第三百三十二話 神崎の野心
甲賀忍びを見送り、一人になった神崎は、しばらく文机の前で考え込んでいた。
明智光秀が信長に疑念を抱き、ついには謀反を起こす。
おそらく慎重な明智は、千種や神崎が何も言わずとも、信長だけでなく信忠を討ち取れる機会を狙って、反旗を翻すだろう。
そして信長親子が討たれれば、天下は乱れる。
そこで秀政は必ず仇討ちに立ち上がる。
神崎は、秀政の信長に対する忠誠を疑っていなかった。
むしろ、だからこそ、この策が成り立つと考えていたのである。
(明智が上様を討ち、伊勢守様がその仇を討てば……)
信長と信忠が失われ、謀反を起こした光秀も秀政によって討たれる。
そうなれば、織田家の中で秀政の発言力は飛躍的に高まるはずだった。
(伊勢守様が次の天下人となることも、夢ではない)
さらに、神崎にはもう一つの期待があった。
(上様がおられなくなれば、秀文様に家督をお継ぎいただく道も開けよう)
現在、芋粥家の後継者は長政である。
しかし政親は、秀政の実子である秀文を後継者に据えたいと考えていた。
今のうちから明智に策を仕掛けておけば、仇討ちの際には政親が大いに功を挙げるだろう。
信長の存在がなくなり、政親の発言力が強まれば、家中の後押しも得て、その望みを実現できる可能性も高まる。
そして、秀文が芋粥家を継げば、その後見に立つ政親の千種家も、さらに大きな力を持つことになる。
(そうなれば、千種は天下人の宿老……)
神崎は、そこで口元を緩めた。
(そして俺も……)
神崎には、長年抱き続けてきた望みがあった。
かつて近江を支配した六角家の再興である。
今は芋粥家に仕える身であっても、その望みを捨てたわけではなかった。
もし秀政が天下人となり、政親がその政権で重きをなすようになれば、神崎にも六角家再興のために働く機会が巡ってくるかもしれない。
(神崎ではなく、六角を名乗ることもできよう)
神崎は、そう考えた。
そのためにも、まずは明智光秀の疑念を利用しなければならない。
六角家再興を狙う神崎こそが、織田信長を最も邪魔に思っていたのである。
神崎は立ち上がると、明智家へ向かう支度を始めた。
*
神崎は、甲賀忍びの供回りだけを連れ、明智家への年始の挨拶に向かった。
もっとも、すぐに明智光秀を訪ねるつもりはなかった。
京へ入った神崎は、東山の山裾にある瑞雲寺に宿を取った。
この寺の住職は、かつて六角家に仕えた者の縁者であり、神崎とは古くから付き合いがあった。
神崎にとっては気心の知れた相手であり、余計な詮索を受けずに逗留できる場所でもあった。
明智家への年始の挨拶を前に、しばらく京で休息を取るという名目であれば、数日の滞在も不自然ではない。
もっとも、神崎が待っていたのは休息ではなかった。
南信濃にいる政親からの返書である。
神崎は、政親へ送った文の中に、京では瑞雲寺に宿を取ることも記していた。
政親が策を認めるのであれば、そのまま明智家へ向かう。
認めぬのであれば、何もせずに年始の挨拶だけを済ませればよい。
いずれにせよ、政親の判断を聞くまでは動くつもりがなかった。
そして、瑞雲寺に入って数日が過ぎた頃。
ようやく、南信濃からの返書が届いた。
「おお、来たか」
神崎は供の忍びから文を受け取ると、早速封を解いた。
そこには、政親からの指示が記されていた。
神崎は一度読み終えると、もう一度、最初から目を通した。
そして、口元に笑みを浮かべた。
「ふっ……」
神崎は文を折り畳むと、傍らの火鉢に放り込んだ。
紙は炭火に触れて燃え始め、やがて黒く縮れながら灰となった。
神崎は、それが完全に燃え尽きるのを見届けた。
「ふふふ。案の定、殿もこれを絶好の機会と捉えられたか」
傍らに控えていた甲賀忍びが尋ねた。
「殿は、何と?」
「許す。抜かりなくやれ、とな」
「では、明智様への工作をお認めになられたのですね」
「あぁ。だが……」
神崎は、そこで少し笑った。
「少々、方法を変えよとのご指示もあった」
「方法を、でございますか?」
「うむ。俺もそれなりに謀には自信があるつもりだったが、毒の扱いに関しては、さすがの俺でも殿には到底敵わんようだ」
神崎は愉快そうに笑った。
「はははは!」
「より効果的な策でも、お考えになられたのでしょうか?」
「あぁ。殿のご指示どおりに動くことにしよう」
「承知いたしました」
忍びはそれ以上尋ねなかった。
政親が神崎にどのような指示を与えたのか、知る必要がなければ聞かない。
それが、普段から密命を扱う者の心得でもあった。
しかし、神崎はそのまま話を続けた。
「考えてもみよ。
今回、俺が明智に会ったところで、確実に謀反を起こすとは限らん」
「はい」
「一度の面会で人の考えを変えるのは難しい。
まして明智は慎重な男じゃ。
だからこそ、今回は一滴の毒を含ませる程度にとどめるつもりだった」
神崎は火鉢の炭を見つめながら続けた。
「劇薬は効果が大きいが、仕掛ける側にも覚悟が要る。
下手をすれば、毒を盛ったことがすぐに露見するからな」
「左様でございます」
「そこで、誰にも知られずに相手を仕留めようとするなら、どうする?」
忍びは少し考えてから答えた。
「弱い毒を、継続して飲ませるのがよろしいかと。
少しずつ体を弱らせていけば、相手もすぐには気づきませぬ」
「そうだ。そして、十分に弱ったところで、少し強い毒を飲ませればよい」
「はい。それならば、仕掛けた者も疑われにくいかと」
神崎は頷いた。
「普通は、そう考える」
「はい」
「……と、殿は仰せだ」
「……は?」
忍びは思わず顔を上げた。
神崎は笑みを浮かべたまま続けた。
「どれほど愚かな者でも、いよいよ最悪の事態に陥れば、考えるものじゃ。
自分の体が悪くなり始めたのは、いつからだったのか。
何がきっかけだったのか、とな」
「なるほど……」
「そして、思い当たる節があれば、そこから疑いが生まれる。
最初に毒を飲ませた者まで、調べられるかもしれん」
神崎は指を一本立てた。
「殿は、そこが危ういと仰せなのだ。
少しずつ弱らせる方法では、相手が異変に気づいた時、最初の一滴まで疑われる恐れがある」
「確かに……。では、どのようになさるので?」
忍びが尋ねると、神崎は口元を緩めた。
「今は、体に一切の不調が現れぬ毒を飲ませるのだ」
「……不調が現れぬ毒、でございますか?」
忍びは困惑した顔をした。
毒を飲ませるというのに、相手には何の異変も起こさない。
それでは、何のために毒を盛るのか分からなかった。
「ふふふ……そうだ。
不調は現れぬが、毒が効きやすくなる薬を与え続けるのだ」
「はぁ……」
神崎は、忍びの困惑した顔を眺めた。
「ここぞという時に、初めて毒を仕込む。
すでに毒が効きやすくなった体であれば、たちまち症状が現れるだろう。
そうなれば、誰の仕業かなど考える余裕もない。
生き延びるために、ただ足掻くしかなくなるのだ。
まぁ、いずれ分かる」
それだけ言うと、神崎は立ち上がった。




