第三百二十話 亀裂
鬼兵の再建に着手してから、三か月が過ぎた。
その間、武田は大きく動けなかった。
南信濃戦役で受けた損害が、あまりにも大きかったからである。
とりわけ赤備えの損耗は深刻だった。
武田軍の中でも精鋭として知られてきた赤備えは、南信濃で芋粥軍と激突し、多数の兵を失っている。
兵を集めることはできる。
だが、長年の戦で鍛えられた精鋭は、すぐに補充できるものではない。
さらに南信濃には、芋粥長政が兵を置いている。
美濃方面には滝川一益。
勝頼がどこかへ大軍を動かせば、その隙を織田方に突かれる恐れがあった。
そして、その間に徳川が動いた。
高天神城である。
遠江における武田方の重要拠点だった高天神城は徳川軍に包囲され、再三にわたって援軍を求めた。
だが――勝頼は、その求めに応えることができなかった。
南信濃戦役で受けた損害は、まだ癒えていない。
南信濃には芋粥長政がおり、美濃方面には滝川一益。
加えて遠江では徳川家康が武田領を窺っている。
高天神城を救うために大軍を動かせば、他の戦線に隙が生まれる。
無理に徳川軍と戦えば、南信濃に続いて再び大きな損害を受ける恐れもあった。
勝頼は動けなかった。
そして高天神城は落ちた。
この一件が武田家に与えた影響は、織田方の諸将が考えていた以上に大きかった。
問題は、城を一つ失ったことだけではなかった。
武田は味方を見捨てない。
少なくとも、武田に従う国人たちはそう信じてきた。
信玄の時代から積み重ねられてきた武田家への信頼だった。
武田へ従っていれば、いざという時には助けてもらえる。
敵に囲まれても、武田の軍勢がやって来る。
その信用があるからこそ、武田家は甲斐だけでなく、信濃、駿河、上野、遠江へ勢力を広げ、その土地の国人たちを従えてこられた。
ところが、その武田が高天神城を救えなかった。
城兵は何度も援軍を求めた。
それでも援軍は来なかった。
そして最後には、徳川の手によって城を落とされた。
武田は、もう以前の武田ではないのではないか。
勝頼に従っていて、本当に自分たちは守ってもらえるのか。
次に見捨てられるのは、自分たちではないのか。
そんな疑念が、武田領内の国人たちの間へ広がり始めた。
その影響の大きさに、織田方でも驚く者は少なくなかった。
だが――伊勢にいる秀政だけは違った。
(やはり、こうなったか)
驚いてはいなかった。
むしろ、待っていた。
秀政は知っている。
高天神城を救えなかったことが、武田家の信用を大きく損なうことを。
そして一度失われた信用は、兵を補充しただけでは戻らない。
だからこそ、南信濃戦役でも武田軍を全滅させることだけが目的ではなかった。
赤備えを削り、武田に大きな損害を与える。
そして勝頼が、次の軍事行動を起こせない状態へ追い込む。
そうすれば、別の場所で危機が起きた時、武田は助けに行けなくなる。
助けに来なかったという事実そのものが、武田の信用を削る。
高天神城は、その最初の大きな一撃となった。
(武田は、ここからだ)
秀政が史実で知る武田家は、巨大な敵との一度の決戦に敗れて滅びるのではない。
味方からの信用を失い、従っていた者たちが次々と離れ、最後には内側から崩れるように滅びていく。
史実とまったく同じ道を辿るとは限らない。
すでに歴史は大きく変わっている。
それでも、人が武田へ従う理由そのものを壊せばよい。
その点だけは変わらない。
*
天正九年七月。
季節は農繁期の真っただ中にあった。
武田は依然として、大軍を容易には動かせない。
南信濃戦役で失った兵の補充も終わっていない。
赤備えの再建にも時間が掛かっている。
さらに、この時期に農兵を大量に動員すれば、田畑にも影響が出る。
