第三百二十二話 忍び頭の後継者
一方、伊勢国・鈴鹿館。
天正九年七月。
秀政は執務の合間に藤林を呼び出した。
「藤林源兵衛、おるか?」
「はっ!」
声とともに、藤林が音もなく姿を現した。
「信濃の様子はどうだ?」
「織田勢が着実に武田領へ攻め入っておりまする」
「ほう。詳しく聞かせよ」
「中将様の軍勢は美濃方面から武田領へ圧力を掛け続けております。
左近将監殿は国境の小城や砦を狙い、着実に支配地を広げておられるとのこと」
「武田は反撃せぬのか?」
「小勢による反撃はございますが、大軍を動かす様子はございませぬ。
左近将監殿も深入りは避け、武田方が兵を集めれば一旦退き、別の場所を狙っておられます」
「なるほど。滝川殿らしい戦い方だな」
「さらに、武田方の国人にも調略を仕掛けております。
高天神城の落城以来、武田への忠誠が揺らいでいる者も多く、すでに幾つかの国人衆が内応を申し出ているようでございます」
「それは大きいな」
「はい。もっとも、武田方の報復を恐れ、まだ表立って旗を変える者は少ないようですが」
「構わん。今は国人どもに、武田は頼りにならぬと思わせるだけで十分だ」
秀政は頷いた。
「長政はどうしておる?」
「南信濃の守りを固めております。
武田方の動きに合わせて兵を出すことはございますが、大きな戦には至っておりませぬ」
「うむ。それでよい」
長政が南信濃で武田を牽制し、その間に信忠と滝川が国境を侵していく。
勝頼はどちらか一方へ兵を集中させることができず、少しずつ領地と国人の信頼を失っている。
(……来年か)
秀政は史実を思い出した。
武田家が滅亡するのは天正十年。
すでに歴史は大きく変わっているが、武田が置かれた状況は、史実の末期に近づきつつあった。
(このままなら、武田は俺の知る史実通り、来年滅ぶやもしれんな)
だが、だからといって芋粥家が無理に戦功を求める必要はない。
南信濃戦役で失った鬼兵は、まだ再建の途中である。
甲信の領地は褒美としても望んでいない。
信長が滝川に与えるというなら、それでよい。
「源兵衛」
「はっ」
「長政に伝えよ。
功を焦るな。
我らは武田を牽制するだけでよい」
「はっ」
「甲信や関東で新たな功を挙げる必要はない。
武田を攻めるのは中将様と滝川殿に任せておけ」
秀政はさらに念を押した。
「戦は小競り合いまでにせよ。
攻められれば撃退して構わんが、深追いはするな。
城を一つ二つ取るために兵を失うなど、もってのほかだ」
「承知いたしました」
「南信濃では、あれだけの犠牲を出したばかりだ。
今は兵を休ませ、鍛え直すことを優先せよ。
そう伝えてくれ」
「はっ! 確かにお伝えいたしまする」
藤林は深く頭を下げた。
*
この藤林源兵衛宗久は、新たに芋粥家の忍び頭として伊賀より迎えられた男である。
時は少し遡る。
天正九年四月。
鈴鹿館の渡り廊下を、秀政とお悠が並んで歩いていた。
二人は政務を終え、奥の間へ戻るところだった。
「南伊勢の開墾も、そろそろ限界に近づいてきたか?」
秀政が尋ねると、お悠は頷いた。
「はい。南伊勢も随分と米が取れるようになりました。
もっとも、あちらは山が多うございます。
これ以上田畑を広げるには、相応の手間と銭が掛かりましょう」
「そうか。まあ、無理に田畑を増やす必要もないな」
「はい。ですので、今度は山を上手く利用できないかと考えております」
「山は銭を産むからな」
秀政は笑った。
「材木もある。炭も焼ける。椎茸だって作れる。
山菜や薬草もあるしな」
「そうした産物の生産を増やせれば、田畑の少ない村にも稼ぎが生まれまする」
