第三百三十三話 探り合い
政親からの返書を受け取った神崎は、供の忍びに声をかけた。
「さて、殿のご指示もいただいた。
そろそろ明智様へのご挨拶に向かうとしよう」
「はっ!」
神崎は、すでに灰となった政親の返書を一瞥した。
そこに書かれていた策は、神崎が当初考えていたものとは異なっていた。
だが、政親の意図は理解できた。
今はまだ、明智光秀に何の異変も感じさせてはならない。
神崎は供の忍びに支度を命じると、明智家へ向かう準備を始めた。
*
数日後。
神崎友清は、供の者を連れて明智家を訪れた。
事前に年始の挨拶に伺う旨を伝えていたこともあり、屋敷では滞りなく迎え入れられた。
案内された座敷で待っていると、ほどなくして明智日向守光秀が姿を現した。
「おお、神崎殿。よう参られた」
「はっ! 明智様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます」
神崎は深く頭を下げた。
「本年も、我が主、千種伊勢介政親ともども、よろしくお願い申し上げまする」
「うむ。こちらこそ、よろしく頼む」
光秀は穏やかな表情で頷いた。
「それにしても、伊勢介殿は息災か?
昨年は南信濃でずいぶんと働かれたと聞いておるが」
「はい。おかげさまで、変わりなく励んでおりまする」
「それは何よりじゃ。
伊勢介殿は、以前から戦働きのみならず、軍の取りまとめにも長けておられた。
南信濃でも、さぞ伊勢守殿のお役に立っておられるのであろうな」
「ありがたきお言葉にございます。
伊勢介様も、明智様からそのようにお言葉をいただいたと知れば、お喜びになられましょう」
「ははは。世辞ではないぞ」
光秀は笑った。
「本願寺攻めの折には、伊勢介殿にずいぶんと助けられた。
佐久間殿のもとでは、諸将の意見を取りまとめるだけでも骨が折れたからな」
「左様でございましたな」
神崎も笑みを浮かべた。
「伊勢介様も、あの折のご苦労については、今でも時折お話しになられまする」
「そうであろう。わしにとっても、忘れられぬ戦じゃ。
――ところで、伊勢介殿は今も信濃か?」
「はい。本年も引き続き、南信濃の守りを任されております。
そのため、今年は明智様への年始のご挨拶に伺うことが叶いませぬ」
「なるほど。それで神崎殿が代理というわけか」
「はっ。伊勢介様より、くれぐれもよろしくお伝えするよう申し付かっておりまする」
「うむ。伊勢介殿には、よろしく伝えてくれ」
光秀は頷くと、思い出したように言った。
「そういえば、神崎殿にも礼を申しておかねばならぬことがあったな」
「はて、私にでございますか?」
「うむ。以前、伊勢介殿を介していただいた、丹波の寺社領安堵と諸役免除に関する定書の雛形じゃ」
「あぁ、あの文書でございますか」
「そうじゃ。あれは実に参考になった」
光秀は感心したように続けた。
「丹波を治めるようになってから、寺社の領地や諸役の扱いには何かと苦労しておってな。
古くからの権利を主張する寺社もあれば、従来の取り決めが曖昧なままになっておるところもある」
「左様でございましょうな」
「寺社の権利を認めるにしても、どこまで認めるかを明らかにせねば、後々の争いの種になる。
かといって、一方的に新しい負担を課せば、寺社の反発を招きかねぬ」
光秀はそこで神崎に笑みを向けた。
「神崎殿が示してくださった雛形は、そのあたりがよく整理されておった。
安堵する領地と免除する諸役を明記し、従来の慣例についても、認めるものと改めるものを分けておったからな」
「恐れ入りまする」
神崎は頭を下げた。
「寺社領の扱いは、後々の争いを避けるためにも、最初の定めが肝要にございます。
特に諸役の免除については、曖昧な書き方をいたしますと、免除される側が都合よく解釈することもございますゆえ」
「まさしく、そのとおりじゃ!」
光秀は大きく頷いた。
「わしも、あの文書を拝見して、いくつか条文を改めさせた。
おかげで、家臣たちにも何を認め、何を認めぬのか、明確に申し渡すことができたわ」
「それは何よりにございます」
