第八十五話 年頭訓示
正月を迎えて、信長より一部の将に対して、岐阜への参上を命じた。
いわゆる年賀の挨拶であるが、信長がこの時期にわざわざ将を呼ぶ時は、儀礼よりも実務のためである。
それもそのはず、この時期には尾張においても、既に三方ヶ原での徳川惨敗の報は伝わっており、当然信長もその対策を考えているはずである。
*
岐阜城、大広間。
現在は戦時中であるため、全員の参加は見送られた。
各地の重役のみが集められた簡易的な年賀の挨拶である。
筆頭宿老である柴田勝家が一歩前に出て、
「新年、誠におめでとうございまする。
今年もまた、御館様の御威光、天下に轟かんことを――」
と声を上げ、その場の家臣団が一斉に斉唱して頭を下げる。
信長はそれに訓示を返す。
「皆、よく参った。
今年は賀礼の言葉は申さぬ。
武田信玄が西へ動き、三河・遠江は乱れた。
徳川殿はよく戦ったが、敵は強い。
だが、恐れるな。
信玄は天下を狙っておる。
ならば我らは、それを迎え撃つのみ。
今年は戦の年ぞ。
備えを怠った者から討たれる。
伊勢、美濃、尾張、近江――
いずれの地も綻びは許さぬ。
働きある者には大いに報いる。
怠る者は、古き家臣であろうと容赦せぬ。
今年、天下の形が決まる。
遅れた者から消えると思え。
心して励め」
信長は、家臣たちが黙って聞く中で語り切った。
「ははぁ!」
一斉に重臣たちが頭を下げる。
そのまま、軍議へと進む。
「まずは武田信玄の動きだ。
三河・遠江の崩れは皆も承知の通り。
信玄はこのまま上洛を目指すは確実だ。
美濃・尾張の備え、急ぎ固めねばならぬ。
此度はこの信長が総大将として、信玄入道と相対する。
勘九郎、三七、孫三郎。
お前達は俺が向かうまでに、尾張で一万を動員して守りを固めよ」
「はは!」
勘九郎信忠、三七信包、孫三郎信興の織田一門の三人が、同時に気合を入れて返事をする。
「五郎左、美濃三人衆と連携して美濃を守れ」
「はは!」
「権六、右衛門、猿、お前達には近江を任せる」
「はは!」
「左近、芋、お前達は引き続き長島に当たれ」
「はは」
*
その後、信長は各地の状況、今後の方針を、各地総大将に問いかけた。
信長は近江組へ目を向ける。
「権六。
近江、動けるか?」
柴田勝家が即答する。
「はっ。
浅井の残党、山中に小勢残るのみ。
兵はいつでも動かせまする」
信長は短くうなずく。
「右衛門。
備えの綻びはないな?」
佐久間信盛が頭を下げる。
「ござらぬ」
信長は秀吉へ視線を移す。
「猿。
兵糧と道筋、どうだ?」
「すでに手配済みにございます」
「よし」
次に光秀を睨む。
「十兵衛。
京の様子、申せ。
公方様の周り、怪しき動きはないか?」
光秀は一歩進み出て、いつもの丁寧な口調で答える。
「はっ。
公方様は表向きは静かに御座所にて、政務を執られております。
ですが、内々には、越前の朝倉残党や摂津の一向宗と文を交わしておられる様子。
ただちに兵を挙げる気配はございませぬが、御心中は、殿に従うおつもりは薄いかと」
信長は光秀の言葉を聞き、鼻で笑うように短く言う。
「ふん……。
あの御方は、己の器を知らぬ。
十兵衛。
京は任せる。
公方様が余計な真似をせぬよう、目を離すな」
「ははっ。
京の動き、片時も見逃しませぬ」
最後に信長は伊勢方面へ問いかけた。
「左近。
長島の火種、どう見ておる?」
滝川一益が一歩進み出る。
疲れ切った浮かない顔だ。
「はっ。
一向宗、表向きは静まっておりまするが……
内実は、いつ爆ぜてもおかしくございませぬ。
備前殿と二人、火消しに走っておりまするが、長島そのものは、抑え切れてはおりませぬ」
信長が険しい顔になる。
「ふん……やはりか。
武田が動くこの時に、長島で火を上げられては困る」
