第九十二話 試される力
第七章 伊勢惣奉行編(躍進編)開幕
多度川の戦を終え、秀政は城に戻っていた。
桑名城二の丸。
黙って座る松親と村瀬。
じっと旗を見つめる秀政。
「殿、どうされた?
今日は様子が変ですぞ」
村瀬が遂に口を開いた。
「……俺はな。謀玄だの、鬼備前だの。
少々天狗になっておった」
松親がそのぼやきに素直に答える。
「まぁ、確かに……。
鉄砲十丁を失ったことを大殿に報告しましたよね。
雷が落ちるやもしれませんね。
だからそんなに元気がないんですね」
「ち、違うわ!
少し慢心を戒めておるだけだ!」
そういうと鬼備前の旗を折って片付け始めた。
村瀬が慌てて問いかけた。
「殿、何をなさっておる?」
「ん?
雪辱を果たすまではこの旗は封印じゃ。
しばし謀玄だけで我慢しよう」
「お待ちを!
謀玄として敵将に裏をかかれたのであって、
鬼備前として敵を押し返したのでござる!
片付けるのはこっちで!」
村瀬が鬼備前旗を取り上げて、謀玄旗を片付け始める。
「お、お、こら!」
そんな漫才のようなやり取りをしている時に井口が戻る。
「殿、井口長実、南伊勢の乱を平定し、戻りました」
「おぉ、井口、ご苦労だったな!」
「少しばかり犠牲を出しましたが、完勝にござる。
失った兵は速やかに補充しておきまする」
「そうか、さすが井口だ。
頼もしいな」
「ところで……何をなされておるので?」
村瀬と秀政の旗の奪い合いを見て不思議そうにつぶやく。
代わりに松親が答えた。
「義兄上は、国人相手に鉄砲十丁と半数の兵を失った。
辛くも勝てたが、自信を失い謀玄の旗を片付けております」
「は……はぁ。北は大変だったのですな」
「おい、松親、俺は自信を失ったわけではないぞ。
辛勝を恥じて、鬼備前の旗をしばし封印すると……」
「いやいや、義兄上、国人相手にあれは……さすがに」
「これ、千種殿!さっきから聞いておれば、
殿に向かってなんて口を。
少しは家臣としての分を弁えなされ。
それに殿は内政において比類なき才を持つお方。
戦は我らのような無粋者にお任せいただければよいのだ。
此度は無理に出陣をお願いしたわしの責なのだ」
井口の目は本気の目だった。
顔は笑いながらも松親を本気で諫めようとしている。
「あ、いえ。義兄上、失礼仕りました。
幼き時より実の弟のように可愛がっていただいたもので、
なかなかその時の癖が抜けませぬ」
松親も笑っているが、井口をしっかり観察していた。
それには気づかず、秀政は旗を折るのをやめて、
井口に苦笑いする。
「いや、井口。
気持ちは嬉しいが、何の慰めにもなってないぞ。
俺は戦でも名を上げたい」
井口が困った顔をした時。
「申し上げます。殿、岐阜の大殿様より急ぎ参上せよと」
「……言ってる傍から雷ですね」
松親がぼそっと呟く。
「……行って……参る。後は頼んだ」
うつろな目で秀政は立ち上がった。
*
少し時を戻す。
岐阜城・御座の間。
信長の傍には明智光秀が控えていた。
夜の帳が下り、
灯明の揺らぎが壁に影を落としていた。
信長は秀政からの書状を読み終えると、
扇で軽く机を叩いた。
「……十丁の鉄砲を失ったか。
国人戦で辛勝とは、やはり芋は内政向けか」
その声音は淡々としていたが、
光秀には“探り”が混じっているのが分かった。
光秀は静かに膝を進める。
「いえ、そうとも言えませぬ」
信長が片眉を上げる。
「この国人の乱、これには裏があり申す。
多度の残党から確かめた報では、
指揮していたのは下間頼廉。
本願寺において最高の智将と、
それがしは睨んでおります。
芋粥殿が相手にしたのは、
ただの国人衆ではございませぬ。
本願寺の切り札にございます」
信長は揶揄するような口調で返した。
「ほう?
