第三百四十話 疑心の種
「仰せのとおり、ここ一月ほど、吹いては消えるような噂を村井殿の周辺に流しておきました」
神崎は、政親の顔を見ながら報告を始めた。
「明智殿や長宗我部殿の耳にも、いずれ入ることでございましょう」
「うむ。どのような噂を流した?」
「上様が長宗我部家の処遇について、再びお考えを変えられるかもしれぬ、というものでございます」
神崎は、落ち着いた口調で続けた。
「阿波と讃岐の領有を認めたのは、あくまで当面の措置。
毛利との戦いが片づけば、両国を召し上げるおつもりだと。
さらに、先月と比べて東方の情勢が落ち着いたことも、上様のお考えが変わる後押しになったという話を加えております」
「なるほどな」
政親は、満足そうに頷いた。
「もっとも、今の段階でそのような話を聞いても、明智は笑い飛ばすだろうな」
「はい。上様の真意については、すでに明智殿も承知しておられるはず。
今さら、その程度の噂を信じるとは思えませぬ」
神崎は、そこで一度言葉を切った。
「しかし、長宗我部殿は違いましょう」
「うむ」
政親は、腕を組んだ。
「長宗我部も、噂を耳にしただけでは信じまい。
明智から上様の真意は重々伝わっておるだろうからな」
「そのとおりにございます」
「だが、一度は疑ったことのある話だ。
完全に忘れることもできまい」
長宗我部元親は、織田家との関係を維持するため、明智光秀を通じて信長との交渉を重ねてきた。
その結果、現在は四国における長宗我部家の立場も、ひとまず安定している。
しかし、信長の意向が今後も変わらないという保証はない。
信長が新たな方針を示せば、長宗我部家はそれに従うか、織田家と対立するかの選択を迫られることになる。
政親は、その不安を利用しようとしていた。
「それで、毛利の方はどうなっておる?」
政親が尋ねると、神崎は頷いた。
「はい。毛利家にも、すでに噂を流してございます」
「ほう」
「こちらには、より具体的な内容を伝えております。
上様が長宗我部家から阿波と讃岐を召し上げようとしていること。
そして、その話が織田家中で再び持ち上がっていることを」
「具体的……とは?」
「そもそも長宗我部は毛利を裏切って織田に従いました。
上様はそのような不義理者を好まぬと。
つまり、信用の置けぬ長宗我部を切り捨てる覚悟を、上様が固められたというわけです。」
「なるほど。
九州加増を言い分として、先に阿波・讃岐を召し上げるとでもしたか?」
「そのとおりにございます」
「長宗我部が素直に従えばよし。
九州をあわよくば切り取れば、言葉通り九州の三ヵ国を褒美として与える。
だが、その頃には長宗我部は満身創痍となろう。
弱体化に繋がる。
九州攻略を果たせねば、それこそ大打撃を受けた上に四国の二ヶ国を召し上げられて、もはや織田には逆らえなくなろうな」
「はい、もちろん上様は素直に従うとは思っておらぬ。
だからこそ長宗我部の天敵である芋粥を西方に派遣し、明智と共に四国を平定する所存だと」
「上様らしい合理策よ。
で、流言の出所は?」
「毛利に対しては、村井殿の周辺だけではございませぬ。
明智殿の周辺から漏れた話とも、芋粥家に近い者が耳にした話とも受け取れるようにしております」
政親は、感心したように笑った。
「なるほど。出所を一つに絞らせぬわけか」
「はい。毛利家が調べようとしても、異なる筋から似た話が聞こえてくるようにしてございます」
「良い。
噂の真偽よりも利用価値を重んじる毛利にとって、複数の筋から似た話を掴んだこと自体が、長宗我部を説得するのに有利に働く」
「はっ」
「毛利は今、織田家との戦いで苦しんでおる。
長宗我部が再び織田家に背を向ければ、それだけでも毛利にとっては大きな助けとなる」
政親は、指を折りながら説明した。
「長宗我部が織田家に従っている限り、毛利は四国方面にも気を配らねばならぬ。
しかし、長宗我部が離反すれば、その心配は減る。
場合によっては、織田家に対抗する味方にもなろう」
「まことに、そのとおりにございます」
「そのためなら、毛利は多少怪しい噂でも利用するはずだ」
政親は、口元に笑みを浮かべた。
「我らが長宗我部を説得する必要はない。
毛利に噂の種を与えてやればよいのだ」
神崎は、黙って頷いた。
「毛利には知恵や口の回る者が多い。
長宗我部を再び寝返らせるためなら、勝手に尾ひれを付けて話を広げてくれるだろう」
「はい。すでに毛利方でも、長宗我部家との接触を強めようとする動きが見られます」
「ほう。早速か」
「まだ大きな動きではございませぬが、噂を利用するつもりはあるようにございます」
政親は頷いた。
「それでよい」
毛利家が噂を利用して長宗我部家に働きかければ、元親は織田家の真意を改めて確かめようとするだろう。
その相手は、当然ながら明智光秀になる。
光秀は、これまで長宗我部家との交渉を担当してきた。
信長の意向を元親へ伝え、両家の関係を取り持ってきたのも光秀である。
