第三百三十九話 策謀の頃合い
天正十年五月。
伊勢国では、穏やかな日々が続いていた。
武田家の滅亡によって、織田家の東方における大きな脅威は取り除かれた。
南信濃に駐屯していた芋粥軍も伊勢へ帰還し、長政や政親をはじめとする諸将は、久しぶりに領国で過ごすことができていた。
もっとも、芋粥家が何もせずに休んでいたわけではない。
秋には中国方面軍へ合流するよう、信長から命じられている。
そのため、長政と政親を中心に、軍勢の再編や兵糧の確保、武具の補充などが進められていた。
前年の南信濃戦役では、芋粥軍も少なからぬ損害を受けている。
特に鬼兵は、武田家の赤備えとの戦いで多くの将兵を失っていた。
その補充と再訓練は、秋の出陣までに済ませておかなければならない。
さらに、芋粥家では新たな軍備の整備も進んでいた。
その一つが、黒鬼巨馬隊である。
伊勢で育成してきた巨馬を用いた、新たな騎馬部隊だった。
政親は、この黒鬼巨馬隊の訓練を視察するため、郊外の調練場を訪れていた。
広い調練場には、通常の和馬よりも一回り大きな馬が並んでいた。
いずれも伊勢で育成された巨馬である。
その背には、黒鬼隊の騎馬武者たちが跨っていた。
「始めよ!」
指揮官の号令とともに、巨馬隊が動き出した。
騎馬武者たちは隊列を整えながら前進し、合図に従って速度を上げていく。
やがて、馬蹄の音が調練場に響き渡った。
巨馬は通常の和馬より体格が大きく、馬体の重量もある。
そのため、十分な速度を得て突撃すれば、敵に与える衝撃も大きくなる。
もっとも、体格が大きいだけで優れた軍馬になるわけではない。
騎手の指示に従って動き、隊列を維持しながら進退できなければ、実戦で使うことは難しい。
その点で、政親が目にした巨馬隊の動きは予想以上だった。
騎馬武者たちは、巨馬の扱いに慣れている。
指揮官の合図に従って隊列を組み替え、突撃と離脱を繰り返していた。
さらに、槍を構えたまま隊列を維持する訓練も行われていた。
政親は、しばらくその様子を眺めていた。
(ほう……これは思っていた以上だな)
巨馬を用いた騎馬隊の構想は、以前から聞いていた。
しかし、実際に訓練する姿を見ると、通常の騎馬隊とは迫力が違っていた。
(こいつらは、使いようによってはかなり役に立つかもしれん)
政親は、腕を組んで考えた。
従来の騎馬隊と同じように運用するだけでは、巨馬の長所を十分に生かせないだろう。
しかし、その重量と突撃力を生かせる戦場であれば、敵の陣形を崩すための有力な戦力になる。
もちろん、南信濃で戦った武田家の赤備えのように、経験豊富な騎馬部隊と渡り合えるかどうかは、まだ分からない。
それでも、新たな戦力として期待できることは確かだった。
政親は、続いて他の部隊の再編状況にも思いを巡らせた。
(それにしても、緑鬼の増強も見事なものだ)
芋粥家では、鉄砲隊の再編も進められていた。
その中でも緑鬼は、短期間で戦力を整えつつあった。
(おそらく、今後の鉄砲戦では緑鬼が活躍の場を広げることになるだろう。
まさか、あれほどの手練れを短期間で揃えられるとはな……)
兵を集めるだけなら、金と時間をかければよい。
しかし、実戦で使える熟練兵を短期間で揃えることは容易ではない。
(それを短期間でやってのけるのだから、義兄上には恐れ入る)
政親は、改めて義兄の力量に感心した。
秀政は、戦場での采配だけでなく、兵の育成や軍備の整備、領国経営に至るまで、幅広い分野で成果を挙げてきた。
しかも、その多くは従来の武家では思いつかないような発想によるものだった。
(義兄上は、天下人の器を備えておられる)
政親は、本気でそう考えていた。
織田家の重臣として仕えている今でこそ、秀政は信長の命令に従っている。
しかし、もし秀政が独立した大名として天下を目指したならば、どこまで勢力を広げられるだろうか。
政親には、義兄が天下を取る姿さえ想像できた。
だからこそ、その後継者についても、慎重に考えなければならない。
(この芋粥家を、長政に任せるわけにはいかぬ)
政親は、南信濃での軍議を思い出した。
長政は武将としての力量を備えている。
しかし、秀政が築き上げた芋粥家を率いるには、まだ足りないものが多すぎる。
政親は、そう考えていた。
(やはり、義兄上の血を引く秀文様こそが……)
政親は、巨馬隊の訓練を眺めながら、改めて自分の考えを確かめた。
*
その夜。
千種政親の邸宅に、一人の男が訪れた。
神崎友清である。
神崎は、政親の家臣として仕えながら、芋粥家の法度制定にも携わっていた。
現在は秀政の命を受け、『芋粥家中定書十五ヶ条』の制定作業を進めている。
政親は、奥の間で神崎を迎えた。
「神崎か。よく来たな」
「はっ。夜分に失礼いたします」
「構わぬ。座れ」
