第三百四十一話 義兄上の盲点
天正十年五月。
伊勢国、鈴鹿館。
千種政親が秀政のもとを訪れたのは、昼過ぎのことだった。
政親は、秋の中国方面軍への出陣準備について報告するため、鈴鹿館へ足を運んでいた。
軍勢の再編や兵糧の確保は順調に進んでいる。
しかし、政親にはそれとは別に、秀政へ許可を取りたいことがあった。
明智との外交である。
奥の間へ案内されると、そこにはすでに先客がいた。
藤林である。
秀政は、藤林から諸国の情勢について報告を受けているところだった。
「……そうか。
再び長宗我部の周辺で噂が広まっておるのか」
「はっ。明智家の周辺でも、似たような話が聞かれるようになっております」
藤林は、手元の書付に目を落としながら答えた。
「上様が長宗我部家の処遇について再びお考えを改められ、阿波と讃岐を召し上げるおつもりだという噂にございます」
「また、その話か……」
秀政は、眉をひそめた。
長宗我部家の処遇については、すでに信長の意向が明らかになっているはずだった。
少なくとも、当面は長宗我部家の領有を認め、毛利家との戦いに協力させる方針である。
明智光秀も、そのことは承知している。
それにもかかわらず、同じような噂が繰り返し広まっているという。
「それで、長宗我部はどうしておる?」
「今のところ、目立った動きはございませぬ。
しかし、毛利方からも何らかの働きかけがあるようでございます」
「毛利からもか?」
「はっ。長宗我部家に対して、織田家を信用してよいのかと疑念を抱かせるような話が伝わっているとのことでございます」
秀政は、腕を組んだ。
「……きな臭いな」
「はい。拙者も、そう感じております」
藤林は頷いた。
「噂そのものは、さほど珍しいものではございませぬ。
しかし、今回は明智家と長宗我部家の双方で、似た話が繰り返し聞かれるようになっております」
「偶然ではないと?」
「その可能性が高いかと存じます」
「しかも、その噂の出所の一つが、芋粥家であるとも言われております」
「我らはこの件には一切、発言はしておらんぞ?」
「はい。あるいは我らの立場を悪くする目的もあるやもしれません」
秀政は、しばらく黙っていた。
(……まずいな)
天正十年五月。
史実で本能寺の変が起きるまで、残された時間はわずかだった。
秀政は、これまで何度も歴史を変えてきた。
本来なら起きたはずの事件が起きず、史実とは異なる戦が起き、織田家の勢力図も大きく変わっている。
それでも、武田勝頼が天目山で自害した日は、史実と同じ三月十一日だった。
そして今、明智光秀と長宗我部元親を巡る不穏な動きが、再び表面化している。
(……歴史は変えられないのか?
いや、そんなはずはない。これまで散々変えてきたではないか)
しかし、武田家の滅亡が史実と同じ日に起きたことが、どうしても頭から離れなかった。
(もし、大きな歴史の流れだけは変わらないとしたら……)
秀政は、思わず息を吐いた。
(本能寺の変は、やはり起きるのか?)
仮に光秀が謀反を起こしたとしても、史実と同じ結果になるとは限らない。
この世界の織田家は、史実とは異なる軍事力と領国を持っている。
秀政自身も、史実には存在しない大名として、織田家の重臣に名を連ねていた。
秀政が伊勢にいる以上、明智にとっては、史実には存在しなかった有力な軍勢が畿内の近くに控えていることになる。
本能寺の変は軍事的空虚を突いた乱とも言われる。
だからこそ、秀政の存在は最大の抑止力にもなるはずだ。
それゆえ、六月に何が起きるのか予測できない。
(もし本能寺の変が起きたら、どうなる?)
信長が討たれるのか。
それとも、史実とは異なる形で光秀の謀反が失敗するのか。
そして、その時、自分はどこにいるのか。
(……どう動くのが、俺にとって正解なのだ?)
秀政は、答えを出せずにいた。
その様子を、政親は黙って見ていた。
「……義兄上?」
「ん?」
「いかがされました?
