第三百二十一話 邪魔
「……玄道殿か」
政親は納得したように頷いた。
それならば、この紙に並ぶ名前を神崎が知っていることにも説明がつく。
安濃院玄道。
比叡山で学問と兵法を学び、南都でも修行を積んだ僧である。
元は政成が見出した人物であり、秀文がまだ松丸と呼ばれていた幼少の頃から、その師を務めてきた。
だが、玄道が教える相手は秀文だけではない。
政にも軍略にも通じ、学問にも明るい。
そのため芋粥家では、重臣からその子弟まで、玄道から教えを受けた者は多かった。
「なるほどな」
政親は手元の紙へ目を落とした。
「忍びでは探れぬことでも、師になら話すか」
「左様にございます」
神崎が頷く。
「自ら誰を次の当主に推すなどと、軽々しく吹聴する者はおりませぬ。
されど、和尚を相手に己の考えを語る者はおりまする」
「それを玄道殿がお前へ?」
「無論、何もかも話してくださるわけではございませぬ」
神崎は苦笑した。
「和尚は我らの忍びではございませぬゆえ」
「当然だ」
玄道が銭で動く男ではないことは、政親も知っている。
私欲で秀文を担いでいるわけでもない。
むしろ、その逆だった。
「玄道殿自身も……秀文様を推しておるのだな?」
「かなり強く」
神崎は即答した。
「幼少の頃より御自身で教えてこられた御方にございます。
秀文様の才については、我らより遥かによく御存じでしょう」
「であろうな」
「和尚には、どうしても納得できぬことがあるそうにございます」
「家督か」
「はい」
神崎は声を落とした。
「秀文様は伊勢守様の嫡男。
しかも幼少の頃より学問を好み、覚えも早く、今では軍についても御自身なりに考え始めておられる」
政親は黙って聞いている。
「それほどの御方が、何故、芋粥家を継げぬのかと」
理由は分かっている。
織田信長だ。
芋粥家が伊勢を与えられ、大名として大きくなっていく過程で、家督についても信長の意向が強く働いた。
その結果、現在の後継者は長政となっている。
「玄道殿は、備前守様を嫌っておるのか?」
「いいえ」
神崎は首を横に振った。
「そこは、はっきりと否定されました」
「ならば、やはり……」
「秀文様なのでしょうな」
神崎が答えた。
「嫡男だからというだけでもない。
御自身が幼少より育て、その成長を見続けてきた。
その上で、秀文様ならば芋粥家を任せられると考えておられる」
「…………」
政親は再び紙を見た。
そこには、秀文を推す者たちの名前が並んでいる。
自分が声を掛けた者ではなく、神崎が銭を渡して抱き込んだ者でもない。
秀文自身を見て、その資質を認めた者たちだった。
そして、その者たちの考えを知ることができる位置に、安濃院玄道がいる。
政親は紙を畳んだ。
「面白くなってきたな」
その声は低かった。
秀文を芋粥家の後継者にする。
それは以前から政親が望んできたことだった。
だが今までとは、一つだけ大きく違う。
政親が動かずとも、秀文を推す者が現れ始めていた。
政親は、改めて紙に並ぶ名前へ目を落とした。
一人ずつ確かめていく。
まず目についたのは、南條、木曽、荒木、泉川。
かつて秀政が郡代として立ちあがった頃、各地へ置いた四人の代官である。
今ではいずれも部将となり、それぞれが政務の一部門を預かる長官職にまで上っている。
「……四人ともか」
「はい」
神崎が頷いた。
しかも、四人だけではなかった。
その下に連なる奉行。
さらに各地の代官。
紙を一枚めくる。
まだ続いている。
さらにもう一枚めくると、そこにも名前が並んでいた。
「これは……」
「南條殿らの下で働く者どもにございます」
「ほとんどではないか」
「ほとんどにございます」
神崎は事もなげに答えた。
南條たち四人は、それぞれが長年にわたって政務を担ってきた。
当然、その下には多くの奉行や代官がいる。
その者たちの多くが、秀文を次の当主として望んでいる。
つまり一人の部将が秀文を推している、という程度の話ではない。
芋粥家の政務を実際に動かしている者たちが、上から下まで秀文へ傾きつつあるということだった。
「こちらは?」
政親が別の紙を見る。
「軍政に関わる者どもにございます」
最初に坂木の名があった。
その隣には上田。
さらに、その下にも名が続いている。
先の軍制再建を担った者や、常備兵の調練を担当する者。
さらに鬼兵の育成に関わる者まで名を連ねている。
「こちらも多いな」
