第三百四十二話 気が晴れる話
天正十年五月。
伊勢国を発った千種政親の一行は、明智光秀のもとへ向かっていた。
政親に同行しているのは、神崎友清と数名の従者である。
もっとも、従者たちは普通の家臣ではなかった。
いずれも神崎が手配した甲賀の忍びであり、道中の護衛と情報収集を兼ねている。
また、一行の周囲では、さらに多くの甲賀忍者が人目につかぬよう警戒に当たっている。
政親が明智家を訪ねるのは、表向きには年始の挨拶が遅れたことへの詫びと、先日、信長から叱責を受けた光秀への見舞いのためだった。
しかし、実際の目的は別にある。
長宗我部家の処遇を巡って不安を抱いている光秀に接触し、その疑念をさらに深めさせることである。
政親は、今回の訪問を重要な機会と考えていた。
これまで神崎とともに進めてきた流言工作は、毛利家を通じて長宗我部家にも影響を与え始めている。
そこへ信長による光秀への叱責が重なった。
今ならば、光秀の心を動かせるかもしれない。
そう考えていたのである。
一行が人家の少ない街道に差しかかった頃だった。
神崎が、政親の側へ馬を寄せてきた。
「殿。一つ、お耳に入れておきたいことがございます」
「何だ?」
「実は、伊勢守様から、殿を監視するように申しつけられております」
政親は、すぐには答えなかった。
馬上で顔を横に向け、神崎を見た。
神崎は、普段と変わらぬ表情をしている。
その様子を見て、政親は周囲へ目を向けた。
街道には、政親たち以外の旅人の姿がない。
先を行く従者も、後ろに控える者たちも、神崎が手配した甲賀の忍びである。
おそらく、この辺りの安全はすでに確保されているのだろう。
人目を避ける必要があると判断した神崎が、あらかじめ周辺を調べさせていたに違いない。
政親は、再び神崎を見た。
「……そうか」
それだけ答えると、しばらく考えた。
「なぜ急にお前を同行させるよう仰せになったのか、少し気にはなっていた」
「はい」
「義兄上は、俺のことを疑っておられるのか?」
「その可能性はございます」
神崎は、隠すことなく答えた。
「伊勢守様は、明智殿が上様に反旗を翻すのではないかと、心配されておいでです」
「……明智殿が上様にな」
政親は、思わず笑みを浮かべた。
「なるほど。そこまで考えておられたか」
政親は、前日の鈴鹿館での会話を思い返した。
明智家と長宗我部家の周辺で流言が広まっていると聞いた秀政は、明智家の行く末ではなく、信長の身を案じていた。
あの時、政親は義兄の洞察力に感心したものだった。
しかし、神崎の話を聞く限り、秀政は単に漠然と不安を感じていたわけではないらしい。
光秀による謀反という、具体的な可能性まで考えているのである。
「この日本において、そんな心配をしているのは、俺たちと……義兄上くらいだろうな」
政親は、苦笑した。
「普通なら、明智殿が上様に謀反を起こすなど、考えもせぬだろう」
「左様にございます」
「明智殿は、上様の信任厚い重臣だ。
畿内にも所領を持ち、織田家中でも重きをなしておる。
そのような者が、なぜ自らの立場を捨ててまで謀反を起こすのか。
そう考えるのが普通だからな」
政親は、腕を組もうとして、馬上であることを思い出して手綱を握り直した。
「だが、義兄上は違う」
「はい」
「明智殿が置かれた立場と、長宗我部家を巡る不安を考えれば、謀反という可能性にまで思い至る。
やはり、並の方ではないな」
神崎は、政親の言葉を聞きながら頷いた。
「伊勢守様は、どこまでご存じなのでしょうか?」
「……分からぬ」
政親は、答えを探すように言葉を継いだ。
「義兄上は、時として抜けておられるように見える。
だが、その実、何を考えておられるのか分からぬところがある」
政親は、秀政とともに過ごしてきた年月を思い返した。
秀政は、武将として優れているだけではない。
戦場では敵の動きを読み、領国経営では誰も思いつかぬような策を打ち出す。
しかも、時には周囲が理解できぬような判断を下しながら、結果として大きな成果を挙げてきた。
政親自身、秀政の考えを読み違えたことは一度や二度ではなかった。
「義兄上は、底知れぬお方だ」
政親は、そう言って頷いた。
「俺が唯一、天下人にふさわしいと認めた方でもある」
「はい」
「今回も、素知らぬ顔をして俺たちを泳がせている可能性すらある」
神崎は、政親の顔を見た。
「……そこまでお考えですか」
「当然だ」
政親は、即座に答えた。
「義兄上を相手にする以上、こちらの考えがすべて見抜かれている可能性も考えておかねばならぬ」
もっとも、政親には一つの疑問があった。
仮に秀政が自分たちの策謀を見抜いているのなら、なぜ今回の訪問を許したのだろうか。
政親を明智家へ向かわせず、伊勢に留め置くこともできたはずである。
それどころか、神崎を同行させるよう命じている。
(……義兄上は、何をお考えなのだ?)