顔色がよくありませぬ」
政親は、秀政の顔を覗き込んだ。
「さすがの義兄上でも、明智家のことがご心配ですか?」
「まぁな……」
秀政は、曖昧に頷いた。
「殿の身に、何かあるまいかと心配になる」
「……上様ですか?」
政親は、わずかに目を細めた。
「明智家の行く末ではなく?」
「ん?」
秀政は、政親を見た。
一瞬、余計なことを口にしてしまったかと思った。
しかし、すぐに首を振った。
「いや、考え過ぎだな」
秀政は、気を取り直すように笑った。
「今の織田家は万全だ。
東方の武田も滅び、関東には滝川殿が入った。
北陸も中国も、いずれ決着がつくだろう」
「はい」
「俺が秋に中国へ赴けば、毛利との戦いもさらに有利になる。
そうなれば、日本統一もますます近づくというものだ」
秀政は、そう言って頷いた。
政親も、表面上は同意した。
「まことに、そのとおりにございます」
しかし、その胸中では別のことを考えていた。
(……さすがは義兄上)
政親は、改めて秀政の顔を見た。
(ここで上様の身を案じられるとはな)
明智家と長宗我部家の間に不穏な噂が広がっている。
普通なら、両家の関係が悪化することや、光秀が信長の不興を買うことを心配するだろう。
ところが、秀政は真っ先に信長の身を案じたのである。
(やはり、俺が唯一敵わぬと思うだけの方だ)
政親は、義兄の洞察力に改めて感心した。
同時に、一つの疑問が浮かんだ。
(……義兄上は、どこまで把握されておる?)
まさか、光秀が謀反を起こす可能性まで考えているのだろうか。
政親は、秀政の表情を確かめた。
しかし、そこから考えを読み取ることはできなかった。
そこで、政親は藤林へ顔を向けた。
「藤林。その噂の出所は分かっておるのか?」
「はぁ……」
藤林は、少し困ったような顔をした。
「現在、探っておりますが、いまだ分かっておりませぬ」
「ほう。お主らでも分からぬか」
「申し訳ございませぬ」
藤林は、頭を下げた。
「なかなか手練れの忍びが動いているようにございます。
派手に動いてくれれば追うこともできますが、ここまで慎重に噂を流されると、なかなか尻尾を掴めませぬ」
「なるほどな」
政親は、腕を組んだ。
「だが、織田家と芋粥家に関わる一大事だ。
分からぬでは済まされぬぞ」
「はっ」
「死ぬ気で探れ。
伊賀の沽券に関わると思え」
藤林は、顔を引き締めた。
「……承知。
必ずや掴んでみせまする」
政親は、さらに続けた。
「それと、毛利の世鬼衆にも注意せよ」
「世鬼衆でございますか?」
「うむ。奴らは、すでに畿内の各地に多く潜んでおるはずだ」
政親は、かつての戦を思い出した。
「本願寺攻めの折には、義兄上も俺も随分と苦労させられた。
あの連中ならば、今回のような流言を仕掛けても不思議ではない」
「確かに……」
藤林は、考え込んだ。
「毛利家が長宗我部家に働きかけているという情報もございます。
世鬼衆が関わっている可能性は十分にありましょう」
「ならば、そこにも調べを入れよ」
「はっ!」
藤林は、深々と頭を下げた。
秀政は、二人のやり取りを聞きながら頷いた。
「政親、すまんな」
「は?」
「この件は、捨て置くわけにもいかん。
お前も藤林に協力してやってくれ」
「もちろんにございます」
政親は、即座に頭を下げた。
「義兄上のご懸念を取り除くため、できる限りのことをいたしましょう」
「うむ。頼むぞ」
秀政は、少し安心したように頷いた。
ところが、政親は再び秀政の顔を見た。
「それにしても、義兄上」
「何だ?」
「やはり、顔色が優れませぬ。
何かお悩みでもあるのですか?」
秀政は、政親を見返した。
そして、少し呆れたように笑った。
「ん? 実の子のくせに薄情な奴だな」
「……は?」
「義父殿のことは気にならんのか?」
政親は、一瞬だけ黙った。
千種政成のことである。
政成は、長年にわたって芋粥家を支えてきた筆頭家老だった。
しかし、労咳を患ってからは病状が悪化し、今ではほとんど床から起き上がることもできなくなっている。
「……父上のことでございますか」
「そうだ。お前も知っておろう」
「はい。父上の病状は、相当に悪くなっております」
政親は、落ち着いた口調で答えた。
「薬師の話では、もはやひと月もつかどうかとのことにございます」
「……そうなのだ。
俺は、いまだに義父殿との別れを受け入れられぬ」
三月に薬師から余命を告げられた時は、長くとも三月ほどと言われていた。
それから二月が過ぎている。
病状がさらに悪くなっていても、不思議ではなかった。
政親は続けた。
「ですが、労咳である以上、致し方ありませぬ」
「……うむ」
「私も、父上の病を知ってから、随分と悲しみました。
