第三百二十五話 御館の乱なき北陸
天正九年十月。
越中国。
織田家北陸方面軍の陣中。
柴田勝家と丹羽長秀は、越中において上杉軍との戦いを続けていた。
その戦況は、決して楽観できるものではなかった。
史実より一年早く、天正四年に起きた手取川の戦い。
柴田・丹羽軍団は、上杉謙信の率いる軍勢に大敗を喫した。
その損害は、史実の手取川の戦いと比較しても倍以上に達していた。
多くの兵を失い、武具や軍馬も大量に失った。
なかでも深刻だったのは、長年の戦を経験してきた熟練兵の損失である。
新たに兵を集めることはできる。
銭を投じれば、武具も揃えられる。
しかし、実戦経験を積んだ兵や、部隊をまとめられる古参の組頭、足軽大将は、そう簡単には補充できない。
柴田・丹羽軍団は、その再建に長い時間を費やすことになった。
もっとも、織田家の国力はすでに大きくなっていた。
芋粥秀政という異物の存在によって歴史は変わり、織田家全体の経済力と軍事力は、史実の同時期を上回っていた。
北陸方面軍を率いる柴田・丹羽も、織田家の豊かな国力を背景に、手取川で失った戦力を少しずつ取り戻していたのである。
だが、敵である上杉家もまた、史実とは大きく異なっていた。
手取川で織田軍を破った上杉謙信は、その後も加賀方面への進出を続けた。
しかし、柴田・丹羽軍団も一方的に敗れ続けたわけではない。
大聖寺城を巡る戦いで、織田軍は大量の鉄砲を投入し、上杉軍に猛烈な反撃を加えたのである。
後に『大聖寺城地獄返し』と呼ばれる戦いだった。
手取川で大敗した織田軍が、今度は鉄砲の集中運用によって上杉軍に大きな損害を与えた。
この戦いでは、上杉景虎も戦死している。
景虎は上杉謙信の養子であり、もう一人の養子である上杉景勝と並んで、謙信の後継者候補と目されていた人物だった。
その景虎が戦死したことで、上杉家の運命は大きく変わった。
史実では、謙信の死後、景勝と景虎が家督を争い、御館の乱と呼ばれる内乱が起こっている。
しかし、この世界では景虎が先に戦死していた。
天正六年に謙信が亡くなると、上杉家の家督は景勝が継承した。
家中に不満がまったくなかったわけではないが、景虎という有力な対抗候補が存在しない以上、大規模な家督争いには発展しなかった。
しかも、上杉家の諸将には共通の敵がいた。
柴田勝家と丹羽長秀である。
景虎を討った織田軍に対する恨みは強く、上杉家の諸将は景勝の下で一致団結していた。
謙信の死によって軍神と呼ばれた名将を失ったものの、上杉軍の戦力は大きく損なわれなかった。
むしろ、御館の乱による家臣同士の殺し合いがなかった分、熟練兵や有力武将が数多く残っていた。
そのため、越中における織田軍の進撃は、史実よりもはるかに難しいものとなっていた。
*
「……また押し返されたか」
柴田勝家は、届いた報告を聞いて顔をしかめた。
「はっ。敵は山間の道を押さえ、こちらの進軍を阻んでおります。
無理に攻めれば、損害が増えるばかりかと」
「ちっ……。上杉め、しぶとい連中よ」
勝家は吐き捨てるように言った。
傍らにいた丹羽長秀が、地図を見ながら口を開いた。
「さすがは軍神と呼ばれた謙信公が遺した将兵よ。
そう簡単には崩れぬな」
「うむ。それに景勝という男も、なかなかの器量よ」
勝家は腕を組んだ。
「謙信が死ねば、上杉も多少は弱ると思っておったが、甘かったわ。
景勝め、軍勢の扱いは謙信にも負けておらぬ」
「それに、奴らは大聖寺のことを忘れておらぬ」
長秀が言った。
「景虎を討たれた恨みか」
「うむ。あの戦では、我らも上杉に相当な痛手を与えた。
だが、景虎を失ったことで、かえって我らへの敵愾心が強まったようだ」
「厄介な話よ」
勝家は苦々しく言った。
「こちらは手取川で古参の兵を大量に失った。
兵の数こそ戻ったが、まだ以前ほどには動けぬ部隊も多い」
「新兵を鍛えるにも、戦を経験させねばならぬ。
だが、上杉相手に下手な戦をすれば、また兵を失う」
「まったくだ」
長秀も頷いた。
「それでも、以前に比べれば随分と持ち直した。
こちらの城々も整備が進んでおる」
「うむ。あとは上杉の守りをどう崩すかだ」
二人が地図を眺めていると、陣幕の外から声がした。
「申し上げます!」
「何だ?」
「伊勢守様より、柴田様、丹羽様宛てに、各々鉄砲百挺が届きました!」
「おおっ!」
勝家は顔を上げた。
「芋からか!」
「はっ! 火薬も併せて届けられております!」