「うむ。南伊勢は山が多いからこそ、山を活かす方がよかろう」
そんな話をしながら廊下を進んでいると、途中の一室で書付に目を通している綾芽の姿が見えた。
「お、綾芽。ちょうどよいところに」
声を掛けられた綾芽が顔を上げた。
「殿、奥方様。いかがなされました?」
「甲斐の様子を聞いておこうと思ってな。
勝頼はどうしておる?」
「はい。南信濃戦役での損害が大きく、武田方は兵の立て直しに追われております。
特に赤備えの損耗が深刻で、以前のような軍勢を整えるには、まだ時間が掛かるとのことにございます」
「そうか。国人どもの動きは?」
「今のところ、大きな離反はございませぬ。
ただ、武田方の諸城では兵の補充が進まず、守備を固めることに苦心しているようでございます」
「うむ。越中は?」
「……越中、でございますか?」
綾芽の表情が変わった。
「はい。申し訳ありませぬ。
そちらへの手配が漏れておりました。
すぐに忍びを向かわせまする」
「そうか。頼むぞ」
秀政は頷いた。
「それと、実は一番気にしているのは中国だ。
秀吉は上手くやっておるかな?」
「中国方面……」
綾芽は言葉に詰まった。
「重ね重ね申し訳ありませぬ。
そちらにも忍びを手配いたします」
「……ああ」
秀政はそれ以上、何も言わなかった。
だが、内心では困っていた。
浅野清隆が亡くなった弊害が、ここにも出ていたのである。
清隆が忍びを統括していた頃は、秀政が何かを尋ねれば、たいてい必要な情報が揃っていた。
甲斐の情勢を聞けば、信濃や駿河の動きも報告される。
越中の情勢が変わりそうであれば、先回りして忍びを送り込んでいる。
中国方面で織田軍が動けば、秀政が命じる前から情報を集め始めていた。
清隆は、秀政が次に何を知りたがるかを考え、一手、二手先に忍びを手配していたのである。
それが今はできていない。
現在、忍び頭の任を引き受けているのは綾芽だった。
綾芽は清隆の娘であり、忍びとしての腕も確かである。
しかも、浅野家には清隆の三男である三郎兵衛がいる。
三郎兵衛は武家浅野家の嫡男として育てられており、綾芽は、いずれ弟が成長した時に忍び頭の任を引き継がせたいと考えていた。
それまで自分が中継ぎを務める。
そのつもりで、父の死後、忍び頭の任を買って出たのだった。
しかし、綾芽には白鬼の指揮という本来の役目がある。
しかも白鬼は、つい先日、大幅に増員されたばかりだった。
新たに召し抱えた伊賀の女子たちを選別し、鍛え、部隊としてまとめ上げなければならない。
従来の白鬼を指揮するだけでも大変だったところへ、さらに多くの仕事が増えている。
そのうえ、綾芽は身重でもあった。
(……回っておらんな)
秀政は考えた。
(綾芽の気概は買う。
だが、白鬼の再編だけでも大仕事だ。
それに忍びの統括まで任せていては、芋粥家の諜報そのものが滞ってしまう)
清隆が一人でこなしていた仕事を、そのまま綾芽へ引き継がせること自体に無理があった。
「綾芽」
「はっ」
「お前は白鬼の采配に専念せよ。
忍び頭は別に探す」
「お、お待ちください!」
綾芽が慌てて顔を上げた。
「私にやらせてくださいませ。
必ず務めを果たしてみせまする!」
「無理をするな」
「しかし、いずれは三郎兵衛が……」
「三郎兵衛は、まだ九つだぞ」
秀政は首を横に振った。
「元服したとしても、すぐに忍び頭の大任を果たせるわけではない。
何年も先の話だ」
「し、しかし……」
綾芽はなおも言い募ろうとした。
その時、お悠が口を開いた。
「綾芽」
「は、はい。奥方様」
