第3話 保護
葛西臨海公園を吹き抜ける風が冷たさを増し、園内の街灯がぽつぽつと灯り始めた頃。
管理事務所の一角では、大人たちが、一人の小さな少女が放つ知性の光量に圧倒されていました。
「――以上が、私が把握している状況です。妹たちはきちんと私の言いつけを守ってその場で じっとしていると思いますので、危険性はさほど切迫していないと思います。まだ帰りのお客さんが続いているメイン通路沿いですから、人目もありますし。保護者の名はセノコウジ マキ、祖母の古くからの友人です。そしてエス クニアキ、私たちの血縁の叔父です。他にも親族が一緒ですが、迷子のアナウンスをしていただければ、おそらくこのどちらかが引き取りに参ります。妹たちを待機させているのは、大観覧車近くの、青い縁取りのあるベンチですが、万一を考えてアナウンスでは場所をおっしゃらないでください」
五歳にしては小柄な凜ですが、パイプ椅子に背筋を伸ばして座り、係員に簡にして要を得た情報を告げる姿は、最初にこの事務所に助けを求めて入って来た時よりも明らかに大きく見えます。身内での呼び方ではなく、迷いなく保護者のフルネームと自分との続柄を明示するその姿に、係員たちは「本当に幼稚園児なのか」と顔を見合わせました。
けれど、凜の内心は激しい後悔に支配されていました。
(……失敗したわ。GPSを持っているからと安心していたけれど、キッズ携帯を家に置いてくるなんて。GPSではこんな広くてアンテナのまばらな公園では、公園内にいるというくらいのおおよそしか場所がわからないし、こちらから連絡できなければ意味がないわ。せめて、一緒に来た誰かの電話番号を覚えていれば、公衆電話を探したのに。これでもう当分「一度見た物は忘れない」なんて豪語できない)
凜は、妹たちの指揮官たるべき自分の「甘さ」を冷静に分析し、悔しさに唇を噛んでいたのです。
そこへ、廊下から聞き慣れた足音が近づいてきました。
「凜ちゃん!」
「……マキ姉さま」
マキの姿を見た瞬間、それまで完璧な態度を保っていた凜の堤防が決壊しました。マキの腕の中に飛び込んだ凜は、わあ、と声を上げて泣きじゃくりました。
「ごめんなさい、マキ姉さま……! 家に携帯を置いてきてしまったの……。番号、ひとつも思い出せないし……。一人でここまで来るの、本当はとっても……エグッ!」
「いいのよ、よく頑張ったわね、凜ちゃん」
マキは震える凜を強く抱きしめ、何度もその背中をさすりました。
遅れて、邦明が胸に茜を抱き、まさ子の手を引いて事務所に現れました。
茜は邦明の首にしがみつき、まだヒクヒクとしゃくり上げていました。三姉妹の中で最も素直に剥き出しの感情で「私、怖かったの」を態度で示せるのは彼女です。邦明は「おお、よしよし」と、慣れた手つきで茜の背中をトントンし続けていました。
一方、まさ子は、管理事務所の中の普段の生活ではあまり見慣れない什器や、壁に貼られた園内ポスターを目の端でちゃっかりチェックしつつも、しかしその身に纏う空気はいつもの「ゆるふわ」のままでした。
係員たちの目には、事態をあまりよく分かっていない可愛らしい末っ子が、ぽやっとして姉たちにくっついてきた……そんな風に映っていたことでしょう。
邦明は、マキに抱かれた凜と、その隣に立つまさ子を交互に見ました。そして、まさ子に言い聞かせるように腰を落とします。
「まさ子。さっきの俺の話、覚えているな」
まさ子は、真っ直ぐに叔父を見つめ、静かに頷きました。
「はい。叔父さまを信じすぎないこと。……私が自分で自分を救おうとしないと、叔父さまも困ってしまうから」
「そうだ。そして、もう一つ覚えておけ」
邦明は、マキの腕の中で鼻を赤くして泣いている凜を指差しました。
「凜は、とても責任感の強い子だ。特に、お前たちを自分が守らなければという気持ちが人一倍強い。……凜のことも、少しは考えてやれ」
まさ子は、神妙な顔で凜を見つめました。
あんなにマキに抱きついて泣くほど、凜も本当は不安で、怖かったのだということ。それなのに、自分や茜の前では少しもそんな素振りを見せず、毅然としてテキパキと指示を出してくれた。
自分たちのために一人で暗い道を助けを求めに行くと選んだ姉の強さと、その裏側にあった孤独。
まさ子は申し訳ない気持ちと、大きな感謝で胸がいっぱいになり、マキに抱かれている凜のスカートの裾を、そっと握りしめて言いました。
「……凜姉さま、ありがとう」
凜は涙を拭い、少しだけ照れくさそうに、まさ子の頭を優しく撫でました。
帰り道、車椅子に乗ったエスを先頭に、一行は駐車場へと向かいました。
いずみは三人の孫たちの手を代わる代わる握ってその無事を確認しては、静かに微笑んでいました。
三姉妹は、この日、迷子という事件を通じてそれぞれの本質を見せました。
知性と責任感で自分を律し、一人で事態を収拾しようとするも、頼れる者の前では子供に返る凜。
純粋な情愛と依存心で、守られることの幸せを素直に受け取ることのできる茜。
そして、世界の美しさに魂をさらわれ、確信を持って道に迷い、静かに姉や叔父に身を任せるまさ子。
まさ子は、邦明に手を引かれながら、夜空に昇った月を見上げていました。
彼女は、これからもきっと「迷子」になるでしょう。ふとした光の加減や、風の香りに誘われて、日常の境界線を容易く踏み越えてしまう。
けれど、まさ子には、どれほど遠くへ迷い込んでも最後には必ず邦明が迎えに来てくれるという、確かな信頼と、邦明にそうさせてしまう不思議な静けさが備わっているのです。
「まさ子、前を見て歩け。転ぶぞ」
「はい、叔父さま」
邦明のぶっきらぼうな声に、まさ子は「ふふっ」と、ザラメ砂糖のような甘い微笑みを返しました。
公園の夜に溶けていく三姉妹の足音。それは、やがて来る切ない恋の季節も、嵐が吹きすさぶ荒野も、三人ともまだ知らない、遥か遠い春の一夜の記憶でした。
(了)




