第五十八話 伊勢侵攻 論功行賞
十月初旬。
北畠家との和睦成立をもって、伊勢侵攻軍は解散となった。
長く張り詰めていた陣が、音を立てずに、ゆっくりとほどけていく。
信長は、中旬を待たずして岐阜へと戻った。
伊勢に留まる理由は、もはやない。
それどころか――岐阜には、山のような仕事が積み残されている。
将軍・足利義昭との関係調整。
次なる標的、朝倉攻めの準備。
美濃・近江の政務整理。
そして、茶筅丸の人質としての扱いの詰め。
一刻たりとも、無駄にはできない。
まさしく、天下を取りに行く男の動きだった。
*
各将も、それぞれの領地へと帰還の途についた。
秀政には残務として伊勢の検地を命じられた。
だが検地については、自ら手を付けるつもりはなかった。
すべて政成に任せる。
その方が、うまくいく。
政成は、海東郡郡奉行・南條利昌を一時的に呼び寄せ、検地の実務を進めさせている。
この二人に任せておけば、問題は起きない。
(俺たちも、早く帰ろう)
秀政は馬上で息を吐く。
(北畠への仕置きは終わった。
だが――本当に怖いのはこれからだ)
北畠家は、史実ではこの後、信雄の成長を待つ形で、具教も具房も「消える」。
暗殺。
そして、名目上の家督継承。
さらに伊勢は、今すぐにでも、長島一向一揆で大荒れになる。
(君子、危うきに近寄らず、だな)
浅野清隆、村瀬兼良を伴い、速やかに那古野への帰途につく。
*
(……暗殺、か)
ふと胸に冷たいものが落ちる。
(怖いな)
北畠は、確か斬殺だったはずだ。
斬殺なら村瀬や耀がいる分、ある程度は対処できる。
だが――毒となると話は別だ。
(俺も、もう一介の足軽じゃない)
狙われる立場になった以上、警戒しすぎることはない。
秀政は、隣を進む浅野清隆に目をやった。
清隆は、今回目立った戦働きがなかった。
そのことが、顔にはっきりと出ている。
もはや忍びというより、いっぱしの侍大将の風格すらある男だ。
それだけに「何も出来なかった」ことが、余計に堪えたのだろう。
秀政は、馬を寄せ、小声で話しかけた。
「清隆。功を焦るな」
清隆がちらりとこちらを見る。
「お前の力は、十分に北伊勢で見せてもらった」
「はぁ……。
せっかく二千も引き連れてきたというのに……。
手柄の一つも示せなかったのは、正直悔しゅうござる」
「まぁ、そう言うな」
秀政は苦笑する。
「阿拝忍衆の力は、よく分かった。
契約は――永禄十三年から変更しよう」
清隆の眉がわずかに動いた。
「阿拝監物に伝えてくれ。
当初の申し出通り、阿拝家に年五百貫払う」
「……五百貫でございますか?」
「藤林阿拝家が、総力で支えてほしい」
清隆が思わず息を呑む。
「よ、よろしいので?」
「その価値があると知った」
秀政ははっきりと言った。
「お前たち五人だけでも、それだけの価値がある。
出来れば、ずっと囲っておきたい。
それに金払いが良い方が、阿拝監物の受けも良かろう?」
(七十貫は、俺の懐から出していたが……)
秀政は内心で計算する。
(この規模なら、那古野城の軍費から出すべきだ。
必要経費扱いだな。
俺の懐は痛まない)
清隆は深く頭を下げた。
「そこまで言って頂けるとは……。
忍び冥利に尽きますな。
兄にはそのように伝えまする」
「それともう一つ」
「は?」
「毒に詳しい者を用意してほしい」
清隆が目を見開く。
「毒……?