「今、貴女にとって一番大事なことは何か、お忘れですか?」
「……奥方様」
「玄蕃との子を、無事に産むことでしょう」
綾芽は黙り込んだ。
お悠は続けた。
「貴女は、忍び頭の任が浅野家から離れることを気にしているのかもしれません。
御父上が務めてこられた役目ですから、そのお気持ちは分かります」
「はい……」
「ですが、貴女自身が清隆殿の偉業をお忘れではありませぬか?」
綾芽が顔を上げた。
「父の……偉業でございますか?」
「そうです」
お悠は頷いた。
「忍び頭も、清隆殿が果たしてこられた数多くの役目の一つに過ぎませぬ。
清隆殿は軍政を担い、兵を鍛え、戦場では軍勢を率い、忍び働きまで取り仕切っておられました」
「…………」
「芋粥家が今日まで大きくなれたのは、清隆殿がそうした多くの役目を果たしてくださったからです」
お悠は綾芽を見つめた。
「今、忍び頭の任を他の者へ任せたところで、清隆殿の功績が失われるわけではありませぬ。
浅野家の家格が下がるわけでもないのです。
三郎兵衛にとっても、軍政や兵の調練など、いくらでも活躍の場は残されているのです」
「奥方様……」
「むしろ、貴女や浅野家が重責に潰れてしまう方が、清隆殿も悲しまれるでしょう」
お悠の言葉は厳しかったが、綾芽を責めているわけではなかった。
清隆が亡くなった後、浅野家を守らなければならないと綾芽が考えていることは、お悠にも分かっていた。
だからといって、清隆が担っていた仕事をすべて綾芽が引き受ける必要はない。
「先ほども申しましたが、貴女は今、一番大事な時なのです。
玄蕃との子を無事に産むことを、何より優先なさい」
「……はい」
「それに、白鬼の指揮も貴女にしか任せられぬ大切なお役目です。
忍び頭まで兼ねる必要はありませぬ」
秀政も頷いた。
「お悠の言う通りだ。
綾芽、お前には白鬼がある。
それだけでも十分に大任だぞ」
「……承知いたしました」
綾芽は深く頭を下げた。
「忍び頭の任は、他の者にお任せいたしまする」
「うむ」
「ですが、殿。
一人、推挙したい者がおります」
「ほう。誰だ?」
「藤林源兵衛宗久様にございます」
「藤林?」
「はい。伊賀上忍家の一つ、藤林本家の出にございます。
現在は藤林家の上忍の一人として、伊賀で忍びを束ねておられます」
綾芽は説明を続けた。
「我が浅野家は、元を辿れば藤林家の枝にあたる阿拝家にございます。
そのため、藤林家とは古くから縁があり、源兵衛様にも幼い頃より懇意にしていただいております」
「なるほど。元の本家筋か」
「はい。源兵衛様の人となりも、知恵の深さも、忍びとしての腕も存じております。
多くの忍びをまとめることにも長けた御方にございます」
「お前がそこまで言うのなら、相当な男なのだろうな」
「はい。忍び頭をお任せするのであれば、源兵衛様を推挙いたします」
秀政は少し考えた。
藤林家は伊賀でも有力な上忍家である。
その本家の出であれば、家柄にも不足はない。
何より、清隆の娘である綾芽が自ら推挙している。
浅野家との関係を考えても、悪い人選ではなかった。
「分かった。藤林へ話を持ちかけてみよう」
「ありがとうございまする」
「それと綾芽」
「はっ」
「お悠が言った通りだ。
今は無理をするな。良い子を産め。
あまり悩むなよ」
綾芽は二人へ深く頭を下げた。
「はっ! ありがたきお言葉にございます!」
こうして秀政は、伊賀の藤林家へ使者を送ることにした。
浅野清隆の死によって空席となっていた忍び頭の任は、藤林源兵衛宗久へ引き継がれることとなった。




