第三百二十九話 信長の胸算用
評定を終えた秀政は、信長に従って奥の間へ向かった。
部屋に入ると、信長は腰を下ろし、秀政にも座るよう促した。
「芋。武田のことじゃ」
「はっ」
「勝頼は新府城を築き、領国の立て直しを進めておるそうじゃな」
「左様にございます。
南信濃を失ったとはいえ、武田にはまだ相応の兵力が残っております」
秀政が答えると、信長は頷いた。
「されど、家中は穏やかではあるまい」
「……はい。南信濃を失ったことで、武田家の威信は大きく傷ついております。
家臣たちの間にも、先行きを案じる者が増えているようにございます」
「うむ。武田は、いずれ内から崩れる」
信長は、そう言い切った。
武田勝頼は、父の信玄から受け継いだ領国を守るため、新府城の築城を進めていた。
しかし、城を新たに築いたところで、失った南信濃が戻ってくるわけではない。
さらに、新府城の築城費用を賄うための増税も、領民を苦しめる原因となっていた。
南信濃の喪失は、単なる領地の減少ではなかった。
武田家は長年にわたる戦で多くの兵と財を費やしている。
南信濃の喪失とこれまでの戦による疲弊が重なり、武田家に従う国衆や家臣たちの間では、織田家との戦いに勝ち目があるのかという疑念が広がりつつあった。
「勝頼がいくら兵を集めようとも、家臣どもが先行きを案じれば、いずれ綻びが生じよう」
「はっ」
「そのためにも、そちには南信濃を押さえていてもらわねばならぬ」
信長は秀政を見た。
「そちの軍勢が南信濃におれば、武田は西を警戒せずにはおれぬ。
兵を動かすにも、常に背後を気にせねばならぬからな」
「なるほど……」
「それが続けば、家臣どもの不安も増す。
織田に攻め込まれる前に、武田を見限る者も出てこよう」
秀政は頷いた。
南信濃を押さえているだけでも、武田家には大きな圧力をかけられる。
しかも、織田信忠と滝川一益が信濃方面から攻勢を強め、徳川家康も駿河方面から圧力をかけている。
武田家は複数の方面に兵を配置しなければならず、その負担は小さくなかった。
「ゆえに、そちは引き続き東方方面軍に加われ。
ただし、無理に兵を損なう必要はない」
「……と、申されますと?」
信長は口元を緩めた。
「武田が滅びれば、次は中国じゃ。
そちの兵は温存しておけ。
功を争わぬお前のことじゃ。
このようなつまらぬ役回りは、お前にしか任せられん」
「ははっ!
確かに……他の宿老方は、周りが功を挙げる中で指をくわえて待っているわけにはいきますまいな。はははは!」
秀政が笑うと、つられるように信長も笑った。
(なるほど。やはり中国攻めに回すつもりだったか。
俺の思惑とも一致する。
願ったり叶ったりだ)
信長の考えは、武田家を滅ぼすまでは秀政を東方方面軍に置き、南信濃を押さえさせることで武田家に圧力をかけながら、軍勢の損耗を抑えるというものだった。
そして武田家が滅びれば、その兵力を中国方面へ転用するつもりなのだ。
(武田を片づけるまでは、東方方面軍というわけじゃな)
「承知いたしました。
南信濃を確実に押さえ、武田の動きに備えまする」
「うむ。頼んだぞ」
信長は満足そうに頷いた。
*
秀政は、もう一つ気になっていたことを思い出した。
「殿。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何じゃ」
「先ほど、長宗我部を九州攻めの先鋒とすると仰せでしたが……」
「うむ。それがどうした?」
「もし長宗我部が九州を攻略すれば、奴めは今以上に強大になるのではありませぬか?」
秀政の問いに、信長は笑った。
「ははは! 長宗我部の兵は強い。
九州攻めに使わぬ手はあるまい」
「しかし、元親はすでに四国を統一しております。
そのうえ九州にまで領地を広げれば、織田家にとっても無視できぬ大勢力となりましょう」
「それは承知しておる」
信長は、さも当然という顔で答えた。
「じゃが、長宗我部が九州を攻めれば、それだけ織田の天下統一が進む。
元親が勝てば、その働きを利用すればよい」
「では、九州で苦戦した場合は?」
「長宗我部の兵が減るだけじゃ」
信長は笑みを浮かべた。
「元親が九州で勝てば、織田の勢力が広がる。
負ければ長宗我部の力が弱まる。
どちらに転んでも、こちらに損はない」
「……なるほど」
秀政は感心した。
信長は、長宗我部家を単純に味方として信頼しているわけではなかった。
その軍事力を九州攻略に利用しながら、長宗我部家が必要以上に強大にならないよう、先々のことまで考えているのである。
「それに、九州は三か国ほど与えてやってもよいと思っておる」
