第八十三話 武田への備え
時を、少し戻す。
「宴の準備が忙しくなります。
弥八様はどこかで、
少し時間を潰していてくだされ」
にこやかに、しかし有無を言わせぬ口調でお悠に追い出された。
秀政は縁側に腰を下ろし、湯気の立つ茶をすすっている。
本来であれば、松丸と遊んでいたかったのだが、
当の松丸が怖がって近寄らない。
(……父とは、つらいものだな)
仕方なく庭で影踏みで遊ぶ、明と蘭を眺めている。
冬の日差しが低く、影は長い。
「姉上の影、踏みました!」
「蘭、ずるい。今のはなし!なし!」
草履がぱたぱたと鳴る。
その声を聞くだけで、秀政の頬は緩む。
「……元気だな。
あぁ、このまま那古野に居たいなぁ」
思わず本音がこぼれた。
その時。
「殿、お呼びで?」
振り向けば、浅野五郎兵衛清隆。
万丸の小姓・竹内小四郎、
近習の佐治平九郎が控えている。
宴の準備で追い出されると同時に、
使いを出して三人を呼びよせていた。
「あぁ、来たか」
二人が庭先に整列する。
「うむ、実はな。
俺が今、那古野に戻ったのはな。
何もホームシックなだけではないんだ」
「ほうむすいっく?」
竹内が首を傾げる。
「いや、何でもない」
秀政は茶碗を置いた。
表情が変わる。
「俺が戻ったのはな。武田だ」
空気が締まる。
「清隆、どこまで掴んでいる?」
浅野が一歩前へ。
「武田……。
武田信玄入道が十一月に甲府を発った、
との報せは届いております。
どうやら三河へ向かっているらしい、
という程度で……。
徳川殿は迎撃の構えを取っておられるようですが、
どうにも分が悪い、との噂ばかりでして。
佐久間様や平手様が援軍に向かわれた――
そこまでは確かです。
ただ、戦の様子までは、まだ掴めませぬ。
遠江の情報は乱れておりますゆえ」
「さすがだ。
だがな、俺はもっと知っている」
三人の視線が集まる。
「今日は二十三日だ。
徳川殿は昨日、敗れた」
「――!」
竹内が息を呑む。
「佐久間殿や平手殿は間に合わぬ。
既に戦は終わっておる」
浅野が苦笑する。
「佐久間様はまた遅参ですか?」
「いや、そうも言えん状況だ。
あまりに信玄公の動きが速い」
秀政は低く言った。
「たった一日で――
徳川殿は完膚なきまでに叩き潰された」
「な、なんと……」
「この情報を尾張で知るのは、俺のみだろうな。
おそらく正式に報せがくるのは十日はかかるぞ。
年明けにようやく防衛命令が出るだろう」
浅野の顔が引き締まる。
「殿!一大事ではありませんか。
そんな勢いの武田が尾張になだれ込めば……。
織田も、この芋粥もただではすみませぬ」
「だから先に動くぞ」
きっぱりと言い切る。
「如何にして?尾張の軍権を握る佐久間様もおられませぬ。
現時点で芋粥だけで動かせるのは、那古野の四千のみです」
「あぁ、そうだな。
明日より出陣の準備をしろ。急げよ。
後で林殿につべこべ言われたくもない。
那古野城代としての権限内の防衛配置、
出陣ではないとでも伝えておけ」
三人が息を整える。
秀政は地面に枝で簡単な地図を描いた。
「まず清隆、お前が二千を率いて犬山に入れ」
枝が東へ動く。
「犬山は尾張の北東の要衝。
尾張の織田本軍を警戒し、
北寄りに進む場合は、この筋通る。
ここに兵を置けば、信玄ならば深読みして止まるはずだ」
「は!」
「佐治、お前は千二百を率いて小口砦に入れ」
佐治が土の上の地図を睨む。
「小口砦は木曽川の渡河点を抑える要衝。
ここを押さえる事で武田の渡河を阻止できる」
さらに犬山と小口を枝で指さした。
「それに犬山が抜かれても第二線として、
ここで踏ん張れる。
尾張本土への侵入を遅滞できる」
