第三百三十四話 安心の裏側
「それにございますか」
神崎は、光秀の問いに少し考えるような顔をした。
「はて……。
確か上様が、伊勢守様を奥の間へお呼びされたのは、武田攻めについて、その御意向をお伝えするためと聞いておりますが……」
「うむ。それは想像がつく。
今の状況では伊勢守殿の軍は東方において必須ではない。
中国や北陸など必要とされる地は山ほどあろう。
それゆえに伊勢守殿が上様から直接、信濃に残す理由を賜ったのであろう。
それだけか?」
「それだけ、と申されますと?」
「いや、伊勢守殿ほどのお方ならば、東方の戦以外にも何かお話があったのではないかと思うてな」
「はぁ……。
確かに、ほかにも何かお話しになっておられたような……」
神崎は記憶を探るように首を傾げた。
そして、思い出したように顔を上げた。
「あぁ、そうでございました。
確かに長宗我部のこともお聞きしたと仰せでございましたな」
「長宗我部のことを?」
光秀が顔を上げた。
「それは、どのようなお話じゃ?」
「確か……毛利には長宗我部を向けさせぬ、と」
「ふむ」
「長宗我部は九州攻めの先鋒としてお使いになるお考えだと」
「うむ。それは年始の評定で、わしも上様から直接お聞きしておる」
光秀は頷いた。
「元親殿には、毛利を牽制しながら兵を蓄えさせ、いずれ九州攻めの先鋒とするよう申し付けられた」
「左様でございましたか」
「うむ。ほかには何かお聞き及びではないか?」
神崎は、しばらく考えてから答えた。
「そういえば、伊勢守様も上様に一つ懸念をお伝えしたそうにございます」
「懸念?」
「はい。九州を長宗我部に攻め取らせ、その領有まで認めるとなれば、長宗我部の勢力が大きくなり過ぎるのではないか、と」
「……九州の領有を認める?」
光秀は、その言葉に反応した。
信長が長宗我部を九州攻めの先鋒とすることは、すでに聞いている。
また、村井貞勝から漏れた話によれば、九州三か国を与える代わりに阿波と讃岐を召し上げる構想も存在するらしい。
しかし、肝心の領地交換をいつ行うのかについては、まだ分かっていなかった。
「それで、上様は何と仰せになられた?」
「長宗我部が強くなり過ぎぬよう、阿波と讃岐を召し上げるお考えだと」
「……やはり、そうか」
光秀は小さく呟いた。
「明智様?」
「あぁ、いや。
実はわしも、上様がそのようなお考えをお持ちだという噂を耳にしておってな」
「左様でございましたか」
「うむ。九州三か国を与える代わりに、阿波と讃岐を召し上げるという話じゃ」
「おお、まさしくそのお話にございます」
神崎は頷いた。
「伊勢守様も、上様からそのようにお聞きになられたそうです」
「なるほど……」
光秀は考え込んだ。
村井貞勝から漏れた話と、秀政が信長から直接聞いたという話が一致している。
これで、阿波・讃岐召し上げの構想が実際に存在することは、ほぼ間違いないだろう。
だが、光秀が知りたいのは、その先だった。
「神崎殿。一つ尋ねてもよいか?」
「何でございましょう?」
「九州三か国を与える代わりに阿波と讃岐を召し上げるという話じゃが、それは九州を攻略した後のことなのであろうな?」
「と、申されますと?」
「いや、取らぬ狸の皮算用ではないか。
九州を取れるかどうかも分からぬうちから、阿波と讃岐を召し上げるなどと申されても、長宗我部が納得するはずもあるまい」
すると、神崎は笑い出した。
「はははは!
明智様は、伊勢守様と同じことを仰せになりますな!」
「伊勢守殿も?」
「はい。
伊勢守様も、まさしくそのように上様へ申し上げたそうにございます」
「ほう。それで、上様は?」
「笑われたそうです」
「笑われた?」
「はい。飯も与えずに、お前は猟犬を使うのか、と」
「……なるほど!」
光秀は思わず膝を打った。
信長の言葉は、領地交換の順序について重要な意味を持っていた。
猟犬を働かせるには、まず餌を与えなければならない。
長宗我部に九州を攻略させるのであれば、相応の報酬を与える必要がある。
まして、阿波と讃岐を召し上げるのであれば、それに見合うだけの新たな領地を確保させなければ、元親が納得するはずもない。
つまり、信長は長宗我部に九州を攻略させ、その成果を領地として認めたうえで、四国の領地を再配分するつもりなのだろう。
「なるほど……。
つまり上様は、長宗我部から阿波と讃岐を召し上げるお考えではあるが、それは九州の領有を認めたうえでの調整というわけじゃな?」
「おそらく、そのようなお考えかと。
さすがに上様も、長宗我部をそこまで無下にはなさいますまい。
長宗我部は上様のお味方にございますからな」
「うむ。そのとおりじゃ!」
光秀は大きく頷いた。
「長宗我部は、味方として用いれば実に心強い。
元親殿も、上様に背くつもりなどないはずじゃ」
「しかも上様は九州攻めに明智殿も派遣するお考えとのことでございます。
これも明智様が長宗我部家と良き関係を築かれておることを、上様も承知されている証拠かと」
「そうか、そうか。そこまでご配慮いただいておるか」
光秀は、そこで安堵したように息をついた。
「いや、しかし……上様も全て承知してくださっておったか。
安心いたした」
光秀が最も懸念していたのは、九州攻略より先に阿波と讃岐を召し上げられることだった。
長宗我部家は、自らの力で四国を統一した。
その領地を取り上げられ、代わりにまだ攻略していない九州の土地を約束されても、元親が納得するとは思えない。
