第三百三十六話 さらば、甲斐の山々よ
天正十年二月三日。
木曾義昌が武田家を離反し、織田家に帰属することが明らかとなった。
木曾氏は、武田家の西方防衛を担う重要な国衆である。
その木曾氏が織田家に寝返ったという知らせは、武田勝頼にとって看過できるものではなかった。
木曾谷は、信濃と美濃を結ぶ街道を押さえる要地だった。
ここを織田家に奪われれば、武田家は西方からの侵攻を防ぐための重要な拠点を失うことになる。
しかも、前年の南信濃戦役によって、武田家はすでに南信濃を失っていた。
そのうえ木曾氏まで織田方に付けば、武田家の西方防衛は一段と困難になる。
勝頼は、木曾義昌の離反を放置するわけにはいかなかった。
ただちに木曾討伐を決定し、軍勢の出陣を命じたのである。
討伐軍の主将には、内藤修理亮昌豊が選ばれた。
昌豊は、先代の武田信玄の時代から武田家に仕える宿将である。
長年にわたり武田家の戦場を支えてきた経験豊富な武将であり、勝頼からの信頼も厚かった。
今回、昌豊には再建途上の赤備えを中心とする軍勢が預けられた。
前年の南信濃戦役で、赤備えは芋粥軍との戦いによって大きな損害を受けていた。
失われた兵や馬を補充し、部隊の再建を進めてはいたものの、いまだ往時の戦力を取り戻したとは言い難い。
それでも、武田家の西方を守るためには、木曾義昌を討たなければならなかった。
勝頼は昌豊を呼び、出陣に先立って言葉を交わした。
「修理亮、此度の木曾討伐、そなたに任せる」
「はっ」
昌豊は深く頭を下げた。
「木曾義昌は、我が武田家に背き、織田へ寝返った。
これを許せば、他の国衆まで後に続きかねぬ」
「ごもっともにございます」
「木曾を討ち、武田に背けばどうなるかを諸将に示さねばならぬ」
勝頼の言葉には、強い決意が込められていた。
木曾義昌の離反は、単に一人の国衆が寝返ったという問題ではない。
前年の敗戦によって、武田家の威信は傷ついている。
ここで義昌の離反を認めれば、武田家に従う諸将の間にも動揺が広がるおそれがあった。
勝頼としては、たとえ軍備の再建が十分でなくとも、討伐軍を出さざるを得なかったのである。
「修理亮。赤備えがいまだ再建の途上にあることは、余も承知しておる」
勝頼は昌豊を見つめた。
「だが、今はそなたを頼るほかない」
「御屋形様……」
「苦労をかけるな」
その言葉に、昌豊は顔を上げた。
「何を仰せになりまする」
昌豊は力強く答えた。
「武田家の危急に働くことこそ、我ら家臣の務めにございます。
赤備えも、此度の戦で必ずや名誉を取り戻してご覧に入れまする」
「うむ」
「木曾義昌を討ち取り、必ず勝って戻ってまいります」
昌豊は、勝頼に向かって深く頭を下げた。
「御屋形様には、どうかご安心くだされ」
勝頼は、その言葉に大きく頷いた。
「頼んだぞ、修理亮」
「ははっ!」
昌豊は、力強く返事をした。
しかし、その胸中には、勝頼に告げなかった思いがあった。
*
勝頼への挨拶を終えた昌豊は、出陣の支度を整えるため、陣所へ向かっていた。
外へ出ると、甲斐の山々が目に入った。
冬の寒さが残る山々には、ところどころ雪が積もっている。
昌豊は、しばらく足を止めて、その景色を眺めた。
この山々を見ながら、幾度となく戦へ出た。
先代の武田信玄に従い、信濃へ、上野へ、駿河へと兵を進めた日々が思い出される。
若い頃から武田家に仕え、信玄のもとで戦働きを重ねてきた。
勝ち戦ばかりではなかった。
苦しい戦もあった。
敵に進路を阻まれ、思うように軍を動かせぬこともあった。
それでも、信玄は決して容易に諦めることのない主君だった。
昌豊は、その信玄に仕えることを誇りとしていた。
(先代御屋形様……)
昌豊は、心の中で信玄に呼びかけた。
信玄が世を去ってから、すでに九年が過ぎようとしていた。
その間、勝頼は武田家を守るために戦い続けてきた。
父の築いた領国を受け継ぎ、さらに広げようとしたこともあった。
