第九十三話 勝つための策
岐阜城の渡り廊下、冬の空は低く曇っていた。
冷たい風が肌を刺す。
秀政と前田利家は並んで歩いている。
ある程度進んだところで、秀政が口を開いた。
「前田殿。俺は一度尾張へ戻る」
利家はすぐに振り向く。
「早速準備ですな」
「うむ。まともに当たって勝てる相手ではない。
必勝の策を練る。
少し時間が必要だ。
前田殿もじっくりと準備してくれ」
(時間をかけて準備して、四月になって信玄が死に、
偵察に行ったら武田は退却してました……
が理想だな)
利家はうなずいたが、その表情はむしろ昂っている。
「承知した!
だが、あまりゆるりとはしておられませぬぞ?
俺は呼ばれた際に、
殿からお聞きしておりますが、
今度の任は三月半ばまでに結果を出せと」
秀政の歩みが止まる。
(三月半ば……)
信玄の死は四月。
歴史はそうなっている。
(そこまで持ちこたえれば、武田は勝手に崩れる。
だが三月半ば……まだ生きている)
秀政の背に嫌な汗が滲んだ。
(くっそぉ!微妙な期限を設定しおって!
逃げは無理か)
「となると……本気で必勝策を探らねばならぬ」
「となると?」
「いや、何でもない。
前田殿、二月半ばには出陣する。
この一ケ月、徹底的に準備してくれ」
利家は歯を見せて笑う。
「あい、わかった!
武田と刃を交える。
胸が高鳴るではないか」
(この脳筋め……
楽観的で羨ましいわ!)
秀政は内心で毒づく。
「それでは芋粥殿!
拙者はこれにて失礼いたす!」
利家は力強く去っていった。
秀政は一人、曇天を見上げる。
(武田。
戦国最強の機動軍。
真正面から当たれば、砕けるのはこちらだ)
暗い顔で考え事をしながら進む。
その時。
「芋粥殿」
静かな声がした。
振り向くと、そこに明智光秀が立っている。
いつの間に近づいたのか分からない。
「おわっ……明智殿!?」
光秀は微笑む。
「殿より武田との一当てを命じられたとか」
「耳が早い」
秀政は苦笑する。
「その通りです。
武田相手では、
武者震いどころか、臆病震いしそうです。
はっはっは」
「臆病を口にできる者は強い」
光秀の声は穏やかだ。
「芋粥殿は相変わらず面白い方だ。
飾らぬのは芋粥殿の美点ですな」
「飾っても武田は退いてくれませぬ」
秀政は肩をすくめた。
「明智殿に必勝の策を授けて頂きたいくらいです」
光秀は目を細める。
「必勝は難しい。
だが、少しのご支援なら」
「支援?」
光秀は一歩近づく。
「芋粥殿、貴殿の存念をお聞かせ願いたい。
四千五百で近づけば、武田はどう出る?」
秀政は即答しない。
しばし沈黙。
「織田が五千足らずであれば、
武田も一当てを考えるでしょう。
山県か馬場。
五千前後で迎え撃つ」
「わしもそう見ます。
ですが、一つ情報があります」
光秀は続ける。
「どうやら信玄入道の病は重い。
馬場は守りを固めるでしょう。
それゆえ――
一当てなら山県。
十中八九そうなります」
秀政の目が鋭くなる。
「山県昌景」
その名を口にした瞬間、
空気が少し重くなった。
武田四天王。
赤備えを率いる猛将。
光秀は淡々と語る。
「武田が不気味なのは、わしも気になっておりました。
ゆえに、かねてより深く探らせております。
お役に立つか分かりませぬが、
山県の陣容は調べ上げておりますが……」
「是非、お聞かせ下さい!」
前のめりに秀政が詰め寄る。
「良いでしょう。
わしが調べた限り、山県が出てくるならば
この陣容でしょう。
赤備えの千騎を先鋒となし、
足軽の赤備え二千をこれに続け、
物見・横手の者、千を左右に走らせ、
後詰め千を控えに置く。
まさに武田の矛と称すべき陣容。
真の赤備えは騎馬の方ですが、
足軽も赤備えと言ってよいほどに、
精鋭にございます。」
(うぅ……教えてもらえたのはとてもありがたいが、
赤備え千騎、歩兵まで入れたら三千か。
これと戦う現実は、心が折れそうなんだが……)
光秀がさらに言う。
「鉄砲も百はある。
武田は火薬と弾の補給に乏しい。
ゆえに撃ち惜しみはするが、
勝負所では必ず撃つ」
秀政は苦笑しながら、わざと軽口を叩く。
「明智殿、実は俺の心を折りに来ておられますな?」
「事実を申しているだけ」
光秀は微笑む。
「芋粥殿の陣容は?」
「はぁ……恥ずかしながら。
鉄砲、九十。
小母衣騎馬、百。
剣豪、百。
残り三千七百余は全て足軽」
沈黙。
重い。
「……明智殿、そこで黙らんでくだされ」
光秀が口を開く。
「いや、なかなか厳しい。
正面衝突は避けるべき。
野戦で一当てした後、守りに徹し痛み分け。
罠や馬防柵で対策くらいでしょうか……」
秀政はうなずく。
「常道ですな」
そして大きなため息を吐く。
「はぁ……そうですよね。
それくらいしか……」
だが、ぼやいたその時。
秀政の頭の中で何かが繋がった。
策を思いついたような顔をする。
「明智殿」
「はい、何か策でも思いつかれましたかな?」
光秀が興味深げに秀政を見た。
「えぇ、明智殿の情報通りなら一策思いつきました」
「さすがですね、どこで迎え撃つのですか?」
秀政が顎を撫でながら一拍置いて答える。
「もし山県が出るならば――
野田城北。
豊川沿いの浅い段丘」
光秀は地形を思い浮かべる。
豊川が天然の側面防御をなす。
川沿いは平坦で“騎馬が突っ込みやすい”が、
段丘の縁は“落とし穴・馬防柵”が仕掛けやすい。
なにより山県昌景自身が
“ここなら突破できる”と判断しやすい。
すなわち引き込みやすい。
鋭い目つきで秀政を見つめる。
「守りやすい土地、
……ですな」
「ええ。
あそこならば赤備えの勢いを削げる。
そして――
一策打てる」
光秀は内心で驚く。
(地形を即座に選んだ)
「策とは?」
秀政は微笑む。
「まだ秘密にござる」
光秀は目を細める。
(あれだけの情報で、
もう腹を決めたか)
「御支援、感謝に堪えませぬ」
秀政は深く一礼し、去っていった。
光秀はその背を見つめる。
(情報に偽りはない)
だが。
(あれだけで勝機を思いついたというのか?)
夜風が吹く。
(芋粥殿……
その戦いぶり、とくと拝見させて頂こう)
光秀の目に、
静かな興味と警戒が宿っていた。