「九州三か国、でございますか?」
「うむ。その代わり、阿波と讃岐は召し上げる」
秀政は、少し考えた。
四国のうち阿波と讃岐を取り上げ、代わりに九州の三か国を与える。
長宗我部家の領地を四国と九州に分けることで、その力を抑えようという考えなのだろう。
だが、一つ気になることがあった。
「しかし殿。
九州を取れるかどうかも分からぬうちに阿波と讃岐を召し上げれば、長宗我部はただの減封と受け取るのではありませぬか?」
すると、信長は声を上げて笑った。
「ははは! 芋! お前は戯けか!」
「は?」
思わぬ言葉に、秀政は目を丸くした。
信長は笑いながら続けた。
「取る前に四国を召し上げてどうする。
それでは飯も与えず、猟犬として使うようなものよ!」
「……ああ!」
秀政も思わず笑った。
「左様ですな! ははは!」
「元親とて馬鹿ではあるまい。
領地を取り上げられたうえで、まだ手に入れてもおらぬ九州を攻めよと言われて、素直に従うものか」
「まことに、そのとおりにございます」
「九州を攻め取らせ、その働きに応じて領地を与える。
そのうえで阿波と讃岐を召し上げればよい」
信長は、そう言って頷いた。
「それに、九州をすべて長宗我部に任せるわけではない。
最初の足掛かりを築くという厄介な役目を、長宗我部にやらせるのじゃ。
その後は日向守も九州へ向かわせ、両者を競わせる」
「明智殿も、九州へ?」
「うむ。日向守ならば、長宗我部に負けじと九州を切り取るであろう。
元親とて、九州を好き放題に攻め取れるわけではない。
三か国も取れれば上々じゃろう」
信長は笑みを浮かべた。
「そのうえで阿波と讃岐を召し上げる。
長宗我部には九州の領地を与え、四国での力を削ぐ。
日向守にも九州で働かせれば、織田の天下統一も進むというものじゃ」
「なるほど……」
秀政は、信長の考えを理解し始めていた。
信長は、長宗我部家だけに九州攻略を任せるつもりではなかった。
まず元親を先鋒として九州へ送り込み、攻略の足掛かりを築かせる。
その後、明智光秀にも九州攻略を命じ、両軍を競わせる。
長宗我部家が九州で勝利を重ねれば、織田家の勢力は拡大する。
反対に、苦戦して軍勢を損耗すれば、長宗我部家の軍事力が弱まる。
さらに、明智軍が九州攻略に加われば、長宗我部家だけが領地を増やし続けることも防げる。
元親に九州三か国ほどを与え、その代わりに阿波・讃岐を召し上げれば、長宗我部家の勢力を抑えながら、織田家の支配を九州へ広げることができる。
(……たしかに、よく考えておられる)
秀政は、信長の構想を理解した。
何より、信長は九州攻略の前に長宗我部家の領地を取り上げるつもりではない。
元親に働かせ、その功績に応じて新たな領地を与えたうえで、四国の領地を再編するという考えだった。
(やはり殿は、そこまで無謀なことは考えておらぬか)
秀政は安堵した。
「よく分かりました。
長宗我部を九州攻めの先鋒とするのは、そういうお考えでございましたか」
「うむ。もっとも、まずは武田と毛利じゃ。
この先の領地の差配については、まだ日向守にも伝えておらぬ。
定まらぬことを公にしたところで、皆を惑わすだけじゃ。
九州のことは、その後でよい」
「ははっ!」
秀政は深く頭を下げた。
*
奥の間で信長の考えを聞いた秀政は、今後の方針を理解した。
武田家を滅ぼすまでは、東方方面軍の一員として南信濃を押さえる。
武田家が滅びれば、中国方面へ向かい、羽柴秀吉とともに毛利家の攻略を進める。
一方、長宗我部家は当面、毛利家を牽制しながら兵力を蓄え、将来の九州攻略に備える。
九州攻略が始まれば、まず長宗我部元親を先鋒として送り込み、その後に明智光秀も投入する。
そして、長宗我部家が九州に新たな領地を得た後で、阿波・讃岐を召し上げる。
秀政から見れば、信長の方針には筋が通っていた。
少なくとも、長宗我部元親を無理に追い詰めて反乱を招くような判断ではなかった。
一方、そのころ同じ安土城にいた明智光秀は、長宗我部家の将来について不安を抱えていた。
光秀が間者から得た情報は、内容そのものは間違っていなかった。
信長が阿波・讃岐を召し上げ、その代わりに九州三か国を与える構想を持っていることは事実だった。
ただし、最も重要な実施時期が伝わっていなかったのである。
さらに光秀は、信長が自分を九州攻略に投入し、長宗我部元親と競わせようとしていることも知らなかった。
秀政は、信長に直接尋ねたことで、その疑問を解消した。
一方の光秀は、信長の真意を知らないまま、阿波・讃岐召し上げの可能性を気にかけ続けていた。




