第三百二十六話 それぞれの懸念
天正九年十一月。
因幡国、鳥取城。
中国方面軍を率いる羽柴秀吉は、ついに鳥取城を攻略した。
史実より一か月ほど遅れての落城となった。
鳥取城は、毛利方にとって因幡支配の重要な拠点だった。
毛利家は城を守るために吉川経家を送り込み、織田軍の攻撃に備えていた。
しかし、秀吉は力攻めを選ばなかった。
城を包囲して外部からの兵糧搬入を断ち、城内の食糧が尽きるのを待ったのである。
この作戦を支えたのが、黒田官兵衛や宮部継潤らだった。
官兵衛は城の包囲と兵糧遮断の策を練り、宮部継潤は因幡の地理や国人たちの動向を把握し、毛利方からの救援や兵糧搬入を防ぐために働いた。
鳥取城は粘り強く抵抗したものの、外部からの補給を断たれたことで、次第に食糧が不足していった。
城内では飢えに苦しむ者が続出し、ついには籠城を続けることが困難になった。
こうして鳥取城は開城したのである。
*
「いやぁ、ようやく落ちたわ!」
秀吉は陣中で報告を受けると、満足そうに頷いた。
「官兵衛、継潤。二人とも、よう働いてくれた!」
「はっ。殿の御采配にございます」
官兵衛が頭を下げると、宮部継潤も続いた。
「これで因幡における毛利方の大きな拠点を一つ失わせることができました」
「うむ。だが、思ったより時間がかかったのう」
秀吉は地図に目を落とした。
「城を囲んで兵糧を断てば、いずれ落ちる。
それは分かっておったが、随分と粘りおった」
「吉川経家は、なかなかの将にございましたからな」
官兵衛が答えた。
「城内の兵糧が尽きるまで抵抗を続けたのも、毛利方からの救援を期待していたためでございましょう」
「そうじゃろうな」
秀吉は頷いた。
「しかし、城一つ落とすのにこれほど手間取っておっては、中国を平らげるまで何年かかるか分からんわ」
鳥取城を攻略したとはいえ、中国地方の戦況が一気に好転したわけではなかった。
毛利家は、いまだに大きな勢力を維持している。
当主の毛利輝元は健在であり、これを支える小早川隆景と吉川元春も、織田家に対抗するため各地で軍勢を動かしていた。
なかでも厄介なのは、毛利家が長年にわたって中国地方に築いてきた支配体制である。
各地の国人や城主たちは毛利家との結びつきが強く、織田軍が進出したからといって、簡単に寝返るわけではなかった。
「毛利は、まだまだ兵を出せるからのう」
秀吉が呟くと、官兵衛も頷いた。
「はい。鳥取城を失ったとはいえ、毛利家の本領にはほとんど手をつけておりませぬ。
吉川元春、小早川隆景の両名も健在にございます」
「うむ。あの二人が揃っておる限り、毛利も簡単には崩れまい」
「それに、備前と美作にも懸念がございます」
官兵衛は地図の南側を指さした。
「宇喜多直家殿のことでございます」
「……ああ、直家か」
秀吉は顔をしかめた。
備前・美作では、これまで織田方との協調を進めていた宇喜多直家が重い病に伏していた。
直家が政務を執ることも難しくなり、宇喜多家の先行きに不安が生じていた。
直家は、備前を中心に勢力を築き上げた有力大名である。
かつては毛利家と結んでいたが、情勢の変化を見て織田方へ接近し、中国方面軍の進出を支えていた。
「直家は抜け目のない男だからのう。
あ奴が健在であれば、備前のことはある程度任せられるのじゃが……」
「はい。直家殿は病が重く、以前のように家中を取り仕切ることも難しいとのこと。
いずれは幼い八郎殿が家督を継がれることになりますが、家臣たちが支えるとはいえ、直家殿ほどの統率力を期待するのは難しいかと」
「毛利も、その隙を見逃すまいな」
「御意。宇喜多家中の者たちに働きかけ、再び毛利方へ引き戻そうとする可能性もございます」
秀吉は腕を組んだ。
宇喜多家が織田方にとどまれば、備前から毛利領へ攻め込むことができる。
だが、宇喜多家が揺らげば、織田軍は背後を脅かされることになる。
鳥取城を落としたからといって、安心できる状況ではなかった。
「……官兵衛。宇喜多家への目配りは怠るなよ」
