第五十三話 英雄は英雄を知る
八月。
ついに――織田信長本隊が美濃を発った。
進軍路は芋粥の表道。
街道は広く整い、人馬の流れは滞ることなく南へと伸びていく。
道がある。
それだけで、五万の軍は“塊”として動ける。
信長は、その価値を知っていた。
行軍が乱れねば、兵站も乱れぬ。
この遠征は、まずその土台から整えられていた。
*
桑名近辺。
伊勢湾からの湿った風が吹く地で、芋粥秀政は那古野勢二千を率いて本隊に合流した。
その光景を前に、秀政は思わず息を呑む。
(……でかいな)
視界の先まで続く幟。
隊列を埋め尽くす兵、兵、兵。
ただの数ではない。
秩序を保ち、役割を持った「軍」だった。
今回の陣容は、こうだ。
信長直属軍――五千。
その内訳は。
馬廻衆、千。
小姓衆・近習衆、三百。
旗本足軽(鉄砲・弓・槍)、二千。
黒母衣衆・赤母衣衆――精鋭の伝令百。
そして、鉄砲隊、二千。
そこに続く柴田勝家隊、五千。
丹羽長秀隊、三千。
佐久間信盛隊、三千。
滝川一益隊、三千。
明智光秀隊、二千。
美濃三人衆、三千。
さらに芋粥秀政隊、二千。
そこに北伊勢衆一万に、兵站要員七千、動員雑兵一万が続く。
合計、およそ五万。
公称七万と喧伝されるのも、無理はなかった。
(……これが、天下を見据えた軍か)
数だけではない。
前、横、後ろ――どこを見ても“役割”がある。
戦う者。
支える者。
運ぶ者。
秀政は、はっきりと理解した。
(これは勝つべく組まれた戦だ)
*
秀政の任は、軍奉行――参謀役。
那古野勢の役目は工作兵。
戦場で刃を振るう立場ではない。
五万を動かす“血脈”を預かる立場だった。
同じく、軍奉行として信長に随行する将がいる。
明智十兵衛光秀。
理知的で、端正な顔立ち。
装束も、所作も、隙がない。
秀政と同様、戦そのものよりも「全体」を見る役割だ。
この時期では、まだ、それほど注目されているわけではない。
二人は、自然と信長の近くに控える位置となった。
(……なるほどな)
秀政は内心で思う。
(この男が、俺と同じ“場所”に立つのか。
マジで興奮する)
光秀の視線が、一瞬だけ秀政をかすめた。
その目には、秀政を値踏みするような色があった。
*
一方、別動隊。
木下秀吉は、政成と与英が整えた裏道を用い、兵千五百を率いて阿坂城へと向かっていた。
一度は降った阿坂城の大宮氏が、再び反旗を翻したという報せ。
それを討つ役を、秀吉に任せたことに、信長の意図は透けて見えた。
(功を積ませる気だな)
秀政ははっきりとそう思った。
表で信長が圧をかけ、裏では秀吉が首を取る。
その両方を可能にしているのが、この道だった。
政成が通した裏道は、秀吉の戦を確実に“楽”にする。
(義父殿……
やはり抜け目がない)
戦場で目立たずとも、勝敗に直結する働き。
それが、芋粥家の流儀だった。
*
かくして織田信長率いる大軍は、南伊勢へと雪崩れ込んでいく。
信長のすぐ傍らで、参謀――明智光秀と秀政が同じ景色を見る。
このとき、まだ誰も知らなかった。
この「道」を巡る評価が、やがて一人の男の心に小さな棘を残すことを。
行軍の合間。
桑名を発ってしばらくした頃、本隊は安濃津の街道脇の広い野に、一度陣を敷いた。
馬を下り、信長は地図を前に腰を下ろす。
そのすぐ脇に控えるのは、明智光秀と芋粥秀政。
いずれも、今はまだ「名が売れている」とは言い難い男たちだった。
*
信長は、地図の上を指でなぞりながら、ふと何気ない口調で言った。
「……道がえらく良いな」
秀政は即座に口を開かない。
光秀も同様だった。
信長は気にせず続ける。
「広い。
しかも、無駄がない。
五万が動いても詰まらぬ」
視線だけを上げ、二人を見た。
「誰が通した?」
沈黙。
最初に答えたのは、光秀だった。
「は。
芋粥殿が采配されたと、聞き及んでおります」
簡潔。
余計な功を、秀政の方へ引き寄せない言い方。
信長は「ほう」と鼻を鳴らした。
「そうか。
……では、芋」
名を呼ばれ、秀政は一歩前に出る。
「は」
「お前はなぜ戦より前に“道”へ目を向けた?」
問いは短い。
だが、軽くはない。
秀政は一瞬だけ考えて、冷静に答えた。
「此度は勝ちの見えた戦です。
こういう時こそ道が戦の主軸となり、様々な意味を持ちます」
光秀が、ちらりと秀政を見る。
信長は表情を変えずに問う。
「では、芋。
お前にとってこの戦における道とはなんだ?」
「この道は“早く通す”ためではなく“遅れぬため”に作られております」
「ほう?」
「雨でも、荷が重くとも、隊が乱れぬように。
つまり――」
秀政は言葉を選ぶ。
「戦に勝つためではなく、負けぬための道です」
信長は、口角を上げた。
「勝ちが見えた戦こそ、負けぬためのものと申すか?
