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新武将・芋粥秀政  作者: 得生
第十七章 織田家宿老編(本能寺編)

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第三百三十五話 崩壊の序曲

天正十年一月下旬。


京での用向きを終えた神崎友清が、鈴鹿館へ戻ってきた。

帰国の報告を申し入れると、ほどなくして秀政から小広間へ来るようにとの返事があった。


「神崎、戻ったか。ご苦労だったな」


「はっ。ただいま戻りましてございます」


神崎は深く頭を下げた。


「京での用向きは、滞りなく済んだか?」


「はい。明智日向守様にも無事にお目通りが叶い、伊勢介様からの年始のご挨拶をお伝えしてまいりました」


「うむ。それはよかった」


秀政は頷いた。


「それで、例の件はどうだった?」


神崎も、秀政が何を尋ねているのかは理解していた。


「はっ。殿からお聞きした上様のご意向につきましては、すべて明智様にお伝えいたしました」


「すべてか?」


「はい。一言一句違わず、とまでは申しませぬが、内容については何一つ変えることなくお伝えしております」


「そうか」


秀政は、少し身を乗り出した。


「それで、明智殿は何と?」


「たいそう安心なされたご様子にございました」


「安心した?」


「はい」


神崎は、光秀との会談について順を追って説明した。

九州三か国を与える代わりに阿波と讃岐を召し上げるという話についても、光秀はあまり驚かなかった。

藤林の調べの通り、以前から噂として耳にしていたようだ。

しかし、その領地交換をいつ行うのかについては分からず、光秀は長宗我部元親が納得するかどうかを懸念している様子だった。


「なるほどな……。

 明智殿が気にしていたのは、やはりそこだったか」


「左様にございます。

 九州を攻略するより先に阿波と讃岐を召し上げられては、長宗我部も納得すまいと仰せでした」


「そりゃそうだろうな」


秀政は苦笑した。


「まだ取ってもいない九州の領地を与えるから、先に四国の領地を差し出せと言われても、元親が納得するわけがない」


「まさしく、明智様もそのように仰せでございました」


神崎は頷いた。


「そこで、殿からお聞きした上様のお言葉をお伝えしたのでございます」


「猟犬の話か?」


「はい。飯も与えずに、お前は猟犬を使うのか、と」


「ははは! あれは殿らしい言い方だったな」


秀政は、信長と奥の間で話した時のことを思い出した。


信長は、長宗我部に九州を攻略させ、その働きに応じた領地を与えるつもりだった。

そのうえで、阿波と讃岐を召し上げ、長宗我部の勢力が大きくなり過ぎないように調整する。


秀政も、最初は長宗我部が納得するのかと疑問に思った。

しかし、信長の説明を聞いて、その考えを理解したのである。


「それで、明智殿は?」


「大いに納得なされました」


神崎は答えた。


「上様らしいお考えだと仰せになり、長宗我部を今後も味方として用いるご方針であることに、たいそう安心なされたご様子でした」


「そうか……」


秀政は、ほっと息をついた。


「それはよかった」


「はい。長宗我部にも伝えて安心させてやらねばならぬと、仰せになっておられました」


「ほう。そこまで言っていたか」


秀政は嬉しそうに頷いた。


「ならば、元親にも話が伝わるだろう。

 少なくとも、四国のことで明智殿が疑心暗鬼になることは避けられそうだな」


「左様にございます」


神崎は、静かに頭を下げた。


秀政は、しばらく考え込んだ。


(よし……これで一つ、心配の種が減ったな)


史実の本能寺の変については、今なお分からないことが多い。

明智光秀がなぜ謀反を起こしたのか、その理由についても諸説ある。

その中の一つに、長宗我部家を巡る四国政策の変更が、光秀の謀反につながったという説があった。


秀政は、そのことを以前から気にしていた。

光秀は長宗我部との外交を担当している。

その光秀に十分な説明もないまま、信長が長宗我部から領地を召し上げるようなことになれば、光秀は自らの立場を失うことにもなりかねない。


しかし、今回の話で、信長の方針は光秀にも伝わった。

しかも、光秀はその説明に納得し、安心したという。


(これなら、四国問題が原因で光秀が謀反を起こす可能性は、かなり低くなったはずだ)


