第八十四話 模擬戦
三方ヶ原で徳川軍を完膚なきまでに打ちのめした武田軍は、
勢いそのままに西へと駆ける――
……はずであった。
三方ヶ原勝利後すぐに方々へ散った間者が、
戻り始める。
十二月二十五日、
武田信玄入道は、腹心の山県昌景、馬場信房、
武田勝頼を本陣に呼んだ。
信玄の顔色は優れない。
病は明らかに進んでいる。
だが、その眼光だけは濁らぬ。
床に横たわりながら、
側に広げた尾張・美濃の地図を見つめていた。
「こことここ、そしてここじゃ」
信玄は間者の報を聞きながら、
黒石を三つ、静かに置く。
「犬山に五千。
小口砦に四千。
善師野口に千。
いずれも“謀玄”“鬼備前”と描かれた旗が立っておる」
実際は倍に吹聴しておるだけとは思うが……。
旗指物の数が尋常ではない。
そして運び込む兵糧の数もじゃ。
逆に少なく見せている可能性すらある」
山県が冷静に答える。
「鬼備前ですか。聞いたことがありますな。
尾張の芋粥秀政という武者だとか。
伊勢でそう呼ばれておるとか。
間者も同じ名を口にしておりました」
「ほう……」
山県は続ける。
「かの者……伊勢での働き、長島での采配、
いずれも凡手ではございませぬ。
倍する敵を兵を損なわず討ち取ったと聞き及びます」
信玄がにやりと笑って続けた。
「ふふふ、山県、お前も聞き及ぶか。
誇張が入ったとしても、火のない所に煙は立たぬ。
全くのでたらめというわけではなかろう」
馬場美濃がこちらも冷静に呟く。
「しかし、まだ三河の童を打ち破ってから三日です。
誇張とは思いますが、最悪を考えた場合、
仮に本当に一万の防備を揃えていたとしたら……、
あながち噂だけでの男ではないかもしれません」
信玄が少しだけ笑う。
「馬場、考え過ぎだ。
間者が旗と兵糧に惑わされたにすぎん。
兵の数は半分も無いと見ても良い。
だがな、押さえどころが憎い」
信玄が顎を撫でる。
そして信玄が嬉しそうに語る。
まるで碁を楽しむかのような顔で。
「もし、わしが謀玄ならば――
武田が犬山を攻めれば、
まず小口を捨てて犬山に兵を集中させるだろう。
その隙に善師野口から奇襲をかけ、
武田の兵站を断つ」
山県と馬場が地図上の白、黒の碁石を動かしながら、
じっくりと考える。
「逆に小口を攻めれば、
謀玄は犬山から兵を引き、
木曽川の渡河点を包む。
その後、尾張本土へ誘い込んで殲滅する」
再び碁石を動かし、二人は深く息を吐く。
「善師野口を攻めれば、
謀玄は“攻めさせた”と見て、
犬山・小口の二点から挟撃してくる。
その後、尾張の国衆を動かし、
この信玄の退路を断つだろう」
ここで四郎勝頼が初めて口を開く。
「父上、何を弱気な。
この武田の軍をもってすれば、
どの口を攻めたとしても、
一日で打ち破れます」
病床からゆっくりと信玄は勝頼を見上げた。
「そうだ。
我が武田ならそれをなせるだろう。
だがな、甘いぞ、四郎」
「甘くございますか?」
「策を使う者は、このように敵が容易に
見抜く策だけでは止まらん」
「と、申されますと?」
そこで馬場がゆっくりと補足する。
「伏兵がおりまする。
仮に犬山、小口、善師野口の兵数が、
誇張であって、半数しかいなかった場合だとして、
それは尾張南部の常備兵に数が合致します。
尾張北部の兵は隠れておりましょう」
山県も忌々しそうに口を開いた。
「ここまで早く動く男だ。
既に農兵も集め始めているだろう。
尾張は豊かな土地だ。
二万はすぐに動員できる」
信玄が我が意を得たように口を開いた。
「その通りだ。
それが兵糧を多数運び入れた理由だ。
我らが犬山、小口、善師野口を攻めている間に
次から次へと二万の援軍が訪れるぞ。
四郎、お前は守りに徹した兵を一日で落とせるか?」
「うぅむ……」
「そして馬場が言った北部の五千がどこにいるかまだ見えぬ。
我らの命綱は兵站だ。
迂闊に進めぬのだ。」
「口惜しいですな」
「調べ上げろ。
多少時間はかかるが、
浅慮は避けるべきだ。
まずは野田城を落とす。
その間に織田の動向を全て洗い出せ」
「は!」
その後、勢いに乗る武田軍は尾張に雪崩れ込んでは来なかった。
*
那古野
「父じゃ!父じゃぞ!」
秀政が変顔を披露しながら、
何とかして松丸に父と認識してもらおうと苦労していた。
「ちち?」
「そうじゃ、ちちさまじゃ!」
乳母の背中から不審顔で覗く。
「松丸、お前のちちさまじゃ」
近くで面白がっている明を、急に抱き寄せる。
「あ、ちょっと、父様!?」
「明、協力しろ」
明をしっかり抱き寄せて頬ずりする。
「ん~!!」
明も仕方なく、ぎゅっと秀政を抱きしめた。
秀政は顔が緩みながらも、松丸に訴える。
「ほーれ、ほれ。
お明の父は俺。
だから、松丸の父も、
おーれ!」
抱き着き待ちで手を広げる。
ゆっくりと松丸が乳母の背中から現れて、
秀政の傍に寄った。
がっしりと掴む。
「父じゃぞー!」
松丸が顔を歪めた。
明が大笑いする。
那古野の年の暮れは明るい。
秀政は二年ぶりの家族団らんを楽しんでいた。
武田家の知能が、その間、
秀政の策を深読みして模擬戦する。
だが――
秀政は家族に会いたいという、
理由付けの一つとして
尾張に派兵した。
このために尾張に戻ったという名目として。
だが、これが武田の進軍を遅らせるという、
歴史の流れを後押しした。




