第八十九話 多度川の戦い――開幕
多度川は浅い。
広くもない。
だが――
どこでも渡れる川ではなかった。
川底の石は滑り、
流れは見た目より速い。
渡河可能な浅瀬は、わずか三つ。
それを知るのは地元の国人だけではない。
北伊勢を惣奉行として歩き続けた秀政もまた、
その三つを熟知していた。
*
夜明け。
川面に霧が立つ。
芋粥軍は三つの渡河点の内、
最も渡りやすい場所の正面に布陣していた。
だが――
渡らない。秀政は動かない。
(渡河はしない)
川を越えれば、足を止められる。
伏兵がいる可能性が高い。
渡河点は限られる。
誘いの可能性がある。
(“動ける者が勝つ”)
それに反する戦はしない。
兵は十分に休めていない。
以前の戦いとは逆だ。
戦う前から兵にも疲れが見える。
秀政は渋い顔をしつつも、腹を決める。
「村瀬、兵站の者から一名出して、桑名にやってくれ」
「桑名へ?」
「俺は油断したかもしれん。
今日で終わらす気だったが、そうもいかんやも。
今日仕留められなかった時のために、
念の為、忍びどもを呼んで参れ」
「はっ!」
そして敵を睨みつけ、
秀政は静かに告げた。
「渡らせる。
どうだ、渡りやすい場所を選んでやったのだ。
お前達の方から来い!」
本隊三百を中央。
左右二百ずつをやや斜めに配置。
迎撃の雁行陣。
射線が重なる。
斜めに矢が交差する形。
渡河の瞬間を狙う陣。
村瀬が唸る。
「渡る瞬間が最も無防備」
「そうだ」
秀政は頷く。
「いくら渡りやすかろうが、渡河は渡河。
足が止まる瞬間を撃つ」
*
北岸。
頼廉は川向こうの陣形を見て、わずかに笑った。
「雁行陣か」
罠と知っている。
だが、待たぬ。
長期布陣は好ましくない。
頼廉自体がいつまでもここで戦に参加できるとは
限らないからだ。
それに、国人の士気の高さは一時的に過ぎない。
頼廉は多度尚家を一瞥した。
「突撃せよ」
尚家が戸惑う。
「罠では――」
「敵を油断させる」
(その方が国人一揆らしく無策に見えよう)
不敵な笑み。
(犠牲は国人衆だ)
淡々と告げる。
「渡れ」
太鼓が鳴る。
国人衆が叫びながら川へなだれ込む。
*
「撃て!」
秀政の声。
矢が一斉に放たれる。
斜め射線。
雁行の強み。
川中で矢を浴びる国人。
倒れる。
流される。
だが――
止まらない。
(さすが)
頼廉は冷静に観察する。
芋粥隊の攻撃は思った以上に正確だ。
練度が高い。
だが、ここで折られるわけにはいかない。
「我らには御仏の加護がある!
見よ、矢はいつもより当たらぬぞ!」
叫ぶ頼廉。
――普通に当たっている。
だが。
「おぉ、確かに!
神仏の御加護じゃ!いけいけぇ!」
兵達の恐怖は薄い。
勢いは落ちない。
先頭から渡河に成功していく。
頼廉本隊が南岸へ踏み込む。
*
後退射撃。
秀政の軍は斜めに下がりながら撃つ。
前進を遅らせる。
(芋粥は動きが良い、
思った以上に被害が大きいぞ。
この統率、噂に負けておらぬ)
頼廉は目を細める。
(さすが謀玄)
だが、止まらない。
「進め!」
渡河を成功させた国人衆が芋粥本隊へ向かう。
その瞬間。
――轟音。
林から火花。
鉄砲。
左翼、河村隊の鉄砲十丁。
五人が放てば、残りの五人が装填する。
思いのほか早く鉄砲が連射される。
しかも全て外さない。
国人たちに恐怖の色が浮かぶ。
混乱。
頼廉は一瞬考え込み、そして笑った。
「やはりそこに伏せていたか。
敵左翼の林を狙う……ふりをせよ!
叫べ。
あそこに鉄砲があるぞ。
やれ!盗ってしまえ、とな」
国人たちが一斉に左へ流れる。
*
秀政の目が鋭くなる。
小母衣衆へ。
「伝令!
偃月陣へ移行。
包み込め」
小母衣衆が走る。
頼廉じっと芋粥の左翼を睨む。
「ん!もう動いた。早いな。
謀玄の指揮能力は想像以上か。
だが、残念だったな。
手の内よ」
頼廉も動く。
「鋒矢陣へ移行!」
叫ぶ。
「敵本陣を突け!
短期決戦だ!」
国人の動きが一変する。
先ほどまでの粗さが消えた。
今までは陣形すらない、烏合の衆。
それが――
一糸乱れぬ変陣。
精鋭の動き。
秀政の目が見開かれる。
「な……!?」
小母衣衆が二騎駆け寄る。
「急ぎ左翼、右翼へ!
偃月陣変更は中止!」
瞬時の判断。
「敵を俺の本隊で受け止める!
その間に左右は包め!
一兵たりとも逃がすな!」
伝令が飛ぶ。
頼廉が叫ぶ。
「さすが!
もう、ついてくるか!
早い!これほどか!
強いな、謀玄。
だが、わしは貴様を、
一切侮ってはおらぬ!
これを喰らえ!」
笛矢を放たせる。
ヒュオオオオオ――
一本。
鉄砲隊が潜む林のさらに奥へ。
別の雑木林の奥から数百の兵が立ち上がる
ヒュオオオオオ――
二本目。
芋粥の鉄砲隊の潜む林の上空へ。
ヒュオオオオオ――
三本目。
再び芋粥の鉄砲隊の潜む林へ。
伏兵三百が一斉に鉄砲隊へ襲い掛かる
頼廉が鋭い目で、芋粥本陣を睨んだ。
「謀玄、どう出る?」
伏兵による鉄砲隊へ突進。
応射するが五丁ずつでは止めようがない。
「何だと!?」
秀政の顔色が変わる。
「そこか!」
小母衣衆が秀政に近づく。
「左翼、鉄砲隊を守――」
止まる。
一瞬の沈黙。
「……いや、いい」
目が燃える。
「王手・飛車取りかよ、この糞がっ!」
敵本隊が中央へ。
伏兵三百が鉄砲隊へ。
二択。
秀政は即断した。
「討たれてたまるかっ!
逆に敵将を討つ!
両翼はそのまま敵を挟撃して押しつぶせ」
小母衣騎馬は頷き、その場に控えた。
怒号。
「鉄砲十丁と同じ価値があると思え!」
(クソ……
鉄砲十丁、射手十人。
一体いくらかかってると思ってる!)
内心、泣きそうになる。
(だが――
敵将の首はそれ以上だ!
多度……正当に評価されれば、
よほどの名将だったな)
*
頼廉陣営。
「ほぉ?」
秀政が鉄砲を捨てた。
「鉄砲を切るか」
目が光る。
「謀玄……名以上の癖の者よな」
だが即座に命じる。
「急げ!
当てが外れた!」
これはまずいぞ!
一気に片を付けねば、我らがやられる!」
獅子と猛虎。
刃が、完全に交わった。