そんなことまで調べ上げておったか。
十兵衛、芋の観察に余念がないな?」
そしてふっと笑う。
「十兵衛、
お前が長島を監視しておるのは知っておるぞ。
それほど芋の働きが気になるか?」
光秀は一拍置き、静かに答えた。
「いえ、対本願寺のために情報を集めているだけにございます。
芋粥殿の働きは……そのついでに過ぎませぬ」
信長は扇を閉じ、膝に置いた。
「そういうことにしておこう」
そして、書状をもう一度見下ろす。
「ふむ……芋は本願寺最高の名将とも渡り合うか。
面白いな」
信長の目が細くなる。
「奴が将として本物か、
一度試してみるか」
光秀の胸がわずかにざわついた。
だが表情には出さない。
信長は立ち上がり、
窓の外の闇を見やった。
「武田の動きがいまいち読めぬ」
光秀は黙ったまま、心の中で呟いた。
(殿は芋粥殿に方面軍を任せるおつもりか?
武田に軽く五千程でぶつけてみて、
その力量を計ろうとされておる。
五千であれば出てくるは、山県か馬場か……)
*
岐阜城・御座の間。
冬の冷気が石垣を伝い、薄い白気が漂っていた。
秀政と前田利家は、膝を揃えて控えていた。
秀政は覚悟していた――
十丁の鉄砲を失った。
叱責は免れぬ、と。
利家は横目で秀政を見た。
(なぜ俺が呼ばれた……?
芋粥殿とはさほど面識がないが……)
各々不安が読み取れる。
襖が静かに開き、信長が現れた。
足音は軽い。
だが、その場の空気が一瞬で張り詰めた。
信長は二人を見渡し、
まるで何事もなかったかのように口を開いた。
「芋」
秀政は深く頭を下げる。
「はっ」
「お前に一つ、任をやる」
秀政は思わず顔を上げた。
(は?叱責は……ない?)
信長は続ける。
「芋。お前の那古野の四千を各所の守りから退かせろ。
後は勘九郎に引き継がせる。
その四千に又左を与力として五百付ける。」
秀政は信長が何を言い出しているのかが理解できない。
それは利家も同じで、驚いたように目を丸くする。
信長は二人の反応など意に介さず、
無駄のない声音で命じた。
「武田に一当てして様子を見てこい」
秀政の背筋が伸びる。
「はっ」
(は?はあぁぁ?
一当て?威力偵察か?
馬鹿か?
あと数ヶ月待てば信玄は死ぬ。
わざわざ気が立っている蜂の巣を、
突きにいけと?)
信長は利家へ視線を移した。
「又左」
利家は膝を進める。
「はっ」
「そなたは秀政の与力として、
その後ろにつき、働きを見よ」
利家は一瞬だけ秀政を見た。
その目に、わずかな火が灯る。
「御意」
信長は二人を見据え、
扇を閉じて膝に置いた。
「深追いは無用。
敵の意図と程を測ればよい」
その声音には、
叱責も怒りも、余計な情も一切なかった。
ただ、
命令だけがそこにあった。
秀政は深く頭を垂れた。
(こんな歴史は知らない。
織田から武田にこんな馬鹿な戦闘を、
仕掛けてないはずだ)
だが、断れない。
「承知仕りました」
利家も続く。
「又左、命に従い候」
信長は立ち上がり、
背を向けたまま一言だけ残した。
「二人とも、よい働きを見せよ」
そのまま、静かに去っていった。
残された秀政と利家は、
しばし言葉を失っていた。
利家がぽつりと呟く。
「……武田。大物じゃな。
だが、やりがいはある」
秀政は小さく息を吐いた。
「大物どころか、甲斐の虎。
我らは最強の虎狩りを仰せつかった。
“試されている”のだ」
利家は秀政を見た。
その目に、戦場の光が宿っていた。
「ならば、応えねばなるまいな。
芋粥殿」
秀政の眉が八の字に歪む。
「そうだな……。
相手は誰だろうな。
攻めの赤備か、守りの美濃か」
声が低い。
「ん?鬼備前ともあろう方が何を沈んでおられる?」
(お前こそ、なぜそんなに前向きなんだよ。
この時代最強の敵だぞ、脳筋め!)
「いや、そんなことはない。やるぞ、前田殿」
二人の間に、
静かだが確かな火が灯った。