しかし、毛利家から異なる話を聞かされた元親が、光秀の説明を素直に信じるとは限らない。
「長宗我部殿も、明智殿から何度安心だと言われようと、心のどこかでは疑うようになりましょう」
神崎が言った。
「明智殿も、所詮は織田家中の一人にございます。
上様が本当にお考えを変えられたなら、それを止められる立場ではございませぬ」
「うむ」
「そうなれば、長宗我部殿は明智殿に何度も問い合わせることになりましょう」
「そして、明智も再び不安になるというわけだな」
「はい」
神崎は、静かに頷いた。
「長宗我部殿から繰り返し疑問をぶつけられれば、明智殿とて、上様のお考えが本当に変わっておらぬのか、確かめずにはいられますまい」
政親は、しばらく考えた。
「なるほど。明智自身が信じておらぬ噂でも、長宗我部が疑い続ければ、無視できなくなるか」
「そのとおりにございます」
「しかも、毛利から話が伝われば、明智も単なる家中の噂として片づけにくくなるな」
「はい。毛利が何を掴んでいるのか、気になるはずにございます」
政親は、愉快そうに笑った。
「よく考えたものだ」
神崎は、頭を下げた。
「恐れ入りまする」
「しかし、あまり時間はかけられぬぞ」
政親は、表情を引き締めた。
「この先、一月か二月のうちに、明智が決心してくれると助かるのだがな。」
「はい」
「我らは秋までに中国方面軍へ合流するよう命じられておる。
今なら、中国攻めの準備という名目で兵を集めることができる」
政親は、神崎を見た。
「もし明智が謀反を起こせば、我らは真っ先にその討伐に向かえばよい。
義兄上が率いる芋粥軍ならば、明智勢を討ち破ることも難しくはあるまい」
「まことに、ごもっともにございます」
「だが、時機を逃せば、我らも中国へ向かわねばならぬ。
そうなってからでは、思うように動けぬからな」
政親は、腕を組んだ。
「明智には、できるだけ早く動いてもらいたいものだ」
神崎は、深々と頭を下げた。
政親は、神崎に向き直った。
「……して、その頃合いとは?」
「実は、面白いことを調べ上げました」
「何だ?」
神崎は、少し身を乗り出した。
「現在、徳川殿を上様がお招きになっていることは、ご存じでございますな?」
「うむ。武田征伐の働きをねぎらうため、安土へ招かれたのであろう」
「はい。そして、その歓待役を務めているのが、明智殿にございます」
「ほぉ?」
政親は、興味を示した。
「明智が徳川殿の歓待役か」
「左様にございます」
神崎は、声を落とした。
「ところが、明智殿は、またしても上様のご機嫌を損ねてしまったようでございます」
「何があった?」
「度重なる不安からか、明智殿は再び長宗我部家の処遇について、上様の真意を確かめようとされたそうです」
政親は、思わず笑った。
「ははは。やはり気になっておったか」
「はい。すでに何度も確認した話を、また持ち出したのでございます」
「義兄上ならともかく、上様に同じことを何度も尋ねるのは危ういな」
政親は、苦笑した。
信長は、決断が早い。
一度決めたことについて、家臣から繰り返し確認されるのを好まない。
まして、自分の意向を疑われていると感じれば、機嫌を損ねることもある。
「それで、上様は何と?」
「明智殿を厳しく叱責されたそうでございます」
「それだけか?」
「いえ……。
徳川殿の歓待に関わる些末な不手際を咎められ、皆の前で明智殿を足蹴になされたとか」
「ほう……」
政親は、目を細めた。
「皆の前でか」
「はい。居合わせた者たちの前で、厳しくお叱りになったと聞いております」
「ふふ……なるほどな」
政親は、しばらく笑っていた。
光秀は、織田家の重臣である。
その光秀が、人前で信長から足蹴にされたというのであれば、面目を失ったことになる。
しかも、光秀は長宗我部家との交渉について、以前から不安を抱いていた。
そこへ今回の叱責が重なったのである。
政親は、神崎を見た。
「しかし、それくらいでは明智は謀反には至らぬぞ?」
「はい。拙者も、そう考えております」
神崎は、あっさりと認めた。
「明智殿は、上様に長年仕えてきた重臣にございます。
叱責を受けたからといって、それだけで謀反を決意するような方ではございますまい」
「うむ。そこは俺も同感だ」
政親は頷いた。
「不満を抱くことと、謀反を起こすことは別だからな」
「はい」
神崎は、政親の顔を見つめた。
「そしてもう一つ決め手が」
「何だ?」
「羽柴殿が上様に中国地方攻めの援軍を求められました。
援軍と申しましても、羽柴殿が自身の活躍を上様の目前で示したいだけでしょう。
上様は来月京に向かわれます。
そしてそれに合流するため、中将様もお越しになられます」
「上様と中将様が一所に集われる……」
「だからこそ、ようやく毒を含ませる頃合いと申し上げたのでございます」
政親は、黙ったまま神崎を見た。
やがて、その口元に笑みが浮かんだ。
「……なるほどな。
俺自身が明智殿の見舞いにでも行くか……」