「はっ。八郎殿と家臣たちが織田方から離れぬよう、十分に手を打ってまいります」
「頼むぞ」
秀吉は再び地図を見つめた。
因幡では鳥取城を攻略した。
しかし、伯耆にはなお毛利方の勢力が残り、山陽方面でも毛利家との戦いが続いている。
これからさらに西へ進むとなれば、敵の城も増える。
補給路も長くなり、兵糧や武具を運ぶ負担も大きくなる。
しかも、毛利家には吉川元春と小早川隆景という有力な将がいる。
鳥取城と同じように兵糧攻めを仕掛けたところで、すべての城が簡単に落ちるとは限らなかった。
「……やはり、兵が足りぬのう」
秀吉は呟いた。
官兵衛が顔を上げた。
「殿。上様に増援を願い出られますか?」
「うむ。鳥取城を落としたことは、すぐに報告せねばならん。
それと併せて、今後の戦についても申し上げておこう」
「それがよろしいかと存じます」
「ただ、上様も各地で戦を進めておられるからのう」
秀吉は苦笑した。
北陸では柴田勝家と丹羽長秀が上杉家と戦っている。
東方では武田家との戦いが続いている。
畿内や四国についても、織田家には処理すべき問題が残っていた。
いかに織田家の国力が大きくなったとはいえ、すべての方面へ無制限に兵を送り込めるわけではない。
「まあ、上様もお考えがあろう。
まずは鳥取城攻略の報告じゃ」
「はっ」
官兵衛が頭を下げた。
秀吉は文机に向かい、信長への書状をしたため始めた。
鳥取城攻略の報告と、今後の中国攻めに必要な兵力についてである。
このとき秀吉は、信長が東方の戦いを終えた後の軍団再配置を考えていることまでは知らなかった。
信長の構想では、武田家を滅ぼした後、東方遠征軍の一部を中国方面へ振り向けることも検討されていた。
その候補となっていたのが、伊勢太守の芋粥秀政である。
秀政が中国方面へ加われば、羽柴軍団は大幅に戦力を増強できる。
しかし、その人事はまだ正式に決まったものではなかった。
秀吉はそのような構想があることも知らず、目の前の毛利家をどう攻略するかに頭を悩ませていた。
*
一方、畿内。
明智光秀は、畿内の政務と四国方面の外交に追われていた。
光秀は織田家の宿老として、畿内の諸将との連絡や領地の統治に携わる一方、長宗我部元親との交渉も担当していた。
長宗我部家との外交は、光秀が長期にわたって取り組んできた重要な仕事である。
かつて長宗我部家は毛利家と結び、織田家に敵対する立場にあった。
しかし、芋粥家と長宗我部家の度重なる対決が背景にあったとはいえ、最終的に長宗我部家を織田方へ引き入れることに成功したのは光秀だった。
ところが、その四国政策に変化が生じようとしていた。
信長が、長宗我部家の領地を再編しようとしているという噂が広がり始めていたのである。
長宗我部元親は、すでに阿波・讃岐を含む四国全土を支配している。
もし織田家が阿波・讃岐の割譲を要求すれば、元親が反発することは避けられない。
光秀は、そのことを誰よりも理解していた。
*
「……また、お返事はいただけぬか」
光秀は、信長のもとから戻ってきた家臣の報告を聞き、顔をしかめた。
「はっ。上様は、四国の件については追って沙汰すると仰せにございました」
「追って、か……」
光秀は机上の書状に目を落とした。
長宗我部家との交渉について、信長に判断を仰いだのは今回が初めてではない。
しかし、信長からは明確な方針が示されていなかった。
「上様は、ほかに何か仰せであったか?」
「いえ。ただ、今は中国や東国のことが先であると」
「そうか。下がってよい」
「はっ」
家臣が退出すると、光秀は書状を手に取った。
信長が多忙であることは、光秀も理解していた。
北陸では柴田勝家と丹羽長秀が上杉家と戦っている。
中国方面では羽柴秀吉が毛利家の攻略を進めている。
そして東国では、武田家との戦いがいよいよ大詰めを迎えようとしていた。
信長にとって、今すぐ四国の領地を再編する必要はない。
長宗我部家は織田方に属しており、元親も現時点では信長に敵対する姿勢を見せていない。
