第三百三十話 忠臣の顔
天正十年一月。
伊勢国、鈴鹿館。
安土での年始評定を終えた秀政は、数日ぶりに鈴鹿館へ戻ってきた。
館に入ると、お悠が澪と燈を連れて出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、殿」
「おお、今戻ったぞ」
「ちちさまー!」
「ちちさま!」
秀政の姿を見つけた澪と燈が、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「おお! 二人とも、よい子にしておったか!」
秀政は破顔すると、腰をかがめて二人を抱きしめた。
「うん!」
「いいこにしてた!」
「そうかそうか。ならば、土産をやらねばならんな」
「おみやげ!?」
「なになに!?」
二人が目を輝かせた。
秀政は従者に持たせていた包みを受け取ると、中から小さな土人形を二つ取り出した。
一つは白い兎、もう一つは赤い鶏である。
どちらも素焼きに彩色を施した素朴な玩具で、安土の市で見つけたものだった。
「ほれ、澪には兎じゃ。燈には鶏をやろう」
「わぁ! うさぎ!」
「にわとり!」
二人はそれぞれ土人形を受け取ると、さっそく眺め始めた。
「ちちさま、ありがと!」
「ありがとー!」
「うむ。大事にするのじゃぞ」
「はーい!」
二人は土人形を手に持ったまま、奥へ駆けていった。
秀政はその後ろ姿を見送り、思わず笑みを浮かべた。
「まったく、元気なものじゃ」
「ふふふ。殿がお戻りになるのを、ずっと楽しみにしておりましたから」
お悠も笑っていた。
そして、秀政の顔を見て尋ねた。
「そのお顔ですと、今年は難しいお役目を与えられたわけではなさそうですね」
「ああ、去年から引き続いて武田攻めだ。
しかも、我が軍は牽制にとどめて、兵を温存せよと殿の仰せだ。
大きな戦も起こるまいよ」
「それは何よりです。
長政や政親にも危険はなさそうですね」
「そうだな」
秀政は頷いた。
南信濃を押さえて武田家に圧力をかけ続けることが、芋粥軍に与えられた当面の役目だった。
信忠や滝川一益が武田攻略の主力となる以上、芋粥軍が無理に攻め込む必要はない。
もちろん、武田軍が反撃してくる可能性はある。
それでも、昨年の南信濃戦役のような激戦になるとは考えにくかった。
「そして、武田を仕留めた後は、秀吉のもとで中国攻めじゃ」
「まぁ、そうなんですね」
お悠が少し驚いた顔をした。
「秀吉も無茶なことをせぬ男じゃ。
あやつのもとで戦うのであれば、危険もそう多くはあるまい」
秀吉は戦上手であり、兵糧攻めや調略を駆使して、できる限り自軍の損害を抑えようとする。
秀政も、その手腕はよく知っていた。
「ふふふ。久方ぶりに羽柴様と共闘されるのですね。
それは楽しみですね」
「あぁ。あやつとは気も合うからな」
秀政は笑った。
「今年は楽ができそうじゃ」
「それなら、私も安心です」
お悠は嬉しそうに頷いた。
だが、秀政には一つだけ気にかかることがあった。
(……本能寺の変が起きなければ、だがな)
天正十年。
史実では、この年に信長が明智光秀の謀反によって命を落としている。
しかし、今のところ、光秀が謀反を起こすと判断できる材料はなかった。
むしろ、信長は秀政を信頼し、武田攻略後の中国方面への転属まで内々に伝えてくれている。
(俺は殿に、ずいぶん可愛がられておるようじゃな)
秀政は、安土城の奥の間で交わした会話を思い出した。
信長は、武田家の内部崩壊を見越した軍勢の配置だけでなく、長宗我部家を利用した九州攻略の構想まで話してくれた。
そこまで信頼されているのであれば、秀政としても、その期待に応えたい。