勝頼は動きたくても動けなかった。
一方、織田方は違った。
南信濃では、長政が芋粥軍を率いて武田を牽制している。
そこへ武田が兵を向ければ、美濃方面が手薄になる。
美濃へ兵を集めれば、今度は長政が動く。
その状況を利用して動き始めたのが、織田信忠を総大将とする東国方面の軍勢だった。
中でも滝川一益は積極的だった。
武田の主力と正面から決戦する必要などない。
武田が大きく動けないのであれば、その間に国境から少しずつ食えばよい。
城や砦を奪い、国人を寝返らせる。
武田方が兵を集めれば退き、別の場所を狙う。
南信濃の芋粥軍と呼応しながら、武田に一か所へ兵を集中させない。
高天神城の一件によって、武田の威信が揺らいでいる今ならば、これまで抵抗していた国人の中からも、織田方へ靡く者が出てくる。
南信濃戦役で武田を滅ぼすことはできなかった。
だが、あの戦で負わせた傷は、三か月を経ても塞がっていなかった。
それどころか、高天神城の落城によって、傷は軍勢から武田家そのものへ広がり始めていた。
武田家を滅ぼす小さな亀裂が、すでに入り始めていたのである。
*
その頃。
南信濃攻略中の芋粥勢が本陣として間借りしている松嶺寺。
政親は、この寺の一室で今後の策を練っていた。
日が暮れてから、すでに一刻ほどが過ぎている。
政親が翌日の軍議に使う書付へ目を通していると、廊下から声が掛かった。
「殿」
「何だ?」
「大河内より、神崎様がお見えにございます」
政親の手が止まった。
「神崎が?」
思わず聞き返した。
神崎には城代として、大河内城を任せている。
政親が軍勢を率いて伊勢を離れている以上、大河内城とその領内を預かる神崎まで、軽々しく持ち場を離れてよいはずがない。
「通せ」
「はっ」
ほどなくして障子が開いた。
「殿。御無沙汰しておりまする」
「挨拶はよい。入れ」
神崎が部屋へ入る。
政親はすぐに気づいた。
先ほどまで廊下に控えていた小者がいない。
庭からも人払いされている。
政親はすぐに察した。
(甲賀か)
神崎が独自に抱えている忍びたちが、すでに周囲から人を遠ざけているのだろう。
そこまでして話す用件らしい。
神崎が正面へ座る。
政親は声を落とした。
「どうした?」
「何がでございましょう?」
「惚けるな。大河内はよいのか?」
「ああ、そのことでございますか」
神崎は平然としていた。
「私とて、子飼いの代官どもがおります。
開発も政務も常に行わせておりますれば、数日離れたところで大河内が止まることはございませぬ」
「ならばよい」
政親は神崎を見た。
「では何用だ?」
「少々、殿のお耳へ直接入れておいた方がよいことがございましてな」
「申せ」
神崎は懐から一枚の書付を取り出した。
「南信濃で大きく損なわれた鬼兵でございますが、急速に立て直しが進んでおりまする」
「その話なら聞いておる」
政親は答えた。
「雑賀と根来から鉄砲撃ちを大量に召し抱えたそうだな」
「八百名」
「八百?」
政親の眉が動いた。
「六百ではなかったのか?」
「当初は六百名にございます。ですが、御台様の御意向もあって、帰した二百名まで呼び戻したとのこと」
「姉上か……」
「それだけではございませぬ」
神崎が続ける。
「長野藤綱殿とその配下百名を召し抱え、岸田牧場の巨馬を与えて黒鬼へ編入。
赤鬼近衛隊についても、一条流槍術の使い手から補充が始まっておりまする」
「随分と手際が良いな」
南信濃戦役で芋粥家が受けた損害は大きかった。
鬼兵だけでも千人を超える恒久的な損失。
浅野清隆は、もう居ない。
政親自身、再建には相応の年月が必要になると考えていた。
ところが、まだ三か月である。
もちろん、失った鬼兵がすべて戻ったわけではない。