神崎が腰を下ろすと、政親は周囲の様子に気づいた。
いつもなら、廊下の向こうから物音が聞こえてくる。
しかし、今夜は廊下を行き来する家人の足音すら聞こえなかった。
近くに控えているはずの者の気配がない。
政親は、わずかに眉を動かした。
(……神崎が忍びを使って人払いをしたか)
神崎は、表向きには政親の家臣として働いている。
しかし、裏では忍びを使い、情報収集にも当たっていた。
今夜の訪問も、人に聞かれたくない話があるということだろう。
政親は、あえて何も尋ねなかった。
「それで、家中法度の方はどうなっておる?」
まずは、普段どおりの話題から切り出した。
神崎は、丁寧に頭を下げた。
「はい。『芋粥家中定書十五ヶ条』につきましては、現在、殿と最後の詰めを行っております」
「ほう。もうそこまで進んだか」
「はっ。条文そのものは、おおむね整いました。
あとは細かな文言や、運用上の問題を確認するばかりにございます」
「義兄上のご様子はどうだ?」
「大変熱心に取り組んでおられます」
神崎は、少し笑みを浮かべた。
「殿は、法度を定めるだけでなく、実際に家臣たちが守れる内容になっているかどうかを、何度も確認されます」
「義兄上らしいな」
政親も笑った。
「義兄上は、決まりを作っただけで満足される方ではないからな」
「まことに、そのとおりにございます」
神崎は頷いた。
「しかも、家中の統制だけでなく、家臣の権利や役目についても、細かくお考えになっておられます」
「ほう」
「拙者も、法度の制定には多少の心得があるつもりでしたが、殿のお考えには学ばされることが多うございます」
政親は、満足そうに頷いた。
「義兄上は、並の大名ではないからな」
「はい。拙者も、そう感じております」
神崎は、政親の顔を見ながら続けた。
「ありがたいことに、殿からも仕事ぶりをお認めいただいているようでございます」
「それは何よりだ」
「法度の制定が終わった後も、引き続き家中の政務に携わってほしいとのお言葉をいただきました」
「ほう。それは大したものだ」
政親は、嬉しそうに笑った。
「義兄上に認められるのは容易なことではない。
よく励んだな」
「恐れ入りまする」
神崎は、深々と頭を下げた。
「しかし、殿のお側で働くほど、改めてその器の大きさを感じます」
「そうであろう」
政親は、大きく頷いた。
「義兄上は、天下人の器を備えておられる。
俺は、以前からそう考えておる」
「拙者も同感にございます」
神崎は、間を置いてから続けた。
「だからこそ、芋粥家の行く末は、これからますます重要になりましょう」
政親の目が、神崎へ向いた。
「……行く末、か」
「はい」
神崎は、落ち着いた口調で答えた。
「殿がこれほどの家を築かれた以上、その跡を継ぐ方にも、相応の器量が求められます」
「うむ。そのとおりだ」
政親は、腕を組んだ。
「備前守も、決して悪い武将ではない。
しかし、義兄上の跡を継ぐとなれば、話は別だ」
神崎は、すぐには答えなかった。
政親の言葉を待つように、黙って頭を下げている。
政親は続けた。
「義兄上が築かれた芋粥家を、ただ守るだけでは足りぬ。
さらに発展させていける者でなければならん」
「まことに、ごもっともにございます」
神崎は、ゆっくりと頷いた。
「その点、拙者は秀文様に大きな可能性を感じております」
政親は、思わず神崎を見た。
「秀文にか?」
「はい。殿の実のお子であることはもちろんですが、今後の育て方次第では、父君に劣らぬ武将になられるやもしれませぬ」
「……そうか」
政親の口元に、笑みが浮かんだ。
「お主も、そう考えるか」
「はっ」
神崎は、丁重に頭を下げた。
「秀文様には、芋粥家の将来を担うだけの可能性があると存じます」
政親は、しばらく神崎を見つめていた。
やがて、大きく頷いた。
「うむ。俺も同じ考えだ」
自分が長年考えてきたことを、神崎も理解している。
秀政の能力を高く評価し、その血を引く秀文に期待を寄せている。
政親は、神崎が自分と同じ考えを持つ人物だと確信している。
しかし、神崎の胸中は、政親が考えているものとは異なっていた。
神崎が最も大切にしているのは、芋粥家の繁栄ではない。
まして、秀文を当主に据えること自体が目的でもなかった。
神崎にとって、政親もまた、自らの目的を果たすために利用すべき人物の一人だった。
その目的とは、六角家の再興である。
神崎は、政親の表情を確かめた。
政親が何を望んでいるのか。
そして、どのような言葉を聞きたがっているのか。
神崎は、すでに十分に理解していた。
その神崎が表情を引き締め、話を切り替えた。
「頃合いにございます」
政親は黙ったまま頷いた。
そして、頭にある男たちを思い浮かべた。
明智光秀と長宗我部元親である。




