第三百二十八話 九州攻めの先鋒
「面を上げよ」
上座に腰を下ろした信長が、居並ぶ武将たちに声をかけた。
「皆の者、新年を迎えられたこと、まずはめでたく思う」
「ははっ!」
大広間に集まった織田一門や宿老、家老たちが、再び一斉に頭を下げた。
信長は上機嫌だった。
昨年も各地で戦が続いたが、織田家の勢力は着実に拡大していた。
中国方面では羽柴秀吉が因幡の鳥取城を攻略し、毛利家の勢力を後退させている。
北陸では柴田勝家と丹羽長秀が、強大な上杉景勝軍を相手に戦線を維持し、各所で反撃を始めていた。
そして東方では、織田信忠と滝川一益が武田家への圧力を強め、芋粥秀政も南信濃の攻略に成功していた。
「昨年は皆、よう働いてくれた。
筑前は鳥取城を落とし、権六と五郎左も上杉を相手によく踏みとどまった。
勘九郎と左近将監は武田を押さえ、伊勢守も南信濃で見事な働きを見せてくれた」
名を挙げられた武将たちが、それぞれ頭を下げた。
「ははっ!」
「じゃが、まだ天下が平らいだわけではない。
東には武田、北陸には上杉、中国には毛利がおる。
九州にも島津、大友、龍造寺といった大名が割拠しておる」
信長は一同を見渡した。
「天下を平らげるには、まだまだやるべきことが多い。
今年も皆の働きを期待しておるぞ」
「ははっ!」
一同の声が、大広間に響いた。
*
「さて、今年のことじゃ」
信長が切り出すと、大広間の武将たちは改めて姿勢を正した。
「まずは北陸じゃ。権六、五郎左」
「はっ!」
柴田勝家と丹羽長秀が頭を下げた。
「北陸は引き続き両名に任せる。今年こそ越中を平定せよ」
「ははっ! 必ずや!」
勝家が力強く応じ、長秀も深く頭を下げた。
北陸方面軍は、甲相越三国軍事同盟を背景とする強大な上杉軍と戦い続けていた。
かつて手取川の戦いで甚大な損害を受けた柴田・丹羽両軍だったが、その後は兵力と装備の再建を進め、現在では上杉軍と互角に渡り合うまでになっていた。
信長も、その働きを高く評価していた。
「上杉は手強い相手じゃ。
されど、そなたらならば越中を任せられる。頼んだぞ」
「はっ!
上杉の兵を押し返し、必ずや越中を平らげてご覧に入れます!」
「うむ」
信長は満足そうに頷くと、次の武将へ目を向けた。
「筑前」
「ははっ!」
羽柴秀吉が頭を下げた。
「鳥取城の攻略、見事であった。
今年はさらに西へ兵を進めよ」
「ありがたきお言葉にございます!」
「備中へ進出し、毛利を追い詰めるのじゃ。
美作についても支配を固め、後顧の憂いをなくせ」
「ははっ! 必ずや毛利を追い詰めてご覧に入れます!」
秀吉は勢いよく頭を下げた。
鳥取城を攻略したことで、中国方面軍は因幡における毛利家の重要拠点を奪うことに成功していた。
しかし、毛利家は依然として中国地方の広い地域を支配している。
吉川元春と小早川隆景も健在であり、備中へ進出したからといって、簡単に毛利家を滅ぼせるわけではなかった。
信長も、中国攻略にはまだ時間がかかると考えていた。
「毛利は大敵じゃ。
無理に攻め急ぐ必要はないが、着実に領地を奪ってゆけ」
「承知いたしました!」
秀吉は再び頭を下げた。
続いて、信長は東方方面軍の武将たちへ目を向けた。
「勘九郎、左近将監、伊勢守」
「はっ!」
信忠、滝川一益、秀政の三人が頭を下げた。
「今年こそ武田を滅ぼす」
信長の言葉に、大広間の空気が引き締まった。
武田家は南信濃を失い、織田・徳川両家から強い圧力を受けていた。
しかし、勝頼のもとにはまだ多くの将兵が残っている。
武田家を滅ぼすには、残された軍勢と城を攻略しなければならなかった。
「勘九郎を総大将とし、左近将監と伊勢守はこれを助けよ。
信濃方面から攻め込み、徳川とも連携して武田を追い詰めるのじゃ」
「ははっ!」
三人が揃って頭を下げた。
「武田は、もはや以前の勢いを失っておる。
されど、侮ってはならぬ。
勝頼も、ただ黙って滅びを待つ男ではあるまい」
「承知いたしました。
必ずや武田を討ち果たしてご覧に入れます」
信忠が答えると、信長は満足そうに頷いた。
「うむ。期待しておるぞ」
秀政も頭を下げながら、信長の言葉を聞いていた。
(……あれ?)
秀政は、内心で首をかしげた。
(俺は中国方面へ回されるのではなかったか?)
