第三百二十三話 不穏な噂
藤林源兵衛宗久が芋粥家の忍び頭を引き継いでから、数か月が過ぎた。
その効果は、早くも現れ始めていた。
浅野清隆が忍び頭を務めていた頃と同じように、甲斐や信濃だけでなく、北陸、中国、畿内など、各方面からの情報が鈴鹿館へ集まるようになったのである。
宗久は秀政が命じる前から各地へ忍びを配置し、織田家の諸将や周辺大名の動きを調べさせていた。
綾芽が忍び頭を兼ねていた頃には手が回らなかった地域にも、再び目が届くようになっていた。
天正九年十月。
伊勢国・鈴鹿館、奥の間。
南信濃戦役後、芋粥家では兵や家臣の増加に伴い、家中の規律を改めて整えることになっていた。
この日、秀政は神崎友清を呼び寄せ、家中法度の草案について協議していた。
「友清、第三条が少々粗くないか?」
「御意。
ここは確かに解釈の抜け道がございます。
都合よく解釈し、勝手な振る舞いに及ぶ者もおりましょう。
持ち帰って改めて練り直します」
「うむ。それを言うなら第四条も……」
二人が意見を交わしていると、藤林が姿を現した。
「殿」
「ん? 宗久、どうした?」
「お伝えしたいことが」
「それでは、殿。
拙者はここで」
「待て、友清。
宗久、どのような内容だ?」
「当家を取り巻く情勢についてでございます」
「それならばよい。
友清、そこで聞いておれ。
まだ法度について話がしたい。
それに政親は当家の外交を担っている。
情勢に関わる話なら、お前も聞いて政親に伝えてやれ」
「御意」
「宗久、続けよ」
「はい。
少々、きな臭い話を耳にいたしました」
「何だ?」
「上様の御意向についてでございます」
「……殿の?」
秀政は顔を上げた。
「お前……まさか、殿の周りまで探っておるのか?」
「はい。抜かりなく」
藤林は平然と答えた。
「おいおい、大丈夫か?」
秀政は思わず眉をひそめた。
「殿に見つかったらどうなると思っておる。
下手をすれば、謀反の疑いを掛けられるぞ」
「承知しておりまする」
「ならば……」
「ですが殿。
この乱世、たとえ主筋であろうと、油断はできませぬ」
藤林は落ち着いた口調で続けた。
「上様の御意向一つで、芋粥家の行く末が大きく変わることもございましょう。
であれば、そのお考えを事前に知っておくことも、忍び頭の務めにございます」
「……それはそうだが」
「御安心くださいませ。
上様の周囲には、伊賀でも最高峰の腕を持つ者を差し向けております」
「腕が立てばよいというものでもあるまい」
「無論にございます。
決して無理な探りは入れておりませぬ」
藤林は頷いた。
「上様の居所へ忍び込むような真似はいたしませぬ。
周囲の者の動きや、諸将とのやり取りなどから、御意向を探っているだけにございます」
「それでも危険ではないか?」
「御心配には及びませぬ。
万一、疑われるようなことがあれば、即座に手を引くよう命じております」
秀政はしばらく藤林を見ていた。
浅野清隆も、秀政の知らぬところで様々な情報を集めていた。
その後任として迎えた宗久も、どうやら同じ考えらしい。
主君が何を知りたがるかだけでなく、何を知らねばならないかまで考えている。
(……なるほど。綾芽が推すだけのことはあるな)
秀政は小さく息を吐いた。
「そうか……。だが、くれぐれも気を付けてくれよ」
「はっ。心得ておりまする」
「で、きな臭いとは?」
秀政が話を戻した。
「はい。まず武田のことでございますが、おそらく翌年中には滅びましょう」
「ほぉ。お前もそう思うか?」
秀政は少し驚いた。
自分は史実を知っているからこそ、武田家の滅亡が近いと考えていた。
だが、宗久は史実など知らない。
各地から集めた情報を分析し、同じ結論に達したということになる。
「はい。堤が決壊するのと同じにございます。
今の武田は、なお立派な堤を持っております。
ですが、すでにあちこちにひびが入っている状態。
一か所でも崩れれば、そこから一気に決壊いたしましょう。
どれほど立派な堤であろうと、小さな綻び一つから、あっという間に崩れ去ることもございます」
「なるほどな」
秀政は頷いた。
「まあ、そうだろうな。俺の考えとも一致する。
だが、それがどうきな臭い話につながる?」
「はい。来年には、殿が東方遠征軍から外されるという噂がございます」
「ほう?」
「中将様と左近将監殿だけで、このまま武田攻めの仕上げをなされるとのことにございます」
秀政は少し考えた。
確かに武田家が弱体化している今、信忠と滝川だけでも甲信攻略は十分に可能だろう。
それに、芋粥家は南信濃戦役で大きな損害を受けたばかりである。
(……ありそうだな)