政親は、答えを出せずにいた。
その時、神崎が口を開いた。
「そういえば、伊勢守様から気になるお言葉を伺いました」
「何だ?」
「本能寺、という言葉でございます」
政親は、神崎を見た。
「……本能寺?」
「はい」
「何のことだ?」
「京にある寺のようにございます」
政親は、眉をひそめた。
「京の寺か……」
「伊勢守様が何をお考えになって、その名を口にされたのかは分かりませぬ」
「ふむ……」
政親は、しばらく考えた。
「まさかな。今回の上様や中将様の京滞在に関わることか?」
「その可能性はございますが、確かなことは分かりませぬ」
「そうか……」
政親は、再び考え込んだ。
信長と信忠が京に滞在すること自体は、珍しい話ではない。
しかし、秀政が明智光秀の謀反を警戒しているというのであれば、京の寺の名を口にしたことにも、何らかの意味があるのかもしれない。
(……義兄上は、京で何かが起きるとお考えなのか?)
政親は、思わず笑った。
「ふふ……なるほどな」
「殿?」
「義兄上も、いよいよ天下を意識されたということか」
神崎は、首を傾げた。
「どうでしょうか?」
「何?」
「拙者には、伊勢守様が天下を望んでおられるようには見えませんでした」
「……ほう」
「むしろ、上様の身を案じておられるように感じました」
政親は、神崎を見た。
神崎は続けた。
「伊勢守様からは、殿が明智殿に余計なことを申さぬよう、よく見ておくようにと命じられております」
「……なるほどな」
「そして、私は明智殿の不安を取り除き、決して短慮を起こさぬよう導け、と」
政親は、黙っていた。
秀政は、光秀が謀反を起こす可能性を警戒している。
そのうえで、政親と神崎を明智家へ向かわせた。
政親が光秀に余計なことを言わぬよう、神崎に監視を命じてまで。
(……やはり、義兄上は何か掴んでおられるのか。
家老である俺が面会を求めれば、明智殿は俺の言葉を義兄上の意向として受け取るかもしれぬ。
つまり、遅ればせながらの年始の挨拶を建前として俺を前に出し、神崎を通じて明智光秀に短慮を戒める無言の警告を与えようとしているのかもしれない。
だが、それは神崎が俺の同志ではない前提でだ)
政親は、考えた。
仮に秀政が謀反の可能性を察しているとしても、どこまで事情を知っているのかは分からない。
自分たちが流言を仕掛けたことまで把握しているのか。
それとも、単に光秀の置かれた状況から危険を感じ取っているだけなのか。
いずれにせよ、油断はできなかった。
神崎は、政親の様子を確かめてから尋ねた。
「……殿」
「何だ?」
「計画を取りやめますか?」
政親は、すぐには答えなかった。
馬を進めながら、前方の街道へ目を向けた。
今回の計画は、単に明智光秀を謀反へ追い込むためだけのものではない。
信長が健在である限り、秀政は織田家の重臣として、その命令に従い続けるだろう。
秀政自身がどれほど優れた能力を備えていても、信長が天下を統一してしまえば、芋粥家が天下を目指す機会は失われる。
そして、その才を継ぐ秀文すらも、信長によって芋粥家の庶子に落とされてしまうのだ。
政親は、それを惜しいと考えていた。
義兄には、天下人となるだけの器量がある。
ならば、その可能性を閉ざしてしまうのは、あまりにも惜しい。
しかも、今ならば明智光秀という、織田家中でも有力な武将が不安を抱いている。
長宗我部家を巡る問題もあり、信長から人前で辱めを受けたという話まである。
このような条件が、再び揃うとは限らなかった。
政親は、神崎へ顔を向けた。
「……いや」
その声に、迷いはなかった。
「このような機会は、今後二度と訪れぬ」
「はっ」
「義兄上が何をお考えなのかは分からぬ。
だが、俺たちがここで手を引けば、これまでの工作も無駄になる」
政親は、前方を見据えた。
「我らの目的は果たす」
神崎は、深々と頭を下げた。
「はっ!」
一行は、そのまま明智家へ向けて進んでいった。
*
政親の一行が明智光秀のもとへ到着したのは、それからしばらく後のことだった。
訪問の趣旨は、すでに先触れによって伝えてある。
政親は、年始の挨拶が遅れたことへの詫びと、光秀への見舞いを兼ねて訪ねてきたことを告げた。
明智家の家臣たちは、政親を丁重に迎え入れた。
千種政親は、芋粥秀政の義弟であり、芋粥家家老でもある。