面白いことを言う」
一方、光秀は黙って聞いている。
(……派手なことは言わぬ。
だが、視点は鋭い)
光秀はそう評価していた。
*
信長は、今度は光秀を見る。
「十兵衛。
お前はどうだ?」
「は」
光秀は一礼し、淡々と答えた。
「この道は、軍の“顔”を揃える道かと」
「顔?」
「はい。
兵が疲れず、不満を溜めず、命令が行き届く。
五万の軍に、勝ちという唯一つの方向を見せるための道です」
秀政は、内心で小さく唸った。
(……なるほどな)
同じ道を見て、自分とは別の切り口を出してくる。
(こいつもただ者じゃない)
信長は二人の顔を見比べた。
「ふん……」
信長は、鼻で笑った。
*
信長が去った後、二人はしばらく黙っていた。
先に口を開いたのは、光秀だった。
「……見事な道ですな」
探るような声。
秀政は、肩をすくめた。
「義父と与力の働きです。
それがしは見ていただけ」
「謙遜を」
光秀は薄く笑う。
「見える者でなければ“見ていただけ”とは申せませぬ」
秀政も笑った。
「十兵衛殿こそ。
戦を人の形で見ておられる」
「……」
光秀は、一瞬黙ってから返した。
「思った以上に芋粥殿は優れた御仁のようだ。
今後ともこの十兵衛をお引き立て頂きたく」
「ご冗談を」
秀政は即答した。
(俺は知っている。
お前はこれから織田の筆頭まで駆け上がる。
引き立てろとはよく言うわ)
「いえいえ、本心から申しておりますよ」
苦労を重ねてきた明智光秀は、これから織田家中で上を目指す中で、秀政を意識するようになった。
――この男は、いずれ邪魔になるかもしれぬ。
――あるいは、頼もしい味方になるかもしれぬ。
どちらになるかは分からない。
ただ、この日から光秀は、芋粥秀政という名を頭の片隅に置くことになった。
一方、秀政は芸能人に出会えたような快感を覚えていた。
*
信長本隊は木造城に到着した。
この陣容に、北畠勢は戦わずして距離を取った。
そんな中、母衣衆の一人が慌てて、信長の元に駆け込んだ。
「大変です!
怪しい木こりを見つけたため、捕まえてあらためたところ、このような密書が!」
信長は黙って受け取って、中身を確認した。
阿坂城の大宮から北畠に向けた密書だった。
「猿め、油断しおって」
信長は苦々しくそう吐き捨てると、秀政に向けて密書を放り投げた。
それを拾い上げ、秀政は中を確認する。
(阿坂城にて、弓名人・大宮景連が強弓で、敵将木下秀吉の……
左脇を射抜き、討ち取り候!?)
信長は、焦る秀政に目を向けると、落ち着いて指示した。
「芋、ここは良い。
阿坂を見て参れ!」
「は!直ちに!」
(信長は落ち着いて見せているが、内心は焦っているはずだ。
既に秀吉は信長の中で戦略上、外せない人間になりつつある)
秀政は馬に乗り、村瀬を連れて阿坂へと向かった。
(だめだ、細かい歴史を思い出せん。
この時期、秀吉に何があった?!
こんな所で死ぬお前ではあるまい!?)