だが、専門兵については外から即戦力を取り込み、すでに穴を埋め始めている。
「白鬼もございます」
「白鬼?」
「五百人体制へ拡張されました」
「五百だと?」
今度は政親も明らかに驚いた。
「あいつらはかなり特殊な連中だが……どうやって?」
「南信濃で八名を失い、九十二名となっておりました。
そこへ伊賀のくノ一から四百名余りを新たに召し抱えておりまする」
「…………」
「すべてを即座に本隊へ加えたわけではございませぬ。
本隊を二百名へ拡張し、残る者は新雪隊なる育成部隊へ入れたとのこと」
政親は腕を組んだ。
「義兄上も随分と思い切ったことをする」
「はい。ですが、私がわざわざ大河内を離れたのは、その御報告のためではございませぬ」
政親は神崎を見据えた。
「何だ?」
「これらの再建策。その始まりに秀文様がおられます」
「秀文様が?」
政親の声が低くなった。
「どういうことだ?」
「鬼兵の育成方法を改めるきっかけを作ったのが秀文様。
伊賀の女子を白鬼へ大量に取り立てるきっかけを作ったのも、秀文様にございます」
「待て」
政親が遮った。
「秀文様はまだ十歳だぞ」
「無論、秀文様御自身が軍制を作られたわけではございませぬ」
「では何だ?」
「きっかけを口にされたそうで」
「きっかけ?」
神崎は頷いた。
「大人では気づかぬ観点を疑問として伊勢守様へとお伝えしたようです。
何故、鬼兵の鍛錬では武技ばかりを鍛えるのか。
走ることや、疲れた後にも戦えるような鍛錬をしてはいけないのか」
政親は黙って聞いている。
「さらに、伊賀出身の耀殿を見て、こう尋ねられたそうです。
伊賀には耀殿のように鍛えられた女子が、もっといるのではないか。
ならば、その者たちも白鬼になれるのではないか、と」
「…………」
「そこから伊勢守様が策を広げ、坂木殿や上田殿が形にした」
神崎は政親の目を見る。
「それを坂木殿と上田殿が、随分と方々で褒めておられるようでございます」
「秀文様の功としてか?」
「そこまで露骨には申しませぬ」
神崎が薄く笑った。
「ですが、秀文様は面白いところへ目を付けられる。
十歳にしてあれならば、先が楽しみだと」
「……惚れ込んだか」
「そのように見えまする」
坂木に上田。
どちらも、浅野清隆の下で長く軍務を担ってきた者である。
浅野亡き後、鬼兵再建の中心となっている二人でもあった。
その二人が、秀文を高く評価し始めている。
単に子供を褒めているだけならよい。
だが、それが続けば――。
「他にもおります」
神崎が懐へ手を入れた。
今度は紙の束だった。
政親へ差し出す。
そこには、多くの者の名だけが並んでいた。
何のための名簿なのかは分からない。
ただ、人の名だけが並んでいる。
政親は一通り目を通した。
そして顔を上げた。
「これは?」
「秀文様を次代に、と考え始めている者どもにございます」
「…………」
政親の目が紙へ戻った。
まだ派閥と呼べるほどのものではなく、互いに示し合わせているわけでもない。
それでも、秀文を推す者がすでにこれだけいる。
「どうやって調べた?」
政親が尋ねた。
「忍びか?」
「いいえ」
神崎は首を横に振った。
「文に残る内容であれば、忍びが向きまする。
誰が誰へ文を送り、何を命じたか。
そうしたことなら盗み見ることもできましょう」
「ならば、なおさらだ」
政親は紙を持ち上げた。
「この手の話を文に残す馬鹿はおらん。
皆、心に秘める」
「仰せの通り」
「ならば情報元は何だ?」
神崎が笑った。
「秀文様を推す者たちの中に、一人、心強い味方がおりましてな」
政親の目が鋭くなった。
「誰だ?」
神崎はすぐに答えた。
「安濃院玄道和尚にございます」