信長が自分を別の戦場へ回すとしても、不思議ではない。
「では、俺はどうなる?」
「はい。現在、中国地方では、羽柴殿が備前、美作方面を整理しております。
長宗我部が織田に寝返ったため、毛利に対する圧力は増大しておりますが、兵站や調略を優先しているため、まだまだ時間はかかります。
そこで、殿は羽柴殿の増援として、中国攻めの副将に任じられるとの見立てが濃厚にございます」
それまで黙って聞いていた神崎が、わずかに顔を上げた。
「……秀吉の与力か」
秀政は思わず笑った。
「遠回りして、ようやく与力になったか」
若い頃、まだ互いに大した身分でもなかった時分のことを思い出したのである。
秀吉とは、いずれは与力となり、褒美として百二十万石の領地を貰う約束をした。
それから二十年足らずが過ぎた。
秀吉は羽柴筑前守として中国方面を任され、自分も伊勢太守として織田家の宿老に列している。
まさか、こんな形で昔の話が現実になるとは思わなかった。
「まあ、厳密には与力ではなく、増援ではあるがな」
秀政は笑いながら付け加えた。
宗久もわずかに笑みを浮かべたが、すぐに表情を戻した。
「……ん?」
秀政は、ふと疑問を覚えた。
「そうなると、明智殿はどうなる?」
史実では、翌天正十年に中国攻めの増援に回されるのは、明智光秀だったはずだ。
自分が中国方面へ回されるのであれば、光秀にも別の何らかの役目が与えられるはずである。
神崎も宗久へ視線を向けた。
「……まさに、そのことでございます」
宗久の表情が引き締まった。
「日向守殿の周囲に、きな臭い噂が出てまいりました」
「……何だと?」
秀政は思わず身を乗り出した。
明智日向守光秀。
その名を聞いた瞬間、秀政の脳裏に一つの出来事が浮かんだ。
本能寺の変。
史実では翌年、天正十年六月に起こる事件である。
だが、この世界ではすでに多くの歴史が変わっていた。
四国の情勢も、中国方面の戦況も、史実とは異なる。
光秀の置かれた立場も、当然変わっているはずだった。
それでも、光秀の周囲に不穏な噂が生じているという。
(……歴史は変えられない)
秀政は宗久を見つめた。
(そういうことなのか?)
「その噂とは?」
秀政は宗久に尋ねた。
「実は、日向守殿が上様に不信感を抱いておられるようなのでございます」
「……不信感、だと?」
「はい。ただし、これは噂というわけではございませぬ」
宗久は説明を続けた。
「日向守殿が表立って上様への不満を口にされたわけではございませぬ。
ですが、最近の御様子から、何やら思うところがあるのではないかと、我らの忍びが報告してまいりました」
「……忍びの見立てか」
「はい。長く人の様子を探ってきた者の直感にございます。
確証があるわけではございませぬが、無視できぬと判断いたしました」
「なるほど。それで?」
「ここからが噂にございます」
宗久は一度言葉を切った。
「四国のことでございます」
「四国? 長宗我部か?」
「はい」
宗久は頷いた。
「今の織田家を取り巻く情勢は、ようやく安定してまいりました」
「うむ」
「北陸では、上杉を相手に我が方の軍勢が優勢に戦を進めております。
武田については、先ほど申し上げた通り、中将様が仕上げられましょう」
「そうだな」
「中国では、羽柴殿が毛利に対して攻勢に転じておられます。
長宗我部が織田方についたことで、毛利への圧力も増しております」
宗久は続けた。
「いまさら長宗我部が反織田に回ったとしても、力を整えた織田にとって、以前ほど脅威にはならないでしょう。
つまり、長宗我部に気を遣う必要がなくなってきたのでございます」
「……それで?」
「上様が、長宗我部との約定を反故になさろうとしているという噂がございます」
「……何だと?」
秀政の表情が変わった。
長宗我部元親が織田方についたのは、明智光秀の働きかけによるものである。
その際、織田家と長宗我部家の間では、四国の領地について一定の約定が交わされていた。
もし信長がそれを一方的に覆そうとしているのであれば、元親が反発するのは当然だった。
そして、両者の間を取り持ってきた光秀も、難しい立場に追い込まれることになる。
「……明智殿の顔に泥を塗るか」
秀政は思わず呟いた。
すると、それまで黙っていた神崎が口を開いた。
「殿。日向守殿は、長宗我部との約定を取りまとめた御方にございます。
その約定を覆されるとなれば、長宗我部からの信頼も失いかねませぬ」
「……そうだな」
「日向守殿も、相当に苦慮しておられることでしょう」
秀政は頷いた。
「まったくだ。明智殿も難しい立場になったものだな」




