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3-4 迷い子たちの肖像【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第4話 残響

 葛西臨海公園での迷子事件から、十余年。

 かつて公園を彷徨った幼い三姉妹は、今やそれぞれの色彩を帯びた少女へと成長していました。

 夕暮れ時のリビング。大人たちが不在の静かな空間で、三人は湯気を立てる紅茶を手に、ローテーブルを囲んでいます。

 十六歳の凜は、高校二年生。その所作には、近い将来法曹への道を進む理知的で無駄のない美しさが備わっていました。

 十五歳の茜は、高校一年生。春の夕焼けを溶かし込んだような華やかな空気を纏い、その表情はくるくると豊かに動きます。

 そして早生まれのまさ子も十五歳になり、茜と一緒に高校一年生に進級したばかり。あのお花畑での告白からすでに2年、このごろは日常的に邦明の部屋へと足を運ぶようになっていました。

 ふと、まさ子がカップを置き、穏やかな眼差しを凜に向けました。

「ねえ、凜お姉さま。ずっと気になっていたのだけれど……あの、葛西臨海公園で迷子になったとき。管理事務所でマキお姉さまに抱きついて、あんなに悔しがって泣いていたのは、どうしてだったの?」

 唐突な過去の掘り起こしに、凜は一瞬だけ面食らったような顔をしました。けれど、すぐに苦笑を漏らして答えます。

 「ああ……。今思い出しても、自分に腹が立つのよ。あの頃、せっかく子ども代表みたいなかんじで私だけキッズ携帯を渡されていたのに、あの日は家に置いてきてしまったこと。それに、あの時一緒にいた大人の携帯番号を一つも覚えていなかったこと。……だって、そのどちらかさえあれば、私たちは迷子にすらなっていなかったはずでしょ?」

 「ああ、やっぱり」

 茜が楽しそうに茶化しました。

 「だからその後、凛お姉さまは『電話番号記憶マニア』になったのね。全然必要ないのに、家族や親戚から友達まで片っ端から電話番号を暗記しちゃって」

 「……マニアって言わないで。あんまり悔しくて、しばらく意識的に覚えるようにしていたら、そのうち番号を見たり聞いたりしただけで自然に頭から離れなくなってしまっただけよ」

 凜は澄ました顔で紅茶を啜りました。茜はクスクスと笑いながら続けます。

 「まあ、凜お姉さまの成績なら、他に覚えるべきものがあるでしょ、なんて小言も言えないけれど。……でも、あのときマキお姉さまにしがみついて大泣きしていたのは、悔しさだけ? それとも、やっぱり怖かったの?」

 茜の視線には、姉の弱みを知りたいという好奇心が混じっていました。

 「私、邦明叔父さまに抱っこされてひと泣きしたら落ち着いたから、その後は凜お姉さまが泣いている理由を考えてたの」

 「嫌な子ねえ。……両方よ」

凜は潔く認めました。

 「自分の感情のままに人前で声を上げて泣いたのは……あれが最後だったかもしれないわね」

 凜は少しだけ遠い目をしました。「最近は、泣きたくても泣けていないかも」

 「お姉さまも、お母さまみたいに、胸に顔をうずめて心ゆくまで泣いて、ぎゅっとしてもらえる殿方を見つけないと。」

 「お母さま、そんなことなさってるの?」

 「家にいるときはほとんど毎晩、甘い声で泣いてらっしゃるじゃない」

 「下品よ、茜」

が、すぐに視線を末っ子のまさ子へと移します。

 「それにしても、私にとっての一番の疑問は、あのときのまあちゃんよ。なんであんなに全然平気な顔をしていられたの? あんなに小さかったのに」

 まさ子は、自分に話が振られるとは思っていなかったようで、少しだけ目を丸くしました。

 「え? そうね……。お姉さま方が、私の代わりに泣いてくださっていたから。私はもう、いいかな、って」

 のほほんとしたその答えに、茜が声を上げました。

 「何それ! だってあんた、迷子になってる真っ最中も、暗くなってきていたのに全然怖がっていなかったじゃない。夕焼けが綺麗よなんて、私のことを慰めてくれて。どっちがお姉さんだか分からなかったわよ」