もちろん、これだけで本能寺の変が起こらなくなると決まったわけではない。

史実とは異なる出来事が、すでに数多く起きている。

それでも、光秀が信長に不信感を抱く原因の一つを取り除けたことは、大きな前進だった。


(よし。本能寺のフラグを一つへし折ったと考えてもよかろう)


秀政は、内心で満足した。

少なくとも、自分が何もできずに本能寺の変を迎えるという事態は避けられた。

今後も光秀の動向には注意する必要があるが、まずは一安心といったところだった。


「神崎、ご苦労だった」


秀政は改めて声をかけた。


「お前のおかげで、明智殿にも上様のお考えを伝えることができた。

 礼を言うぞ」


「もったいなきお言葉にございます」


神崎は深く頭を下げた。


「殿のお役に立てたのであれば、何よりにございます」


「うむ」


秀政は満足そうに頷いた。


そして、傍らに置いてあった書類を手に取った。


「さて、もう一つの件だが……」


「もう一つ、と申されますと?」


「家中法度のことだ」


秀政は、書類を神崎の前へ差し出した。

それは、神崎が京へ向かう前に提出していた『芋粥家中定書十五ヶ条』の草案だった。


「お前が京へ行っている間に、ひととおり目を通しておいた」


「はっ」


「なかなかよくできている。

 家中の規律を整えるうえで、必要なことはおおむね盛り込まれていると思うぞ」


「ありがたきお言葉にございます」


「ただ、いくつか気になるところがあったのでな」


秀政は、草案を開いて見せた。

そこには、何か所にも朱書きが加えられていた。


「ここはもう少し具体的にした方がよい。

 それから、この条文は家臣によって解釈が分かれるおそれがある。

 そういうところを中心に書き込んでおいた」


神崎は、秀政が示した箇所に目を通した。


「なるほど……」


秀政が指摘したのは、条文の表現や適用範囲に関わる部分だった。


家中法度は、一度定めれば多くの家臣が従うことになる。

そのため、曖昧な文言を残しておけば、後々の争いの原因にもなりかねない。

秀政は、そうした点を気にしているようだった。


「帰国早々で申し訳ないが、これを預ける」


秀政は草案を神崎へ渡した。


「朱書きしたところを確認して、もう一度改めてくれ。

 改稿できたなら、また持ってまいれ」


「ははっ。承知いたしました」


神崎は、草案を丁重に受け取った。


「殿のご指摘を踏まえ、改めて条文を整えてまいります」


「うむ。急ぐ必要はないが、なるべく早いうちに形にしたい」


「かしこまりました」


秀政は頷いた。


「それでは、今日はもう下がってよい。

 京から戻ったばかりだ。

 少し休むがよい」


「ありがたきお言葉にございます」


神崎は深く頭を下げた。


こうして、神崎は小広間を退出した。


*


鈴鹿館での報告を終えた神崎は、大河内ではなく、鈴鹿に構える自邸へ戻った。

京から戻ったばかりではあったが、まだ済ませなければならないことが残っていた。


千種政親への報告である。


神崎は、早速筆を執った。

明智光秀との会談について、秀政から託された情報をすべて正確に伝えたこと。

光秀が信長の方針に納得し、大いに安心したこと。

そして、帰路において予定していた手を打ったこと。

神崎は、それらを簡潔に書き記した。


さらに、秀政へ帰国の報告を行い、少しも疑われることなく用向きを終えたことも付け加えた。


書状を書き終えると、神崎は供の甲賀忍びを呼んだ。


「これを殿へ届けよ」


「はっ」


「急ぎの報せじゃ。

 できるだけ早くお手元へ届くようにせよ」


「承知いたしました」


忍びは書状を受け取ると、すぐに支度を整えた。


政親は現在、南信濃にいる。