信長は一益と秀政を見る。
「左近、芋。
いま少し耐えよ」
両名が答える。
「はは」
信長は短く言い放つ。
「よい。
長島は今年、必ず片を付けろ。
油断した者から討たれると思え」
年賀の挨拶とは程遠い、緊迫した軍議であったが、無事訓示は終わる。
役目を持つ重臣たちは我先にと任地に戻っていった。
そんな中、秀政のみが呼び止められる。
「芋、待て」
「は!」
「お前にはもう少し聞きたいことがある。
来い」
そう言うと奥の間へずかずかと歩いていく。
そんな信長の後を、秀政は続いた。
奥の間にて信長が上座の位置に立った。
「座れ」
「は」
下座に腰を下ろして、頭を下げる。
信長がその後すぐに上座に音を立てて座った。
「面を上げよ」
「はっ」
「なぜ呼ばれたか分かるな?」
「いえ、分かりませぬ」
「尾張の守備の事だ。
俺が指示するまでもなく、お前は那古野の兵を使って防備を固めた。
あの布陣は良い。
あれならば、武田も進む前に止まる。
織田が盛り返す隙を作る。
だが解せぬ。
お前があの布陣をするためには、徳川殿の敗戦とほぼ同時に動かねばならん。
どうやってあの混乱の三河の状況を即時に知った?」
(来たな?相変わらず目ざとい。
嘘もつけんし、未来知識も言えん……)
「知ってはおりませぬ」
「では、なぜあの防備を?
勘だと?」
「勘でもございませぬ。必然の防備です」
「必然?」
信長の表情が険しくなり、眉をひそめる。
どうやら、まだ意図が伝わっていないらしい。
「将たる者、必ず一手、二手、三手先を読みまする。
ですが、読んで終わりではいけないのです。
三手先まで読んだとして、その中には織田の危機も複数考えられるでしょう。
その危機を考えるに留めず、管理するのです」
「危機を管理する?」
「はい。徳川様と武田が合戦するのは、
もはや避けられませぬ。
そうなれば、どんな結果になるか、
複数手を読み、そこで生じる危機を想定します。
徳川殿が勝てば良し。
負ければ危機が発生します。
もし、善戦なさって、佐久間様も間に合っていれば、おそらく時間は稼げるでしょう。
そこで負けたとしても、生じる危機は大した危機ではございませぬ。
その頃には、織田は万全の防備を固めております。
ならば、事前に手を打っておかねば、救えない危機こそが真の危機なのです」
「ほぉ?」
「信玄入道は疾風の如く行軍します。
それを逆算した場合、二十二日頃には、
戦になるやもしれません。
まさかここまで早く戦が始まるとは、思う者も少ないでしょう。
それこそが最悪の想定です。
そして一日で完敗。
そのまま尾張へなだれ込んだ場合、これも最悪です」
信長の表情が和らぐ。
「つまり最悪の想定を積み重ねた結果、こればかりは先んじて動かねばと、備えたのがあれなのです。
その中間の危機は、最悪の危機さえ、押さえれば、つぶしが効きます。
これが危機管理です。
それがしは徳川殿と武田の戦の真の勝敗など、知る必要がなかったのです。
これが先ほどのご質問に対する答えです。
あくまで今回は最悪の状況になっただけで、もし、その状況になっていなかったら、別に笑って終わりです。
良い訓練になったな……と」
「面白い。
思わぬ話が聞けた。
芋の那古野兵はそのまま、守れ。
武田との戦いでは、尾張芋粥の活躍も、
期待しておる」
「は!
実は……長島では功が上げきれておらず。
それがしも必死なのです」
「抜かりない奴よ。はははは。
良い。長島に戻れ。
長島が一筋縄でいかんことは知っている。
芋、お前には期待している」
「はは!」
(なんとか誤魔化せた……。
えぇ……でも、長島に戻らないとだめか?
もう少し那古野で子たちと遊びたいんだが……)
秀政が内心でぼやいている間に、信長は満足げに部屋を出ていった。