しかし、今の武田家は苦しい立場に追い込まれている。
木曾谷での織田軍との戦いでは、鉄砲によって多くの将兵を失い、前年には南信濃までも奪われた。
そして今度は、木曾義昌が離反した。
昌豊には、勝頼の苦労がよく分かっていた。
勝頼は、決して武田家を滅ぼすような愚かな当主ではない。
むしろ、父から受け継いだ家を立て直そうと必死だった。
そのために新府城を築き、軍備を再建し、失った勢力を取り戻そうとしているのである。
だが、武田家を取り巻く情勢は、年を追うごとに厳しくなっていた。
織田家は、かつてとは比較にならぬほど大きな勢力となっている。
そして、南信濃に陣取り続ける芋粥軍も、武田家をじわじわと苦しめていた。
前年の南信濃戦役では、その芋粥軍によって武田家の精鋭が打ち破られた。
昌豊も、芋粥軍の強さをよく理解していた。
赤備えの再建は、まだ十分ではない。
その状態で木曾討伐へ向かえば、織田軍が木曾義昌を救援するために動くことも考えられる。
そうなれば、再び織田軍との戦いになる。
(此度の戦……容易には済むまいな)
昌豊は、そう考えていた。
木曾義昌だけが相手ならば、討伐できる見込みはある。
しかし、義昌はすでに織田家へ帰属を申し出ている。
織田信長が木曾氏を見捨てるとは思えなかった。
そして、織田軍が本格的に動き出した場合、武田家にはそれを押し返すだけの余力が残されているかどうかも分からない。
それでも、昌豊には出陣を拒むという選択肢はなかった。
自分は武田家の家臣である。
先代の信玄に仕え、今は勝頼に仕えている。
主君が危急に陥った時、家臣がその命に従わずしてどうするのか。
昌豊は、もう一度甲斐の山々を見渡した。
幼い頃から見慣れた故郷の景色だった。
春になれば山々の雪が解け、谷には新しい草木が芽吹く。
夏には青々とした山が広がり、秋には木々が色づく。
毎年、当たり前のように見てきた景色である。
しかし、今年もまた、この景色を見ることができるだろうか。
昌豊には、その確信が持てなかった。
(……おそらく、これが最後になるのだろうな)
勝頼には、必ず勝って戻ると誓った。
その言葉に偽りはない。
昌豊は、勝つつもりで出陣する。
木曾義昌を討ち、武田家の威信を取り戻すため、全力を尽くす覚悟だった。
だが、戦の行方がどうなるかは、誰にも分からない。
まして、相手が織田軍となれば、なおさらだった。
昌豊は、甲斐の山々へ向かって深く頭を下げた。
(さらばじゃ、甲斐の山々よ)
再び顔を上げた時、昌豊の表情には迷いがなかった。
もはや、己の命を惜しむつもりはない。
残された赤備えを率い、武田家のために戦う。
それが、先代から仕えてきた老臣として、最後に果たすべき務めだと考えていた。
*
一方、木曾義昌の離反を受け、織田家も軍を動かしていた。
安土の信長は、木曾氏の帰属を認めるとともに、武田家による討伐を阻止するため、軍勢の出陣を命じた。
総大将は、織田信忠。
その指揮下には、滝川一益をはじめとする織田家の諸将が加わった。
今回の出陣は、木曾義昌を保護することが当面の目的だった。
しかし、信長は木曾氏の離反が、武田家に対する本格的な攻勢へつながる可能性も見据えていた。
木曾氏が織田方に付けば、武田家の西方防衛は大きく揺らぐ。
しかも、武田軍は前年の南信濃戦役で損害を受け、いまだ軍備の再建を進めている最中だった。
織田家にとって、武田領へ攻め込む好機が訪れようとしていたのである。
ただし、信長は今回の出陣に際し、信忠へ一つの命令を与えていた。
芋粥軍を温存せよ、というものである。
南信濃には、芋粥家の軍勢が駐屯していた。
彼らは前年の戦役で武田軍を破り、南信濃を占領している。
そのため、武田家にとって芋粥軍の存在は、今なお大きな脅威だった。
もし芋粥軍が南信濃から動けば、武田軍はその方面にも兵を割かなければならない。
しかし、信長はあえて芋粥軍を動かさず、南信濃に留め置くよう命じたのである。