武田家を滅ぼし、中国方面の戦況が落ち着いてから四国政策を決めても、遅くはないと考えているのである。
だが、光秀にとっては、それで済む話ではなかった。
「……元親殿に、何と申し上げればよいのだ」
光秀は小さく呟いた。
長宗我部元親は、四国の支配に強いこだわりを持っている。
自力で四国を統一したのだ。
しかも、織田に十分抵抗できる力を持っていたにもかかわらず、光秀は元親を説得して織田方へ引き入れた。
織田家に従えば、四国における長宗我部家の支配を認めてもらえる。
その約定があったからこそ、元親は毛利家との関係を改め、織田方へ転じた。
ところが、ここへ来て信長が阿波・讃岐の召し上げを考えているという。
光秀自身も、信長の真意を確かめたわけではない。
あくまで噂であり、正式な命令が下されたわけでもなかった。
しかし、もし噂が事実であれば、長宗我部家との関係は根底から揺らぐ。
元親が素直に領地を差し出すとは思えなかった。
すでに四国を統一した元親にとって、阿波・讃岐は自ら勝ち取った領地である。
それを織田家の都合で取り上げられるとなれば、反発するのは当然だった。
しかも、長宗我部家を織田方へ引き入れたのは光秀自身である。
元親からすれば、約定を取りまとめた光秀にも責任がある。
「……困ったことになったものよ」
光秀は書状を置いた。
仮に信長が阿波・讃岐の召し上げを命じた場合、光秀はその意向を元親に伝えなければならない。
しかし、元親が拒絶すればどうなるか。
織田家と長宗我部家の関係は破綻し、再び戦になる可能性が高い。
そうなれば、これまで積み重ねてきた外交努力は無駄になる。
さらに、光秀自身も元親から約定を破った人物として恨まれることになるだろう。
かといって、信長の命令に逆らうことなどできない。
光秀は織田家の宿老であり、信長に仕える武将である。
上様が決めたことには従わねばならない。
それは当然のことだった。
ただ、決定が下される前であれば、意見を申し上げることはできる。
光秀は、もう一度信長に四国政策について確認するつもりでいた。
できることなら、長宗我部家との約定を守ってもらいたい。
もし領地の再編が必要だというのであれば、元親が納得できる条件を整えてから進めてもらいたかった。
だが、信長は四国の問題について、なかなか結論を示そうとしない。
光秀には、その理由も分かっていた。
武田家との戦いが終われば、織田家の軍勢をほかの方面へ振り向けられる。
中国方面の毛利家も、いずれは討伐しなければならない。
四国政策について考えるのは、その後でもよい。
信長にとっては、そういう判断なのだろう。
一方で、光秀は長宗我部家との外交を任されている。
元親から問い合わせがあれば、何らかの返答をしなければならない。
上様の御意向が分からぬままでは、約束を守るとも、改めるとも答えられなかった。
「……せめて、今後のお考えだけでも聞かせていただければよいのだが」
光秀はため息をついた。
信長への忠誠が揺らいでいるわけではない。
織田家が天下を統一するためには、各地の大名や国人たちを従わせ、必要に応じて領地を再編することもある。
光秀自身、それは理解していた。
だが、今回の四国政策については、自分が長年にわたって責任を持って進めてきた外交に関わる問題だった。
信長の判断一つで、これまでの約定が覆されるかもしれない。
しかも、いつ、どのような決定が下されるのかも分からない。
光秀は、再び長宗我部家からの書状を読み返した。
今はまだ、元親も織田家との関係を維持しようとしている。
しかし、この状態がいつまで続くかは分からなかった。
「……もう一度、上様にお伺いを立てねばならぬな」
光秀はそう呟き、信長に宛てた書状を用意させた。
このときの光秀は、信長に謀反を起こすことなど考えていなかった。
ただ、自分が取りまとめた長宗我部家との約定が、信長の判断によって覆されることを恐れていたのである。




