第八十八話 獅子と虎の対峙
多度山の裾野に、緩やかな野が広がっている。
多度は北勢国人の本拠。
また、長島門徒が密かに出入りしやすい土地でもある。
中央を多度川がゆるやかに流れ、川沿いには雑木林が点在する。
見晴らしは悪くない。
だが、林と川が絶妙に視界を切る。
伏兵を置くには十分。
渡河戦にも持ち込める。
(動ける兵が勝つ)
そう予言した秀政にとって、ここは格好の野戦地であった。
だが、それは頼廉にとっても同じことであった。
*
芋粥軍は川の南側に布陣。
多度尚家軍――
否、実質は頼廉の軍は、北側の林を背に布陣している。
日はすでに傾き始めていた。
決戦は明日。
河村、大野を呼び寄せ、軍議を開いた。
秀政は立ったまま敵陣を見ていた。
やがて、あることに気づいて表情を変える。
村瀬が横目で見た。
「殿、どうされた?
腹でも壊されたか?」
秀政は答えない。
秀政は少し考えてから問う。
「村瀬……奴らは本当にただの国人か?」
「は?」
村瀬が眉をひそめる。
「事前の報では、将足りえる者は多度尚家くらいにございます。
奴は紛れもなく、ただの国人」
「……だとしたら」
秀政の視線は敵陣から離れない。
「この違和感は何だ」
「違和感? 何がです」
秀政は指で敵陣を示す。
「敵は千と言ったな」
「はい」
「七百ほどしかおらぬぞ」
河村が目を凝らす。
「確かに……」
村瀬が言う。
「井口殿が数を見誤ったか」
秀政は即座に首を振る。
「それはない。
井口は堅実な男だ。
調べ上げた上で報せている。
あれが七百を千と見誤ることはない」
大野が口を開く。
「では、多度が誇張して吹聴したのでしょう」
秀政は再び首を振る。
「それもない」
秀政は続ける。
「他国との侵攻や防衛ならば、誇張は常とう手段だ。
敵の戦意を折るため、数を盛ることはある。
だがな」
秀政は断言する。
「七百を千と誇張したところで、戦意もくそもない。
織田が兵を増やすだけだ。
国内の反乱で、戦いを回避することはない。
反乱側が誇張しても自ら首を絞めるだけだ」
村瀬が腕を組む。
「……では、殿の出陣を知り、三百が離散したか」
秀政は静かに笑う。
「それもない」
敵陣を指差す。
「あの布陣を見よ」
河村と大野も目を凝らす。
整然としている。
陣幕の張り方、兵の間隔、物見の位置。
「離散するような士気の低さがあるか?」
誰も答えず、秀政が続けた。
「どちらかというと……、漏れ出でるほどの闘気がある」
風が一瞬止んだ。
村瀬が低く言う。
「では?」
秀政は答える。
「三百は伏兵として、既にどこかに置かれている」
「伏兵!?」
河村が目を見開く。
「あぁ。それしか考えられぬ」
(ただの国人が、そこまでやるか?
多度が千をまとめられるかも疑わしい。
それがこれほど布陣を固め、伏兵まで用意するか?)
秀政は警戒を強め、即断した。
「河村、大野」
「は」
「今宵は夜襲を警戒せよ。
方円陣に組み直す」
河村がうなずく。
「明日の戦もある。
交代で休ませろ。
だが――」
秀政は念を押す。
「一時たりとも油断するな」
「は!」
「ここは敵が地の利を活かせる場所だ」
大野が歯を見せて笑う。
「承知しました」
秀政はなおも敵陣を見つめる。
「こんな不気味な奴らとは、早々に一戦交えた方がよい。
余計な気を擦り減らすだけだ」
振り向く。
「夜明けと同時に仕掛ける」
全員が顔を上げた。
「陣太鼓と同時に雁行陣へ移れ。
まずは射撃戦だ。
弓をありったけ撃ち込め」
「は!」
「鉄砲隊は林に隠せ。
ここぞという時に撃ち込め」
河村が頷く。
秀政は続ける。
「鉄砲の音に釣られて敵が左翼に突撃したなら、防衛に徹しつつ、伝令を待て」
少し間を置いて続ける。
「頃合いを見て偃月陣へ移行。
西へ後退しながら包み込む」
村瀬が感心したように言う。
「殿、いつになく本気ですな」
「あぁ」
秀政は答える。
「多度尚家……ただの凡将とは言えぬ」
内心。
(歴史は勝者が刻む)
名将であろうと、凡将として塗り潰されることもある。
あるいは――
ゲームにすら採用されぬほど、徹底的に歴史から消されることもある。
(多度尚家という名の歴史に埋もれた名将が、実際には居たとしても何ら不思議はない。
松親にも、油断するなと言われたな)
秀政は改めて警戒した。
その夜、両軍は川を挟んで陣を構えた。
*
敵本陣。
粗末ではないが、国人らしい質実な陣幕の中。
大将の座には、多度尚家がいる。
鎧は立派。
家柄に相応しい威厳もある。
――だが。
軍議の場において、尚家に発言権はほとんどなかった。
隣に座るのは下間頼廉。
動作に無駄がなく、落ち着いた様子で軍議を仕切っていた。
その周囲を固める百人隊長たちは、いずれも頼廉配下の戦僧である。
百人隊長たちは、いずれも頼廉の指示を待って姿勢を崩さない。
尚家は、ただそこに“座っている”だけであった。
頼廉は敵味方の状況、兵の編成、大まかな方針を告げ終えると、続けた。
「さすが謀玄・芋粥備前」
声は低い。
「我らの伏兵に気づいたか」
林の奥、密かに潜ませた三百。
秀政は見抜いた。
頼廉は笑う。
「方円陣で今夜は守りを固めるようだな」
尚家が恐る恐る口を挟む。
「では、夜襲は……?」
頼廉は首を横に振った。
「せぬ」
短い一言。
「焦る必要はない」
頼廉の指が地図をなぞる。
「二十の兵を徹夜組として出せ。
林で物音を立て続けよ」
百人隊長が頷く。
「は」
「焚火は散らせ。
兵の動きを悟られぬ程度にな」
「は」
頼廉は続ける。
「奴らを休ませるな。
夜通し伏兵を警戒させろ」
尚家が息を呑む。
「夜を削るのだ。
決戦は明朝。
その間に我らはゆっくりと休息する。
明日の陣形は敵を見て決める」
即断即決。
百人隊長たちが一斉に応じる。
「は!」
兵の大半は伊勢国人だが、実際の指揮系統はすでに頼廉と本願寺の戦僧たちが握っていた。
頼廉は最後に言った。
「謀玄か……。その智謀、とくと味わってみようか」
その瞳はまるで血に飢えた虎であった。
*
その夜。
林の奥で、小枝が踏まれる音が断続的に響いた。
芋粥軍の陣では、兵が何度も目を覚ます。
本格的な戦闘の前から、頼廉は芋粥軍の休息を削り始めていた。
そして、秀政はまだ知らない。
目の前の千の国人の背後に、本願寺きっての名将がいることを。
獅子と猛虎が明日、その爪を競う。