佐治が不安な顔をする。
「俺にそんな大軍を……」
「心配するな、時間稼ぎよ。
兵を連れて行くだけだ。
それにお前は武名高き勢州一の弓名人ではないか。」
秀政がからかうように笑う。
「武名高き……。
はっ!お任せあれ!」
「そして竹内、お前は初陣だったな。
お前にも兵を率いてもらうぞ。
残念だが井口が伊勢に居る以上、
使える将が居らんのだ」
「は…はぁ……」
「善師野口に五百を率いて入れ。
那古野城の守りは三百あればよい」
竹内の額に汗が一粒流れ落ちた。
「これは東美濃から尾張へ入る山道の出口。
斥候、軽騎を主に置き、
街道封鎖と柵を構築しろ」
「はっ、はい」
声は震えたが、目は逃げない。
浅野が腕を組む。
「武田軍は最強にして、
信玄入道は軍神のように思われております。
我らで食い止めることが出来ましょうや?」
秀政は、にやりと笑った。
「そこよ、今回の出陣は戦にはならぬ」
「は?」
「俺はもう一つ重要な情報を握っている。
信玄公はまもなく死ぬ。
今、瀕死の病でな。
もはや風前の灯火なのだ。
だからこそ、焦っている」
竹内が恐る恐る問う。
「信玄入道が亡くなる?」
「あぁ、だからこそ、
我らは戦うのではなく時間を稼ぐのだ」
自信に満ちた口調で秀政が断言する。
「もし、信玄公が尾張へ急いだとしてもだ。
信玄公は慎重な将だ。
念を入れて、
先行して間者を四方へ飛ばすだろう。
先ほどの配置を見た時どう思う?」
浅野が即答する。
「見事な押さえ。
動きが速すぎる。
警戒するでしょうな。
まずは相手を知るために様子見。
つまり進軍が遅れましょう」
「そうだ」
秀政の目が光る。
「孫子を知る名将ほど、未知を恐れる。
そこに尾張最強の智将、謀玄・鬼備前秀政の軍旗を掲げる」
佐治が苦笑する。
「ご自分でそこまで言われますか、
さすが殿」
秀政は気にせず続けた。
「伊勢での俺の活躍を誇張して噂として流せ。
最強の武田を打ち破るには奇策しかない。
謀玄・鬼備前秀政を侮る武田は、
逆に謀玄の軍略にはまりつつある。
虎も油断すれば猫に引っ掻かれるものだ。
とな。
武田の方が実力が上なのは確かだ。
だが、こんな奇妙な噂を、
聞きつければ警戒するさ。
実際は急場の四千、
将は武名怪しき勢州一と初陣者も含まれておる。
にも関わらず、そう迂闊には踏み込めまい」
(武田信玄に俺の存在を意識させることができたら……。
死に際に『謀玄、おそるべし』とか言ってくれんものかな?
た……たまらん……)
「信玄が死ねば武田は退く。
我らは戦わずして足止めしたことになる。
武田と渡り合ったということで名も上がろう」
沈黙。
やがて浅野が膝をついた。
「拙者、殿を信じます」
「本当に信玄入道は瀕死なのでしょうか?」
不安そうに竹内が問いかけた。
「確実だ。五月までは持たん。
それまで、武田は西上を続けるが、
尾張まで到達できん」
「ところで、殿はなぜ普通に十日もかかる情報を、
今、手に入れているのですか?」
佐治が訝しんで問いかけた。
「ふっ、俺には最強の情報網があるのよ。
俺の本質は鬼備前ではない、謀玄だからな」
「何の説明にもなっておられませんが、
殿が仰っしゃれば、
全く胡散臭さが無いのが不思議です」
佐治も頭をかきながら頷いた。
「わ、わかりました。
初陣が武田との睨み合いであれば語り草になります」
竹内も頷く。
「そうか、では行ってくれ」
三人が去る。
庭ではまだ、明と蘭が笑っている。
影を踏み合い、転び、笑い合う。
秀政はその光景を見つめる。
(俺は今から宴だ。
そしてこれからしばらくは子たちと遊ばねばならん)
庭に、冬の陽が傾いていた。




