第三百三十一話 忠臣の献策
「ん? 考えとな? 申してみよ」
秀政が促すと、神崎友清は改めて姿勢を正した。
「はっ! 実は、かつて佐久間家の副将として本願寺に当たった折、我が主の伊勢介様も明智様と懇意になられましてございます」
「あぁ、あの時か」
秀政は頷いた。
「あれは苦労したのをよく覚えておる。
政親にも、ずいぶん動いてもらったな」
本願寺との戦いでは、当時総大将だった佐久間信盛のもとで各地の織田軍が協力し、長期にわたる包囲と戦闘を続けていた。
そこへ秀政も副将として加わり、慎重すぎる佐久間の采配に対して、明智光秀と苦労を共にしていた。
その際には政親にもさまざまな役目を任せていた。
政親は秀政の副将として、その有能さを光秀にも示し、気に入られていた。
「はい。あの折、伊勢介様は明智様からも高く評価されたようでございます」
「ほう?」
「明智様は、伊勢介様を伊勢守様の懐刀と見なしておられるようで、一目置いてくださっております。
伊勢介様は芋粥家の外交を担っております。
小さな縁でも当家に役立つとあらば、伊勢介様は大事になさいます。
そのため、あれからも年に一度は明智様へのご挨拶を欠かしておりませぬ」
「なるほど。そういう付き合いがあったか」
秀政は感心したように頷いた。
政親は頭が切れ、交渉事にも長けている。
その才覚を光秀が評価しているという話も、秀政には十分納得できるものだった。
「しかし、今年は事情が異なります」
「事情?」
「伊勢介様は、現在も南信濃にて軍務に当たっておられます。
そのため、明智様への年始のご挨拶に出向くことができませぬ」
「そうであろうな」
「そこで、今年はこの私が代理としてご挨拶に伺うよう、伊勢介様から申し付けられております」
「ふむ。それで?」
秀政は、神崎が何を言おうとしているのか、まだ分からなかった。
神崎は一礼してから続けた。
「先ほどお聞かせいただいた上様のご真意は、必ず明智様にもお伝えすべき内容と存じます」
「うむ。それは俺も同じ考えじゃ」
「されど、伊勢守様がわざわざ文をお送りになれば、明智様は何ゆえ自分にだけ知らせるのかと、勘繰られる恐れがございます」
「そうなのじゃ。そこが難しい」
秀政は頷いた。
光秀が長宗我部家の処遇を気にしていることは、年始評定での様子からも分かっていた。
信長の構想を伝えれば、光秀の不安も和らぐだろう。
しかし、秀政が突然、光秀に対して四国政策の詳しい説明を始めれば、かえって不審に思われる可能性がある。
光秀自身は、信長からまだその構想を聞かされていないのである。
秀政が信長から内々に聞いた話を、本人の承諾もなく正式な文書として伝えるのも、好ましいことではなかった。
「そこで、でございます」
神崎は少し身を乗り出した。
「私が明智様への年始のご挨拶に伺った折、世間話の中で上様のお考えをお伝えするのはいかがでしょうか」
「……ほう」
「私は伊勢介様の家老にございます。
明智様も、伊勢介様が伊勢守様から何か聞いているかと思うやもしれません。
その家老である私が、伊勢守様から聞いた話としてお伝えすれば、相応の真実味もございましょう」
神崎は言葉を続けた。
「しかも、年始のご挨拶という名目がございます。
伊勢守様がわざわざ明智様へ使者を送られたわけではありませぬ。
話のついでに耳に入ったという形であれば、明智様も余計な勘繰りをなさらずに済むのではございませぬか。
場合によっては、明智様から探りを入れられることも考えられます。
私であれば、それを上手く利用し、口八丁で話を運ぶこともできまする」
「なるほど……」
秀政は腕を組んだ。
確かに、悪くない考えだった。
政親と明智家には以前から交流があり、神崎がその代理として年始の挨拶に赴くことにも不自然な点はない。
しかも神崎は、先ほど信長の九州構想について詳しく説明を受けたばかりである。
阿波と讃岐の召し上げは九州攻略後であり、それまでは長宗我部元親を先鋒として働かせる。
さらに、九州攻略には明智光秀も加わる予定である。
これらの事情を理解している神崎ならば、光秀に誤解を与えずに説明できるだろう。
「確かにな。お前なら、この件についてもよく理解してくれておる」
「恐れ入ります」
「それに、お前は政親と同じように頭も口もよく回る。
明智殿との世間話で、さりげなく漏らすには適役かもしれんな」
「ありがたきお言葉にございます」
神崎は深く頭を下げた。
「家中法度の検討も大切な役目ではございますが、此度の件はそれ以上に重要と存じます」
「うむ」
「長宗我部家の処遇を巡って明智様が疑念を抱かれれば、芋粥家のみならず、織田家全体に影響が及びかねませぬ。
伊勢介様とて、同じお考えでございましょう」
秀政は頷いた。
光秀は織田家の宿老であり、畿内の統治を任される重臣でもある。
その光秀が長宗我部家との外交を巡って不安を抱えているのであれば、できる限り早く解消しておくに越したことはない。
しかも、光秀が信長の構想を誤解したまま長宗我部家へ情報を伝えれば、元親まで疑心暗鬼に陥る恐れがある。
