変わっているはずだ」

 だが、ドーム状の蓋が開かれた瞬間、白く冷たい霧が立ち上り、女王の疑念を吹き飛ばした。

 そこには、表面に薄っすらと汗をかいた、キンキンに冷えたジョッキが一脚、鎮座していた。

「なんだ、この冷気は。氷を運んだのではない。時間そのものを止めて、鮮度を運んできたというのか」

 サフラン女王は一口飲んだ。瞬間、喉を焼くような自国の激辛料理と、その炎を一瞬で鎮める超炭酸のドライ・ラガーとの完璧な調和を、まざまざと幻視した。

「……面白い。グランツェルの令嬢とやら、この喉越しの魔法、この目で確かめてやろうではないか」

 その日、世界中の権力者たちが、それぞれのジョッキを空にし、同じ決断を下した。

「グランツェルへ行くぞ。あの一杯の続きを飲まずに、王を名乗ることはできん」


 レオノーラの目論見通り、世界の中心は今、急速に「黄金の泡」へと引き寄せられていた。

 地下貯蔵庫でボロ雑巾のように働くイリーナの恨み節と、レオノーラの高笑い。その不協和音が、世界の喉を鳴らすための前奏曲として、今夜も王都の石畳に静かに響き渡っていた。

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