「坂木殿と上田殿が、あれだけ秀文様を褒めておりますゆえ」
神崎が笑った。
「無論、それだけではございませぬ。
実際に秀文様が常備兵の鍛錬を見て疑問を口にされ、そこから新たな鍛錬法が生まれたことは、軍に関わる者ならば知っております」
政親は黙って次の紙へ目を移した。
思っていた以上だった。
秀文を支持する者はいる。
それ自体は政親も分かっていた。
秀政とお悠の間に生まれた嫡男である。
むしろ、まったく支持されていない方がおかしい。
だが、これほどとは思っていなかった。
「父上も秀文様を次代へと強く願っておられる」
政親が呟いた。
「はい、筆頭様にとって、秀文様のご成長は生きがいとも言えますからな」
「うむ」
政成も玄道同様、秀文の才に惚れている。
だが政成の場合は政治的な意味もあるだろう。
千種家、そして千種屋の発展への思惑も込めた上で、秀文を芋粥家の次代としたいはずだ。
そもそも安濃院玄道を見出し、幼い秀文の師として付けたのが政成である。
千種家と秀文の関係も深い。
政成が秀文を推す以上――。
「千種党は全員秀文様を推すことになるな」
政親は父の顔を思い浮かべつつ呟いた。
神崎もそれに応える。
「はい、間違いなく」
千種党は芋粥家中でも最大派閥である。
政成を頂点として、長年秀政を支えてきた者たちだ。
その千種党が秀文を支持するのであれば、それだけでも無視できない。
そして、もう一人。
「姉上は?」
「さて」
神崎は少し笑った。
「さすがに御台様へ、この話題を振れる者はおりますまい」
「当たり前だ」
政親も苦笑した。
だが、答えなど聞くまでもない。
長政は養子であり、明の夫でもある。
お悠にとって大切な家族であることに違いはない。
それでも秀文は、自ら腹を痛めて産んだ嫡男だった。
政親はもう一度、何枚にも及ぶ紙を見た。
政務を担う者、軍政を担う者、そして最大派閥の千種党まで合わせれば、家中の有力者の大半が秀文側にいる。
「八割……いや、それ以上かもしれんな」
「私も、その程度と見ております」
「では、ここに名のない者は長政派か?」
「それは違いましょう」
神崎はすぐに否定した。
「玄蕃殿などは、どちらにも付いておらぬかと」
「鷺山か」
「はい。
白鬼の者どもも同様にございます。
あの者たちは伊勢守様個人への忠誠が強い。
今のところ、御家督についてどちらかを推している様子はございませぬ」
「中立か」
「そのように考えるのがよろしいかと」
政親は頷いた。
名がないからといって、長政を推しているわけではない。
では、明確に長政を支持しているのは誰なのか。
「竹内か?」
「はい」
「佐治もだな?」
「はい」
どちらも長政の与力である。
長政自身と行動を共にし、その下で軍勢を率いる者たちである。
彼らが長政を支持するのは当然だった。
そして――。
「あとは明姫様か」
「はい、その周囲も備前守様を支持しております」
「まあ、夫だからな」
政親は当然のこととして受け止めた。
明にとって長政は夫である。
その周囲にいる者たちも、自然と長政側へ寄る。
だが、それを合わせても数は限られていた。
政親は何枚もの紙を畳の上へ広げた。
そして、腕を組んで呆れたように言った。
「……もはや決まりではないか」
神崎は答えなかった。
「家中の八割が秀文様を望んでおる。
残る者の大半も、備前守様を推しているわけではない。
中立だ」
政親は長政派の名前を見る。
「明確に備前守様を推しておるのは、御本人の与力と明姫様の周囲くらいではないか」
「そうですね。
玄道殿は伊勢守様ともよく茶を飲みながら話をされるそうですが、その折の話では、伊勢守様ご自身も秀文様に傾いておられるようです。
ただ、備前守様には何の落ち度もないゆえに、廃嫡する理由がないだけだと」
「そうか。
義兄上もこの問題に関しては優柔不断だ。
だが、さすがにこの情勢は無視できまいな」
「はい、家中だけを見れば、その通りにございます」
神崎は、あえて一言付け加えた。
「家中だけを見れば」
政親の顔から笑みが消えた。
「……分かっておる」
問題は、そこだった。
芋粥家中の八割が秀文を望もうと、それだけでは決まらない。
秀政自身が傾いても、まだ不十分だ。
長政を後継者としたのは――。
織田信長なのだから。
政親は畳の上に広げられた何枚もの紙を見た。
そして、低い声で呟いた。
「上様が……邪魔だな」