秀政は、東方での戦いが一段落すれば、中国方面軍へ加わることになるかもしれないと考えていた。
羽柴秀吉が毛利家と戦っている以上、増援が必要になるのは明らかだった。
しかも、以前から中国方面への転属の可能性も耳にしている。
ところが、信長は秀政を引き続き東方方面軍の一員として扱い、特別な異動については何も告げなかった。
(……まあ、武田を滅ぼしてからということかもしれんな)
秀政は、そう考えることにした。
信長が今後の軍団配置をどのように考えているのか、現時点では分からない。
それに、年始の評定で示される方針が、すべてとは限らなかった。
信長が何も命じない以上、秀政から尋ねる必要もない。
秀政は、そのまま頭を下げていた。
信長は何事もなかったように、次の話へ移った。
「日向守」
「はっ!」
明智光秀が頭を下げた。
「そなたは引き続き近畿の諸将を束ね、領内の安定に努めよ。
畿内が乱れては、各方面の戦にも差し障る」
「ははっ。承知いたしました」
光秀は深く頭を下げた。
畿内は、織田家の支配を支える重要な地域である。
安土や京に近く、各方面軍への兵糧や物資の輸送にも関わっていた。
各地で戦を続ける織田家にとって、畿内の統治を安定させることは欠かせない仕事だった。
信長は、その役目を引き続き光秀に任せたのである。
しかし、長宗我部家との外交については、何も触れなかった。
光秀は頭を下げたまま、四国についての指示が出るのを待った。
だが、信長はそのまま次の話へ移った。
*
各方面軍への指示が一段落したところで、明智光秀が口を開いた。
「上様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何じゃ、日向守」
「長宗我部元親については、いかが取り計らいましょうか」
信長は、光秀に目を向けた。
「長宗我部には、引き続き毛利を牽制させよ」
「はっ」
光秀は、内心で安堵した。
少なくとも、信長は長宗我部家との関係を維持するつもりらしい。
元親は四国を統一し、毛利家と対抗できるだけの軍勢を持っている。
長宗我部家が毛利家を牽制してくれれば、中国方面軍を率いる羽柴秀吉も戦いやすくなる。
信長が元親を引き続き味方として扱うのであれば、当面は四国で戦が起こる心配もないだろう。
しかし、信長はさらに言葉を続けた。
「ただし、中国攻めに加わる必要はない。
毛利を牽制しつつ、兵を蓄えさせよ」
「兵を、でございますか?」
「うむ。いずれ九州攻めの先鋒として使う」
「……九州攻め、でございますか」
光秀は思わず顔を上げた。
長宗我部元親を九州攻めの先鋒にする。
それは、光秀が以前から懸念していた指示だった。
(九州攻めの先鋒……?
まさか、あの阿波・讃岐召し上げの件か……?)
*
時は少し遡り、天正九年の暮れ。
京でのことである。
光秀は、畿内の政務や四国外交を担当する一方、信長の周辺についても独自に情報を集めていた。
織田家の宿老とはいえ、信長が何を考えているのか、すべてを直接聞けるわけではない。
特に四国政策については、何度尋ねても明確な返答が得られずにいた。
そのため光秀は、信長の周辺でどのような話が出ているのか、間者たちにも探らせていたのである。
ある日、その間者の一人が気になる報告を持ってきた。
「殿。四国について、少々気になる話を耳にいたしました」
「四国じゃと?」
「はっ。村井貞勝様が、ほかの武将方と話しておられたことでございます」
「村井殿が?」
光秀は顔を上げた。
村井貞勝は、信長から京の政務を任されている重臣である。
信長の意向を知る機会も多く、織田家の内情にも通じていた。
その村井が四国について何か話していたというのであれば、聞き流すわけにはいかなかった。
「何を話しておった?」
「はっ。村井様は、上様がいずれ長宗我部家から阿波と讃岐を召し上げるお考えだと仰せになっておりました」
「……何じゃと?」
光秀は眉をひそめた。
間者は、さらに報告を続けた。
「その場におられた武将のお一人が、阿波と讃岐を取り上げるのかと尋ねておられました」
間者が聞き取ったやり取りは、次のようなものだった。
「上様は、いずれ長宗我部から阿波と讃岐を召し上げるお考えらしい」
「阿波と讃岐を、でございますか?」
「うむ。その代わり、九州三か国を与えるという話じゃ」
光秀は、その言葉を繰り返した。
「九州三か国……。
それは、村井殿が確かに話しておったのじゃな?」
「はっ。間違いございませぬ」
「ほかには何か申しておらなんだか?」
「いえ。私が聞き取れたのは、そこまでにございます」
光秀は腕を組んだ。
村井貞勝が話していたのであれば、まったく根拠のない噂とは考えにくい。
しかも、阿波・讃岐を召し上げる代わりに九州三か国を与えるという、具体的な内容まで出ている。
信長が何らかの領地再編を考えている可能性は高かった。
おそらく、四国の領地を減らし、九州に飛び地を与えることで、長宗我部家自体の弱体化も図っていることだろう。
だが、光秀には腑に落ちない点があった。
「……九州三か国とは、どこの国のことじゃ?」
「そこまでは分かりませぬ」
「では、阿波と讃岐をいつ召し上げるのかは?」
「それも、話には出ておりませなんだ」
「そうか……」
光秀は考え込んだ。
九州には、島津、大友、龍造寺といった有力大名が割拠している。
織田家は、まだ九州に領地を持っていない。
その九州三か国を、長宗我部元親に与えるという。
(……いったい、どういうお考えなのだ?)