しかも、これまで光秀とは幾度も交渉を重ねてきた間柄だった。
そのため、突然の訪問ではあったものの、特に怪しまれることもなかった。
政親と神崎の二人は、奥の間へ案内された。
ほかの従者たちは、別室で待つことになった。
奥の間には、すでに茶が用意されていた。
政親と神崎が腰を下ろして待っていると、やがて廊下から足音が聞こえてきた。
「お待たせいたした」
そう言って姿を現したのは、明智日向守光秀だった。
政親は、すぐに頭を下げた。
「日向守様。ご無沙汰いたしております」
「よく来られた。伊勢介殿、神崎殿」
光秀は、二人に笑みを向けた。
「遠路はるばる、よう参られたな」
「はっ。本日は突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただき、かたじけなく存じます」
「何を申される。伊勢介殿なら、いつでも歓迎いたしますぞ」
光秀は、そう言って上座に腰を下ろした。
その顔を見た政親は、思わず眉をひそめた。
光秀の頬には、痛々しい痣が残っていた。
すでに腫れは引き始めているようだったが、まだ完全には消えていない。
信長から足蹴にされたという噂は、どうやら事実だったらしい。
「……日向守様」
政親は、心配そうに声をかけた。
「お顔の傷は、いかがなされたのでございますか?」
光秀は、一瞬だけ目を丸くした。
そして、苦笑した。
「ははは……。
いや、これはお恥ずかしいところを見られましたな」
「上様からお叱りを受けられたと伺いましたが……」
「うむ。どうやら、この光秀も年を取って、気が利かなくなったらしい」
光秀は、自分の頬を指で示した。
「おかげで、このとおり。
上様から直々に、ありがたいお叱りを頂戴いたしましたわ」
そう言って笑った。
政親も、つられて苦笑した。
「……日向守様ほどのお方でも、上様のお叱りを受けられることがあるのですな」
「ありますとも。
もっとも、これほど見事に顔へ痣を残したのは、珍しいですがな」
光秀は、何事もなかったように笑った。
しかし、政親は光秀の顔を見ながら考えていた。
(……なるほど。思っていた以上にひどいな)
光秀は、冗談を交えて話している。
今は自虐できるほどには、平静さを取り戻したということだ。
だが、織田家の重臣ともあろう者が、衆目の前で主君から足蹴にされたのである。
それを気にしていないはずがない。
少なくとも、政親にはそう思えた。
光秀は、政親の視線に気づいたのか、軽く手を振った。
「そのような顔をなされるな。
傷はもう大したことはござらぬ」
「しかし……」
「上様のお叱りを受けるのも、家臣の務めでござろう」
光秀は、そう言って茶を口にした。
「それより、伊勢介殿」
「はっ」
「本日は、わざわざ見舞いに来てくださったのであろう?」
「はい。年始のご挨拶もできておりませなんだので、そのお詫びも兼ねまして」
「ありがたいことだ」
光秀は、穏やかに頷いた。
「実は、ちょうど誰かと話をしたいと思っておったところでしてな」
「ほう?」
「このところ、どうにも気の滅入る話ばかりが耳に入ってまいる」
光秀は、少し困ったように笑った。
「上様からのお叱りもありましたし、家中の仕事もなかなか落ち着きませぬ」
「それは……お疲れのことでございましょう」
「いやいや、伊勢介殿に愚痴を聞いていただこうというわけではござらぬ」
光秀は、そう言って首を振った。
そして、政親の顔を見た。
「伊勢介殿は、諸国の情勢にもお詳しいと聞いております」
「いえ、それほどでもございませぬ」
「ご謙遜を。芋粥家は各地に多くの者を遣わしておられる。
伊勢介殿も、さぞ面白い話をご存じでございましょう」
光秀は、少し身を乗り出した。
「何か、気が晴れるような話でもございませぬかな?」
「……気が晴れる話、でございますか」
政親は、そう繰り返した。
そして、すぐには答えなかった。
それまで穏やかだった政親の表情が、わずかに曇った。
視線を落とし、何かを考えるように黙り込む。
光秀は、その様子を見逃さなかった。
「……伊勢介殿?」
政親は、顔を上げた。
「いえ……」
そう言いかけて、再び口を閉じた。
その反応を見た光秀の表情からも、笑みが消えた。
「……何か、気になることでも?」
政親は、なおも口を閉ざしていた。