しかし、九州に新たな領地を得た後であれば、話は違ってくる。
もちろん、元親が阿波と讃岐を手放すことに難色を示す可能性はある。
それでも、領地を一方的に奪われるのではなく、新たな領地との交換であれば、交渉の余地は十分にあった。
何より、信長が長宗我部を今後も味方として用いるつもりであることが分かった。
光秀にとっては、それが大きな安心材料だった。
「上様は、日ノ本を統一される天下人にございます」
神崎は、穏やかな口調で続けた。
「長宗我部を疎かに扱い、諸大名からの信用を失うような愚かなことはなさいますまい」
「うむ。確かにな。
上様は厳しいお方ではあるが、功を挙げた者には相応の褒美を与えられる。
そのことは、わしもよく承知しておる」
「左様にございます」
「いや、良い話を聞いた。
元親殿にも伝えて安心させてやらねばならぬな」
光秀は、ようやく表情を和らげた。
「最近は良からぬ噂が多くてな。
わしも元親殿も、少々気を揉んでおったのじゃ」
「それは、ご心配でございましたな」
神崎は同情するように頷いた。
「しかし、今申し上げたことは、伊勢守様が確かに上様からお聞きになられた内容にございます。
ご安心なさってよろしいかと」
「うむ。そうさせてもらおう」
光秀は満足そうに頷いた。
そして、改めて神崎に尋ねた。
「ほかには、何かお聞き及びではないか?」
「ほかに、でございますか?」
「うむ。伊勢守殿と上様のお話についてじゃ」
「そうでございますな……」
神崎は少し考え込んだ。
「あとは……」
そこで、何かを思い出したように口を開きかけた。
しかし、すぐに首を振った。
「あ、いや。それくらいにございます」
「……そうか」
だが、神崎の一瞬のためらいが気になった。
(なんじゃ、今の間は……)
何かを思い出したように見えたのに、神崎は途中で言葉を止めた。
(まだ何か聞いておるのではないか?)
もっとも、神崎は芋粥家の家臣である。
主君に関わる話を、他家の者へ何もかも伝えるわけにはいかないだろう。
それに、神崎が今話した内容だけでも、光秀にとっては十分な収穫だった。
(これ以上、無理に聞き出すこともあるまい)
光秀は、それ以上追及しなかった。
「いや、今日は実に良い時間を過ごせた」
光秀は笑みを浮かべた。
「長宗我部家のことも、ずいぶんと参考になった。
今後とも伊勢介殿はもちろん、神崎殿もよろしく頼みますぞ」
「はっ。こちらこそ、よろしくお願い申し上げまする」
神崎は深く頭を下げた。
「伊勢介様も、南信濃での軍務が落ち着きましたら、改めてご挨拶に伺うかと存じます」
「うむ。楽しみにしておると伝えてくだされ」
「承知いたしました」
こうして、神崎は明智家を辞した。
*
明智家の屋敷を出た神崎は、供の甲賀忍びとともに京の町を歩いていた。
年始の挨拶を終えたばかりの神崎は、特に急ぐ様子もなく、宿へ戻る道を進んでいた。
やがて、二人は人通りの少ない路地へ入った。
その時だった。
供として神崎の少し後ろを歩いていた甲賀忍びが、不自然な足運びを見せた。
ザッ、スタッ。
ザッ、スタッ。
ザッ、スタッ。
片足だけを摺るような歩き方を、三度繰り返したのである。
神崎は振り返らなかった。
しかし、その合図の意味は理解していた。
(三度の片足摺り足……。明智の忍びの気配を感じたか)
供の忍びは、周囲に誰かが潜んでいることを知らせてきたのである。
神崎は、そのまま数歩進んだ。
そして、ふと思い出したように足を止めた。
「……しまったな」
振り返って顔をしかめた。
「どうも俺は、口が軽い」
供の忍びが不思議そうに尋ねた。
「いかがなされました?」
神崎は声を落とした。
「先ほどの明智様とのお話じゃ。
どうやら、伝えてはならぬことまで伝えてしもうたやもしれぬ」
「何かございましたか?」
「四国のことじゃ」
神崎は、周囲を気にするように一度だけ目を動かした。
「伊勢守様が、上様にこうお尋ねになったそうなのだ」
「何と?」
「なぜ、四国のことを明智殿に直接お伝えなさらぬのか、と」
「……明智様に?」
「そうじゃ。明智様は長宗我部との取次を務めておられる。
上様が九州攻めの後の領地交換までお考えならば、明智様にもお伝えになればよいではないかとな」
「なるほど。それで、上様は何と?」
「それが……」
神崎は言いにくそうに言葉を濁した。
「どうも、はぐらかされたらしい」
「はぐらかされた?」
「うむ。日向守には、今後のことを考えると、伝えぬ方がよい、と」
供の忍びは、少し考え込んだ。
「……何やら、含みのある言い方にございますな」
「あぁ」
神崎は眉をひそめた。
「上様のお考えが変わる可能性もあるということかもしれぬ」
「心変わり、でございますか?」
「そうじゃ。
今は長宗我部に九州を与えるおつもりでも、いずれ事情が変わるやもしれん」
神崎は小さく息をついた。
「そうなれば、長宗我部との取次を務める明智様は、元親殿から恨まれることにもなろうからな……。
我らは下手に安心させてしもうたわけじゃ。
ぬか喜びもよいところじゃ」
「しかし、上様が心変わりなさるとは限りますまい」
供の忍びが答えた。
「それもそうだな」
神崎は頷いた。
「上様のお考えなど、我らが勝手に推し量れるものではない。
余計なことを考えても仕方あるまい」
そう言うと、再び歩き始めた。
供の忍びも、何事もなかったかのように後に続いた。
二人は、それきり四国の話をしなかった。