「そうか! ようやく来おったか!」
勝家は上機嫌になった。
しかし、使者は少し言いにくそうに続けた。
「ただし……一挺につき十一貫文を求めておられます」
「十一貫?」
長秀が眉を上げた。
当時、鉄砲の値段は品質や大きさによって大きく異なった。
それでも、一挺十一貫文となれば、決して安い買い物ではない。
百挺で千百貫文。
火薬や弾丸も含めれば、相当な出費になる。
ところが勝家は、まったく気にした様子を見せなかった。
「かまわん! すぐに銭を用意せよ!」
「はっ!」
「芋の用意する種子島は、南蛮製の高級品じゃ。
十一貫でも安いわ!」
長秀も同様だ。
「うむ、それがしもすぐに銭を用意させます。
毎度のことながら、伊勢守殿には助けられますな」
勝家と長秀は満足そうに頷いた。
「それに、あ奴は銭にうるさい割には、織田家のためとなれば私欲を捨てる男よ。
十一貫であれば、ほぼ相場じゃ。
火薬は入手しにくいにも関わらず、安く回してくれる。
それでいて、わざわざ北陸まで届けてくれるのだからな!」
「……左様でございますな」
長秀も頷いた。
秀政は普段から銭勘定に厳しく、何かにつけて利益を求める男である。
だが、北陸方面軍が苦戦していると知れば、こうして鉄砲や火薬を融通してくれる。
それも、戦場で使える良質な品ばかりだった。
「よし。早速、鉄砲隊へ回せ!
伊勢守には後で礼の文を届けさせる。
また、よろしく頼むと伝えてくれ」
使者は頭を下げて退出した。
勝家は居並ぶ家臣たちを見渡した。
「上杉の連中に、もう一度大聖寺の地獄を見せてやるわ!」
「はっ!」
勝家の言葉に、周囲の将兵が威勢よく応じた。
長秀は地図へ視線を戻した。
「権六殿。鉄砲が増えたからといって、無理攻めは禁物だぞ」
勝家は鼻を鳴らした。
「手取川の二の舞いなど、御免だからな」
上杉軍は強い。
それは、勝家も長秀も嫌というほど理解していた。
謙信はすでに亡くなったが、その遺した将兵は健在である。
その軍勢を率いる上杉景勝も、容易ならざる相手だった。
だが、織田軍もまた、かつての織田軍ではない。
国力を背景に兵を補充し、武具を整え、鉄砲を増やしている。
手取川の大敗から立ち直るため、何年もの歳月を費やしてきたのである。
勝家は改めて越中の地図を見つめた。
「……上杉景勝め。
いつまでも好きにはさせぬぞ」
越中の戦いは、まだ終わりそうになかった。
*
一方、数日後の伊勢。
鈴鹿館の奥の間では、秀政はお悠から新たに軍備に必要な費用の説明を受けていた。
そこへ、北陸からの使者が柴田勝家と丹羽長秀の書状を届ける。
書状を受け取り、使者を労って退出させると、笑顔でお悠の方を見た。
「権六殿と五郎左殿はまことによい客じゃ!」
お悠は少し呆れた顔で答えた。
「まるで商人のようなことを仰いますね。
お二方は何と?」
「種子島の礼と、今後半年の内に各々三百挺を追加で欲しいそうだ。
南蛮大砲も各々一門欲しいとある。
また、儲かりそうじゃな」
「確かロレンソ様からは一挺七貫で仕入れているのでしたか?」
「そうだ。相場で言うと十一貫ほどの上物種子島を七貫で卸してくれる。
奴は俺に惚れているからな。
いや、俺の薬味貿易に忠誠を誓っているかもしれんな、ははは」
「まぁ……ふふふ。ロレンソ様であればありそうですね」
秀政は上機嫌で頷いた。
「ロレンソの種子島七貫を十一貫で売るだけで、一挺につき四貫の儲けじゃ。百挺なら四百貫になる」
「火薬と鉛弾も合わせれば、輸送費を抜いても、さらに五十貫ほどの利益が出ます」
「うむ。合わせて四百五十貫か。お二方で九百貫とは、ありがたいことよ」
秀政は満足そうに笑った。
「しかも権六殿、五郎左殿は、まだまだ欲しいと仰せじゃ。
まことに上客よな!」
「はい、この儲けを白鬼の軍備に回してもよろしいでしょうか?」
お悠は帳簿に目を落とした。
「うむ、そのためにやっておるのだ」
お悠はにこりと笑った後、柴田勝家からの文に目を通した。
「柴田様からは、北陸の戦のために相場で武器を融通してくださること、たいそう感謝しているとのお言葉も届いております」
「そうだったそうだった。これは儲けのためではない。
織田家のため、権六殿のためじゃ。
お役に立てて何より!」
「…………」
「どうした?」
「いえ。弥八様は、本当に商売がお上手でございますね」
「何を言う。俺は相場で売っておるだけじゃぞ?」