誰かを殺すので?」
秀政は首を横に振った。
「いずれはそういう使い道もあるかもしれん。
だが、まずは自衛だ」
「……承知しました」
清隆は真顔になる。
「阿拝家総出となれば、他にも変わった特技の者がおります。
何なりとお言いつけ下され」
「あぁ、頼む」
秀政は前を向いた。
「さぁ、急いで戻ろう。
お悠を安心させてやりたい」
一瞬声が柔らぐ。
「良い子を産めるようにな」
「……は!」
清隆は力強く応えた。
伊勢侵攻は終わった。
*
秀政が那古野へ戻って、ほどなく――予言通り、伊勢は荒れた。
長島で一向一揆が勃発した。
いわゆる、第一次長島一向一揆 である。
一向宗門徒。
織田信長に反感を持つ北伊勢の国人衆。
北畠家の屈服に危機感を抱いた彼らが結びつき、織田方の代官を襲撃。
長島一帯は、瞬く間に反乱状態へと陥った。
秀政の脳裏に嫌な記憶がよぎる。
(史実通りだ)
すぐに、伊勢方面の軍事責任者――滝川左近一益が出陣し、鎮圧に向かった。
しかし、長島の地形は厄介だった。
水路が入り組み、湿地が多く、攻め込めば足を取られる。
加えて、一向宗門徒は粘る。
籠城とゲリラ戦を徹底し、決戦を避け続けた。
結果――。
滝川勢は大打撃を受けた上に、決定打を欠き、完全鎮圧には至らなかった。
第一次長島一向一揆は火種を残して、いったん見かけ上は沈静化した。
*
十一月中旬。
遅れていた伊勢侵攻の論功行賞が、岐阜にて行われることとなった。
織田家の重臣、武将たちが一堂に会する。
もちろん、秀政も呼び出されている。
今回の論功行賞は伊勢侵攻だけでなく、直近の働きも含めて評価される形だった。
その中で――ひときわ場の空気を動かしたのは、やはりこの男だった。
「木下秀吉!」
信長の声が堂に響く。
「上洛ならびに京での働き、そして阿坂城での功をもって――侍大将に取り立てる!」
一瞬、どよめき。
秀吉は、傷が完全に癒えていない身体を押して深く頭を下げた。
「は……ははぁ!
ありがたき幸せ!
この猿め、まだまだ働きますでの!」
痛みのせいか、控えめな喜び方だが、それがかえって目立つ。
秀政はその裏を読む。
(やはりな。
これから越前・朝倉へ攻め込む。
侍大将は足りない。
秀吉を足軽大将で止めておく理由がない。
功を“作って”昇格させた。
少々性急だが、妥当だ)
信長は、続けて言い放つ。
「次は越前の朝倉だ。
侍大将として従軍せよ。
早ぉ、傷を治せ」
「ははぁ!
唾でもつけて、明日にでも治しまする!」
その軽口に、場がわずかに和む。
秀政は呆れたように息を吐いた。
(こいつ……本当に唾をつけてそうだな)
その時だった。
「――芋粥備前守秀政」
名を呼ばれ、秀政は背筋を伸ばす。
「伊勢北勢戦、並びに街道施設整備の功をもって――侍大将に昇格させる」
「謹んで、拝命仕ります」
(……やはり来たか)
信長はにやりと笑った。
「猿、芋。
残念だが、お前たちは同時に侍大将だ。
与力は次の機会だな。
はははっ!」
秀吉が笑いながら返す。
「次は国持ち大名勝負ですかーね?」
「そうだ」
信長も楽しそうに応じた。
「早く国を持てるほどになってみよ」
場の空気は明るい。
信長は、ふと表情を改め、秀政に視線を向けた。
「それはさておき、芋」
(……なんだ?)
「お前は侍大将格の那古野城代だ。
もう少し、働けよう?」
(また何か押し付けられるな……)
「は!
何なりと!」
信長は淡々と告げた。
「芋粥備前は、那古野城代と――伊勢惣奉行を兼務せよ」
「……はえ?伊勢……惣奉行?」
思わず、声が漏れた。
「伊勢方面軍奉行は滝川一益。
軍事はすべて一益に任せる」
「は!」
滝川がいつも通り応じる。
「芋は、伊勢惣奉行として、全郡を統括し、政を進めよ」
(……軍は滝川、政は俺。
だから、検地を任せたのか)
「……承知、しました」
だが――頭の中で警鐘が鳴り響く。
(待て!
待て待て待て!!
この時期に、伊勢惣奉行?)
冷や汗が噴き出す。
(それって――長島一向一揆と、真正面からぶつかるってことじゃねーか!!)
秀吉がにやにやしながら囁く。
「芋ぉ、相変わらず運がええなぁ。
出世街道やないか!」
秀政は即座に小声で返した。
「馬鹿言え。
まさに大凶の貧乏くじだ」
こうして――
伊勢侵攻は、表向きは大勝利で終わった。
だが秀政にとっては、ここからが本当の地獄だった。