四国政策を巡る余計な混乱は、織田家にとって何の利益にもならなかった。
「では、明日にでも発ち、明智様を安心させてまいります」
「そうだな。それがよかろう」
神崎が年始の挨拶に赴くのであれば、今からでも不自然ではない。
何より、秀政自身が動く必要がないのがありがたかった。
(これなら、明智殿に余計な警戒を抱かせずに済むな)
秀政は、ひとまず安心した。
「そうだな。これは本能寺にも関わる話やもしれん」
「……本能寺?」
神崎が不思議そうに聞き返した。
「ん?」
秀政は、思わず口を滑らせたことに気づいた。
本能寺の変は、まだ起こっていない。
当然ながら、神崎がその言葉の意味を理解できるはずもなかった。
「いや、何でもない。別事じゃ」
秀政は軽く首を振った。
「ともかく、明智殿には殿のお考えを正しく伝えておきたい。
頼まれてくれるか?」
「御意」
神崎は深々と頭を下げた。
「それから、伊勢守様。こちらをご覧くださいませ」
神崎は傍らに置いていた包みを開き、一冊の冊子を取り出した。
表紙には『芋粥家中定書十五ヶ条』と記されている。
「ほう。もうまとめたのか」
「はっ。先日ご指摘いただいた箇所を改め、十五ヶ条にまとめ直しました」
秀政は冊子を受け取ると、早速その場で開いてみた。
家臣の役目や軍役、領内での振る舞いなど、芋粥家中の者が守るべき事柄が条文として整理されている。
以前の草案では、役目ごとの責任が曖昧になっていた箇所や、違反した場合の扱いが明確でない箇所もあった。
しかし、今回の草案では、それらにも手が加えられていた。
「うむ。おぉ、前に言うたところが、直っておるな」
「はい。伊勢守様のお考えを踏まえ、改めて吟味いたしました」
「よくできておる」
秀政は感心したように頷いた。
芋粥家は伊勢を治める大名家となり、家臣の数も以前とは比べものにならないほど増えている。
家中の規律を整え、誰もが同じ決まりに従うようにすることは、今後の領国経営にとって重要だった。
そのため、秀政は以前から神崎と相談し、家中法度の制定を進めていたのである。
「本日のところは、明智様へのご挨拶の準備に戻りとうございます」
神崎は一礼した。
「一度お目を通していただき、気になる箇所に朱書きを入れていただければ、戻り次第、改めて吟味いたしまする」
「うむ。それがよかろう」
秀政は冊子を閉じた。
「お前とこれを論じるのは楽しいのだが、今は明智殿のことが優先じゃ。
こちらは一度よく読んで、朱書きを入れておく」
「ありがたき幸せにございます」
「では、頼んだぞ」
「はっ! それでは失礼いたしまする」
神崎は深く頭を下げ、小広間を退出した。
*
鈴鹿館を辞した神崎は、自邸へ戻ると、すぐに文机に向かった。
硯に墨をすり、筆を取る。
文の宛先は、南信濃で陣を張る、大河内城主の千種伊勢介政親である。
神崎は、先ほど秀政から聞いた信長の九州構想と、明智光秀がその詳細を知らないことを書き記した。
そして、秀政の許しを得て、政親の代理として明智家へ赴くことになった経緯も伝えた。
ただし、神崎が明智家へ向かう本当の目的は、秀政が期待しているものとは異なっていた。
秀政は、信長の真意を光秀に伝え、不安を取り除こうとしている。
しかし神崎は、その不安を解消するつもりなどなかった。
むしろ、光秀が抱いている疑念を利用し、信長への不信をさらに強めさせようと考えていたのである。
神崎は文を書き終えると、内容を確かめてから折り畳んだ。
「黒木、おるか?」
呼びかけると、部屋の隅に一人の男が姿を現した。
「はっ」
黒木と呼ばれた男は、神崎が使っている甲賀忍びの一人だった。
普段は表に姿を見せず、神崎の命を受けて各地への連絡や情報収集を行っている。
神崎は書き終えた文を差し出した。
「これを殿に渡してくれ」
「承知いたしました」
黒木が文を受け取ると、神崎は続けた。
「俺はこれから、独断で明智の心に毒を仕込みに行く」
「……明智様に、でございますか?」
「そうだ」
神崎は頷いた。
「伊勢守様から、明智様へ上様の真意を伝える役目を仰せつかった。
だが、俺はその機会を利用して、明智の疑念をさらに深めさせるつもりだ」
黒木は黙って聞いていた。
「ただし、これは芋粥家にも千種家にも関わる大事じゃ。
俺の一存で決めてよいことではない」
神崎は、黒木の手にある文を指した。
「その文には、俺の考えと、これから明智家へ向かうことを書いてある。
道中はゆるりと進むつもりじゃ。
殿がこの策を認めぬのであれば、追って止めるようにとも記した」
「はっ」
「殿のことだ。俺の考えはご理解いただけると思う。
だが、万一ということもある。
殿のご判断を仰がずに進めるわけにはいかぬ」
神崎は黒木を見据えた。
「急げ。俺が明智家へ着く前に、必ず殿の承諾を得るのだ」
「御意!」
黒木は一礼すると、すぐに部屋を退出した。
神崎の子飼いの甲賀忍びは、そのまま信濃へ向けて急ぎ走り去った。
一人になった神崎は、しばらく文机の前に座っていた。
(……これがうまく運べば、天下が変わる)