(正直なところ、本能寺の変など起きぬ方がよい)
信長が生きていれば、織田家による天下統一は着実に進むだろう。
秀政自身も、伊勢の領国経営を続けながら、織田家の宿老として働いていけばよい。
わざわざ天下を揺るがすような大事件に巻き込まれる必要はなかった。
(とはいえ、明智殿の動向には目を光らせておかねばならんな)
年始評定で見た光秀の様子が、秀政の頭に浮かんだ。
長宗我部家の処遇について、光秀は信長に直接尋ねていた。
その後、信長は秀政に対し、九州攻略後に阿波と讃岐を召し上げる構想を明かしている。
しかし、光秀にはまだその詳しい内容を伝えていないという。
(あの後、明智殿にも雑談の折に伝えようと考えたが、既に退席されていた。
わざわざ文など出せば、こちらが明智家を探っていることがばれてしまう。
明智殿が四国のことで、何か思い詰めておらねばよいが……)
史実の本能寺の変が、どのような理由で起こったのかについては、現代でもさまざまな説がある。
この世界では史実と異なる出来事も多く、光秀が同じ行動を取るとは限らない。
それでも、警戒しておくに越したことはなかった。
(幸い、今年の俺の役目はそれほど厳しくない。
明智殿の動きを調べる余裕もあるだろう)
秀政は、ひとまずそう考えることにした。
「弥八様?」
お悠に呼ばれ、秀政は顔を上げた。
「ん? どうした?」
「何やら考え込んでおられましたが……」
「いや、今年のことを少しな」
「そうでしたか」
お悠は頷くと、思い出したように言った。
「そういえば、神崎殿が参られておりますよ」
「神崎が?」
「はい。家内法度の検討の続きだとか」
「ああ、俺が呼んでおいたのだ」
秀政は頷いた。
「ちょうどよい。早速、話を聞くとしよう」
*
「面を上げよ。待たせて悪かったな」
「いえ。安土からお戻りになったばかりのところ、お時間をいただき恐縮です」
神崎が顔を上げると、秀政は腰を下ろした。
「いや、構わぬ。家内法度のことも進めておかねばならぬからな」
「はっ」
「それにしても、今年の年始評定は穏やかなものだったぞ。
殿も上機嫌でな」
「ほう。上様が上機嫌でございましたか」
「あぁ。武田も毛利も、いずれ片づくとお考えのようじゃ。
ただ、明智殿だけは妙に辛気臭い顔をしておったがな」
「……明智様が?」
神崎は、わずかに首を傾げた。
「うむ。長宗我部の処遇が気になっておるようでな。
評定でも、わざわざ殿にお尋ねしておった」
「なるほど……。では、やはり長宗我部は領地を召し上げられるのでしょうか?」
「いや、そうでもない」
秀政は首を振った。
「実は評定の後、殿から詳しいお考えを聞いてな」
秀政は、信長から聞いた九州攻略と長宗我部家の領地再編について、神崎に説明した。
「ほぉ……。上様は、そこまで深謀遠慮を巡らせておられたのですね」
神崎は感心したように頷いた。
(まずいな……。せっかく上様を排除する手立てができたというに……)
「そのことは明智様へは?」
「機を逃した。
立ち話で話題に出して伝えるならばよいが、わざわざ文で伝えるようなものでもあるまい。
それでは我らが明智家を探っていたのが伝わってしまう」
(ほぉ、まだ間に合うか。
このことは伊勢守様から明智様へ伝えるわけにはいかぬ。
火種が消えてしまうからな)
「左様でございますな。
上手く明智様へ伝えて、安心していただけると良いのですが……」
(何とかせねばならぬ……)
「どうしたものかな?
あの辛気臭い顔、明智殿も良からぬことを考えねばよいが……。
あの方も妙に勘が良い。
下手を打ちたくないな」
無表情のまま、神崎が秀政の目を見つめた。
「伊勢守様、某に一つだけ考えがございます」