九州を攻略した後に阿波・讃岐と交換するという意味なのか。
それとも、先に阿波・讃岐を召し上げ、将来の恩賞として九州三か国を与えるという意味なのか。
どちらなのかによって、長宗我部家の受け止め方は大きく変わる。
元親は、自らの力で四国を統一した。
その領地を、まだ手に入れてもいない九州の土地と引き換えに差し出せと言われて、素直に従うとは思えなかった。
特に、九州攻略より先に阿波・讃岐を召し上げられるのであれば、元親は織田家への不信を強めるだろう。
「……村井殿の話であれば、軽々しく扱うわけにはいかぬな」
光秀は呟いた。
とはいえ、村井貞勝が信長から直接聞いた話なのか、それとも別の者から伝え聞いた話なのかも分からない。
何より、肝心の実施時期が不明だった。
「引き続き、四国について何か話があれば知らせよ」
「はっ」
間者が退出すると、光秀はしばらく考え込んでいた。
村井貞勝ほどの重臣が話していた以上、阿波・讃岐召し上げの構想は存在するのかもしれない。
しかし、それがいつ実行されるのかまでは判断できなかった。
光秀は、そのことを気にかけながらも、信長の真意を確かめられずにいたのである。
*
そして、天正十年一月三日。
安土城の大広間。
(……九州攻めの先鋒か)
光秀は、先ほどの信長の言葉を思い返していた。
長宗我部元親に毛利家を牽制させながら、兵を蓄えさせる。
そして、いずれ九州攻めの先鋒として使うという。
(村井殿が話しておられた九州三か国とは、このことか……?)
光秀の中で、二つの話がつながり始めていた。
元親を九州へ向かわせるのであれば、攻略した土地を恩賞として与えることも考えられる。
そのうえで阿波・讃岐を召し上げ、織田家の直轄領、あるいは別の武将の領地とする。
そういう構想なのかもしれなかった。
(……やはり、阿波と讃岐を召し上げるお考えはあるのか)
だが、光秀にはまだ分からないことがあった。
それは、いつ阿波・讃岐を召し上げるのかという点だった。
九州を攻略した後であれば、元親も新たな領地を得たうえでの交換として受け入れる余地がある。
しかし、九州攻略より先に阿波・讃岐を召し上げられるのであれば、話はまったく違ってくる。
長宗我部家は、四国統一のために多くの兵と年月を費やしてきた。
その成果を取り上げられ、代わりにまだ攻略していない九州の土地を約束されても、元親が納得するとは思えなかった。
(……上様は、どちらをお考えなのだ?
毛利が弱体化すれば、上様にとって外様の長宗我部にそこまでの価値があるのか?
長宗我部は、かつて利を求めて毛利を捨てた。
上様はそんな家を信用なさるのか?
この期に及んで、長宗我部に見切りをつけたと考える方が妥当かもしれぬ……)
光秀は信長を見つめた。
今ここで、阿波・讃岐の扱いについて尋ねることもできる。
だが、信長が明らかにしたのは、長宗我部家を九州攻めの先鋒に使うという方針だけだった。
阿波・讃岐の召し上げについては、何も命じていない。
村井貞勝から漏れた話も、正式な命令ではなく、あくまで間者が聞き取ったものである。
光秀は、ひとまず信長の指示を承ることにした。
「承知いたしました。
元親には、そのように申し伝えまする」
「うむ。頼んだぞ」
信長は頷いた。
「では、今年の評定はこれまでとする。皆、それぞれの役目を果たせ」
「ははっ!」
居並ぶ武将たちが、一斉に頭を下げた。
こうして、天正十年の年始評定は終わった。
しかし、光秀の胸には、なお疑問が残っていた。
村井貞勝が話していた阿波・讃岐召し上げの件は、信長の九州攻め構想と関係しているのだろう。
だが、いつ領地を召し上げるつもりなのかは、依然として分からない。
光秀は、長宗我部家との外交を任された者として、そのことを気にかけずにはいられなかった。
評定が終わり、諸将が退出しようとしたところで、信長が秀政を呼び止めた。
「芋。そちは奥の間へ参れ」
「はっ」
秀政は信長に従う。
(伊勢守が上様に呼ばれた?
あの者は宿老の中では領地や序列こそ劣るが、上様の信頼は厚い。
長宗我部に対する秘策を伝える気か?)
光秀は疑心暗鬼に囚われていた。