既に信長は武田の次を見据えていた。
もっとも、南信濃に軍勢が駐屯しているだけでも、武田家に対する牽制としては十分に役立つ。
武田軍は、芋粥軍がいつ背後から攻め込んでくるか分からない。
そのため、木曾方面へ全軍を集中させることは難しかった。
つまり、芋粥軍は実際に動かずとも、武田軍の行動を制限する役割を果たしていたのである。
信忠も、父の意図を理解していた。
此度の戦は、織田家の軍勢を主力として進める。
芋粥軍は南信濃に留まり、武田軍の背後を脅かし続ける。
そうすることで、武田軍の兵力を分散させながら、木曾方面での戦いを有利に進めることができる。
信忠は、その方針に従って軍勢を編成した。
そして、出陣に先立ち、滝川一益を呼び寄せた。
「左近将監」
「はっ!」
一益は、信忠の前に進み出た。
「此度の戦、そなたに先鋒を任せる」
「ははっ!」
「木曾義昌は、我らを頼って武田に背いた。
これを見捨てれば、今後、武田から離反しようとする者も現れまい」
「ごもっともにございます」
「まずは木曾を救い、武田軍を退ける。
それが此度の戦の第一の務めだ」
信忠は、一益を見つめた。
「相手は内藤昌豊率いる赤備えと聞く」
「はっ」
「赤備えは、南信濃で芋粥勢に打ち破られたとはいえ、武田家の精鋭であることに変わりはない。
油断はするな」
「心得ておりまする」
一益は力強く答えた。
「内藤修理亮は、先代信玄公の頃から名を馳せた宿将。
容易な相手ではございますまい」
「うむ」
「されど、我らも織田家の武将にございます。
赤備えを相手に一歩も引くつもりはございませぬ。
伊勢守殿に続いて、この儂も赤備え撃破の誉れを勝ち取ってみせましょう」
その言葉に、信忠は満足そうに頷いた。
「よい心構えだ」
そして、声を強めた。
「左近将監。先鋒を任せる。
赤備えを打ち破り、甲州攻めで名を残せ」
「お任せあれ!」
一益は、深く頭を下げた。
「必ずや赤備えを打ち破り、中将様に勝利をお届けいたしまする!」
「頼んだぞ」
「ははっ!」
一益は勢いよく立ち上がった。
すでに出陣の準備は整っていた。
陣の外には、滝川勢の将兵が集結している。
槍を持つ足軽たちが隊列を整え、鉄砲隊は火縄銃や弾薬を確かめていた。
騎馬武者たちは馬の手綱を握り、出陣の命令を待っている。
軍勢の先頭には、滝川家の旗指物が掲げられていた。
一益は馬に跨ると、集まった将兵を見渡した。
「者ども!」
その声に、周囲の武者たちが一斉に顔を上げた。
「此度の相手は、武田の赤備えじゃ!」
将兵の間に緊張が走った。
赤備えの名は、織田家の武将たちにもよく知られている。
長年にわたり、武田家の精鋭として恐れられてきた部隊だった。
しかし、一益は続けた。
「されど、恐れることはない!」
一益は声を張り上げた。
「赤備えは、すでに芋粥勢との戦で大きな損害を受けておる。
我らとて、織田家の旗の下で幾多の戦をくぐり抜けてきた兵じゃ!」
将兵たちは、一益の言葉に耳を傾けた。
「今こそ、武田の赤備えを打ち破り、我ら滝川勢の武名を天下に示す時ぞ!」
「おおっ!」
武者たちが声を上げた。
「木曾を救い、武田を討つ!
皆の者、我に続け!」
「おおおおっ!」
鬨の声が響き渡った。
一益は馬首を進軍の方角へ向け、右手を高く掲げた。
「出陣じゃ!」
その号令とともに、滝川勢が動き始めた。
旗指物が風にはためき、槍の穂先が冬の日差しを受けて光る。
馬の蹄が地面を打ち、足軽たちの草鞋が街道を踏みしめた。
その後方では、信忠率いる織田軍の本隊も進軍の支度を整えていた。
一方、甲斐からは内藤昌豊率いる赤備えが、木曾谷を目指して進んでいた。
武田家の威信を懸けて出陣する赤備え。
そして、木曾氏を救援し、甲州攻めの先鋒を務めようとする滝川勢。
両軍は、それぞれの主君の命を受け、戦場へと向かっていた。
武田家の命運を左右する戦いが、いよいよ始まろうとしていた。