神崎の書状は、甲賀忍びの手によって、そこへ届けられることになる。


忍びを送り出すと、神崎は文机の上に置かれた『芋粥家中定書十五ヶ条』の草案へ目を向けた。

秀政の朱書きが加えられたその草案は、改めて条文を整えることになっていた。

神崎はそれを手に取り、最初の条文から読み始めた。


*


一方、その頃。


甲斐国では、武田勝頼が領国の立て直しに追われていた。


前年の南信濃戦役で、武田家は南信濃を失ったうえ、精鋭の赤備えにも大きな損害を受けていた。

勝頼は赤備えの再建を急いでいたが、兵や馬、武具を揃えるには多額の費用と時間が必要だった。


さらに、新府城の普請も継続しており、領国の諸将や国衆には、人足や資材の提供など重い負担がかかっていた。


しかも、南信濃には依然として芋粥軍が駐屯している。

武田家は織田軍への警戒を解くことができず、軍備の再建と国境の防衛を同時に進めなければならなかった。


そして、この状況を深刻に受け止めていた武将がいた。


木曾義昌である。


木曾氏は、信濃国の木曾谷を領する国衆だった。

木曾谷は、信濃と美濃を結ぶ街道を押さえる重要な地域である。

武田家にとっては、西方からの侵攻を防ぐうえで欠かせない土地だった。


しかし、前年の南信濃戦役によって、その軍事的な位置づけは大きく変わっていた。


これまでは、武田家が南信濃を支配していたため、木曾領は武田家の領国に支えられた西方の防衛拠点だった。

ところが、南信濃を失ったことで、木曾氏は織田家の勢力圏に近い場所で、武田家の西方を守らなければならなくなった。


しかも、武田家の主力は南信濃戦役で損害を受けている。

仮に織田軍が木曾領へ攻め込んできたとしても、勝頼が十分な援軍を送れるとは限らなかった。


木曾義昌は、そのことを理解していた。


武田家への忠誠を守るのであれば、織田軍の侵攻に備えて木曾谷の守りを固めなければならない。

しかし、織田軍が本格的に攻め込んできた場合、木曾氏だけでこれを防ぎ切ることは難しい。


その一方で、武田家からは新府城の普請や軍備再建に伴う負担も求められていた。

義昌にとって、それは容易に受け入れられるものではなかった。


武田家を支えるために人足や物資を差し出しても、それによって木曾領の安全が保証されるわけではない。

むしろ、領内の負担が増えれば、木曾氏自身の防衛力を弱めることにもなりかねなかった。


義昌は、武田家の将来について考えざるを得なかった。


勝頼が無能だからではない。

武田家は、今も甲斐と信濃に相応の兵力を有している。

勝頼も、領国の再建に懸命に取り組んでいた。


しかし、南信濃を失ったという事実は重かった。

武田家が西方の防衛線を回復できなければ、木曾氏は今後も織田軍の脅威にさらされ続けることになる。


そして、武田家がその防衛線を取り戻せる見込みは、決して高くなかった。


木曾義昌は、木曾家の存続を考えた。

武田家への忠誠を貫き、織田軍との戦いで木曾家を滅ぼすのか。

それとも、武田家から離れ、織田家に帰属することで領地と家臣を守るのか。


義昌にとって、もはや選択を先延ばしにできる状況ではなかった。


そして、天正十年二月初旬。


木曾義昌は、ついに決断した。


武田家から離反し、織田家へ帰属するのである。

義昌は、織田信忠を通じて、安土の信長へ使者を送った。


その使者は、木曾氏が武田家との関係を断ち、織田家に従う意思があることを伝えた。

同時に、武田家から攻撃を受けた場合には、織田家による保護と援軍を求めたのである。


木曾氏は、武田家の西方防衛を担う重要な国衆だった。

その木曾義昌が、武田家を見限ろうとしている。


この知らせは、信忠を通じて安土城の信長のもとへ届けられた。

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