 「……そうね。叔父さまが、必ず来てくれるって信じていたから。……かな」

 こういうときのまさ子の微笑みは、ゆるふわの中にも、よく見ると「ザラメ糖」の粒のような透明で硬質な甘さが混じっています。

 「そりゃ、あのメンツの中で真っ先に駆けつけてくれる能力があるのは、叔父さまだとは思うけれど」

 茜が、少し冷めた口調で付け加えます。

 「私たちのGPSとか園内の設備とかをハックして居場所を割り出して、最短ルートを急げるのは、あの人くらいだもの」

 「……そういうのとも、ちょっと違うの」

まさ子は首を小さく横に振りました。

 「そんな難しい理屈を考えていたわけじゃなくて。ただ……そんな気が、していただけ」

 「感じた、ってことね。でも、その予想が外れることだってあるでしょう?」

 茜の問いに、まさ子は少しだけ沈黙しました。そして、ゆっくりと言葉を継ぎます。

 「それが……ないのよ。でも、もしも、あのとき叔父さまが来てくださらなかったら……。それはもう、そんな叔父さまのご都合も分からないで期待するような私なら、もうどうでもいいわって」

 「ひっどーい! 私も隣にいたのに!」

 茜が冗談めかして憤慨しました。

 「それ、やけっぱちってこと?」

 「ごめんね、茜ちゃん。あのとき、叔父さまからもひどく叱られたし、みんなに大事にされているって分かってる今は、そんな不遜なことは考えないから大丈夫。私には……やるべきことがあるって、幼稚園の頃とは違って、最近分かってきたし」

 それまで静かに二人の話を聞いていた凜が、鋭く口を挟みました。

 「……やるべきことって、叔父さまの部屋に入り浸ること? 知ってるわよ、最近のあなたの行状」

 まさ子は、頬を微かに染めながら、けれど視線は逸らさずに答えました。

 「そう。……でも、それだけでもないかな。もっと、ずっと先のことも、かもしれない」

 「……何のことよ。まさかあんた、もう……」

 凜の声が、警戒を含んで低くなりました。彼女が想像したのは、倫理の境界線を越えるような生々しい事態のことでした。けれど、まさ子はどこか遠く、時空を超えた場所を見つめるような巫女の瞳をしていました。

 「たぶん凜お姉さまがいま想像していることとは、ちょっと方向が違うと思います。……でも、結局は同じことなのかな。いずれは、私たちの子どもの世代の話になっていくことだし」

 最後の方は、自分自身に言い聞かせるような独り言に近い響きでした。

 「何をブツブツ言ってるのよ?」

 不審げな凜の言葉に、まさ子はふわりと意識を現実に戻しました。

 「ううん、まだ不確かなことだから、いいんです。私にも、本当にどうなるかなんて、もちろん分からないわ。……でも、言ったでしょう? 私は叔父さまのことが好きなの。お嫁さまにしていただくのよ」

 凜と茜は、顔を見合わせました。

 「お嫁さま」という古風で可愛らしい響き。そして、それが法的に、あるいは倫理的にどれほど「不確かな」ものであるか。二人の姉は、まさ子が「不確か」だと言ったのは、その社会的な障壁のことだと理解しました。

 しかし、まさ子の心の中にあった「不確かさ」は、もっと別の場所にありました。

 彼女は、邦明がこの「エス家」において果たしている役割——長男でありながら光り輝く姉の影に回り、一族を守り、そして命を燃やし尽くして消えていくその宿命——を、無意識のうちに感じ取っていました。

 そして、自分が彼の隣に座ることで、その役割をどのように引き継ぎ、次代という名の「器」をどう織りなしていくのか。

 十五歳の「巫女」まさ子は、湯気の向こう側に、自分たちの血が描く巨大な曼荼羅を、ぼんやりと予感していたのです。

 「……まあ、いいわ。あんたがいま幸せなら」

 凜が溜息混じりに言い、ティーポットを掲げました。

 「おかわり、要る?」

 「はい。ありがとうございます、凜お姉さま」

 まさ子の柔らかな笑顔が、リビングの温かな光に溶けていきます。

 かつて迷子になった三人の少女。一人は知性を武器にし、一人は皆に愛されることで道を見出し、そして一人は……運命という名の、終わりのない迷路を自ら楽しみながら歩み始めていました。

 リビングは、穏やかな静寂の中に、次代の胎動を孕んだまま、ゆっくりと夕闇に飲み込まれていくのでした。


(了)

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