「いやいや、神崎殿のような方が伊勢介殿のもとにおられるとは、実に心強いことじゃ。
伊勢介殿は人を見る目もある。
あれほどの才覚を持ちながら、神崎殿のような者まで抱えておられるのだからな」
「過分なお言葉、恐縮にございます」
神崎は再び頭を下げた。
もっとも、神崎にとって、光秀からこのように評価されるのは初めてのことではなかった。
以前から政親を介して明智家との交流があり、法令や文書について意見を求められることもあった。
神崎もその都度、自らの知識を惜しまず伝えてきたのである。
光秀にとって神崎は、単なる芋粥家の陪臣ではなかった。
政親が抱える切れ者の一人であり、法令や領国統治について確かな見識を持つ人物として、一目置いていた。
そのため、今回も年始の挨拶に訪れた一陪臣としてではなく、以前から付き合いのある知己として迎えていたのである。
「まぁ、堅苦しい話はこのくらいにしよう」
光秀は笑みを浮かべた。
「せっかく京まで参られたのじゃ。
今日はゆるりとしていかれるがよい」
「ありがたき幸せにございます」
神崎は丁寧に頭を下げた。
しばらくの間、二人は近況や昔話に花を咲かせた。
丹波の領国経営から昨年の南信濃での戦いまで、話題は尽きなかった。
神崎も、政親の近況や芋粥家の様子について、差し障りのない範囲で答えていた。
やがて、光秀が話題を変えた。
「そういえば、伊勢介殿は今も芋粥家の外交を担っておられるのであったな」
「はい。伊勢介様は、伊勢守様から諸家との交渉を任されることも多うございます」
「うむ。あの方ならば、さぞ諸国の事情にも通じておられるのであろう」
「恐れながら、そのあたりは伊勢介様の最も得意となさるところにございます」
「ははは。やはりそうか」
光秀は笑った。
「伊勢守殿は戦にも政にも優れたお方じゃが、伊勢介殿のような方が傍らにおられることも、芋粥家の強みなのであろうな」
「ありがたきお言葉にございます」
神崎が頭を下げると、光秀は茶碗を手に取った。
「それにしても、昨年は諸国でずいぶんと動きがあった」
「左様でございますな」
「東では武田、北では上杉、西では毛利……。
いずれも、上様に従わぬ大名ばかりじゃ」
「はい」
「もっとも、東方のことは伊勢守殿や伊勢介殿がおられる。
わしが案ずるまでもあるまい」
光秀は茶を一口飲んだ。
「むしろ、これからは西国の動きが気になるところじゃ」
「西国、でございますか?」
「うむ。中国では羽柴殿が毛利と戦っておられる。
四国では長宗我部が毛利や九州に睨みを効かせておる。
いずれも、今後の織田家にとって無関係ではあるまい」
「確かに、そのとおりにございます」
神崎は頷いた。
光秀は、しばらく中国地方の戦況について話した。
羽柴秀吉が毛利との戦いを進めていることや、中国方面の平定が織田家にとって重要であることなど、特に目新しい話ではなかった。
神崎も相槌を打ちながら聞いていた。
すると光秀は、話題を四国へ戻した。
「ところで、長宗我部のことじゃが……」
「はい」
「元親殿は、なかなかの人物じゃ。
土佐の一大名から身を起こし、四国を統一するまでになった」
「左様でございますな」
「わしも以前から長宗我部家とは付き合いがあるゆえ、その働きぶりには感心しておる」
光秀は、そこで少し考えるような素振りを見せた。
「もっとも、今は味方とはいえ、これほど勢力が大きければ、上様も今後の扱いをお考えになられるであろう」
「それは、そうでございましょうな」
「うむ。元親殿も、上様のお考えには気を配っておられるようじゃ」
光秀はそう言うと、神崎の顔を見た。
「伊勢介殿は諸家との交渉に通じておられる。
長宗我部のことについても、何かお聞き及びではないか?」
「長宗我部家のことでございますか?」
「うむ。何も特別な話でなくともよい。
年始評定では伊勢守殿は上様と個別にお話もされたようだ。
伊勢介殿も何か噂でも聞いておるやもしれんな」
光秀は穏やかに続けた。
神崎は、光秀の言葉を聞きながら考えた。
「それにございますか」
(早速食いついたか)