しかし、いつまでも悲しんでいるわけにはまいりませぬ」
政親は、秀政を見た。
「すでに悲しみ尽くしました。
今は、父上の最期を受け入れる覚悟ができております」
秀政は、しばらく政親を見つめていた。
政親は、幼い頃から政成の厳しい教育を受けて育ってきた。
父子の間には、他人には分からない思いもあるのだろう。
それでも、秀政には少しばかり割り切りが早すぎるように感じられた。
「……まぁ、いい」
秀政は、小さく息を吐いた。
「義父殿は、俺にとっても実の親に等しい方だ」
「はい」
「俺がまだ何者でもなかった頃から、義父殿は支えてくださった。
今、俺が伊勢の大名としてここにあるのも、義父殿のおかげだ」
秀政は、政成と過ごしてきた日々を思い返した。
足軽組頭だった頃から、政成は常に秀政の側にいた。
時には厳しい意見を述べ、時には秀政の無理な考えを実現するために力を尽くしてくれた。
秀政が領地を広げ、家臣を増やし、織田家の重臣となるまで、政成の働きが欠かせなかったことは間違いない。
「その義父殿が、もう長くないと思うとな……」
秀政は、言葉を切った。
「どうにも、少し思考が鈍る」
「……義兄上」
政親は、驚いたように秀政を見た。
秀政が、そこまで父のことを考えてくれているとは思っていなかった。
(義兄上は、本当に父上を大切にしてくださっておるのだな。
それゆえに、今は義兄上の洞察力が鈍っている。
俺の動きに全く気づいておらぬようだ。
父上のおかげというべきか)
「義兄上」
「何だ?」
「ここは、私にもうひと働きさせてくだされ」
「ほう?」
政親は、真剣な表情で続けた。
「義兄上の余分な心配を、一つ取り除いてみせます」
「……どういうことだ?」
「実は、明智殿のことでございます」
秀政は、政親を見た。
「明智殿?」
「はい。何やら先日、衆目の前で恥をかかされたとか」
「ああ……」
秀政は、頷いた。
「聞いておる。
上様に足蹴にされたそうだな」
「左様にございます」
秀政は、再び考え込んだ。
(……足蹴事件は、この世界では起きてしまったようだ)
史実でも、光秀が信長から人前で辱めを受けたという逸話が伝わっている。
それが本当にあった出来事なのか、秀政には分からない。
しかし、この世界では、少なくともそのような話が広まっていた。
(まったく……嫌な話ばかり重なるな)
秀政は、眉をひそめた。
政親は続けた。
「今年は、年始のご挨拶を明智殿にできておりませぬ」
「そうだったな」
「はい。そこで、この機会に一度、明智殿のもとへご挨拶に伺おうかと考えております」
「ほう」
「お見舞いも兼ねて、直接お話をしてまいります。
そのうえで、明智殿が何を懸念しておられるのか、確かめてまいりましょう」
秀政は、政親の話を聞いていた。
「なるほどな」
「長宗我部家の件についても、義兄上から伺っている上様のご方針を改めてお伝えし、明智殿のご懸念を晴らしてまいります」
「……そうか」
秀政は、少し考えた。
政親は、以前から光秀と懇意にしている。
しかも、政親は織田家中の事情にも通じており、交渉事にも長けている。
光秀の不安を取り除くために、直接会って話をするというのは悪い考えではなかった。
「うむ。それもありだな」
秀政は、頷いた。
しかし、ふと政親の顔を見て、別の考えが浮かんだ。
(……政親)
政親は、涼しい顔をして秀政の返事を待っている。
その表情を見ていると、秀政は何となく落ち着かなかった。
(こいつが、こういう顔をしている時はな……)
政親は、優れた武将である。
頭の回転も早く、必要とあれば大胆な手も打つ。
しかし、そのやり方には、時として秀政でも驚くようなものがあった。
(……何か嫌な予感がする)
秀政は、しばらく政親の顔を見ていた。
そして、口を開いた。
「よし。では、行ってくれ」
「はっ!」
「ただし、神崎も連れていけ」
政親は、わずかに目を見開いた。
「……神崎も、でございますか?」
「うむ。
神崎は、今や家中法度の制定にも携わっておる。
政務にも通じているし、明智殿と話をする際にも雑談の話題として役に立つだろう」
「……なるほど」
政親は、少し考えた。
しかし、すぐに頭を下げた。
「承知いたしました。
神崎も同行させます」
「うむ。頼むぞ」
秀政は、満足そうに頷いた。
そして、思い出したように付け加えた。
「それと、なるべく早く帰ってこい」
「は?」
「義父殿のことだ」
秀政は、政親を見た。
「父親の死に目を逃すような真似だけはするなよ」
政親は、しばらく秀政を見つめていた。
やがて、深々と頭を下げた。
「……はっ。承知いたしました」




