第三百十六話 勘定奉行の逆鱗
数日後。
鈴鹿館では、鬼兵再建のための動きが本格的に始まっていた。
鉄砲兵については、すでに決着している。
鈴木重秀を侍大将とし、雑賀、根来から集まった六百人の鉄砲撃ちと、黒鬼からの移籍組を率いさせて、新設の緑鬼兵とする。
当初の補充予定を大きく上回る人数となったため、鉄砲兵については以前よりも増強されることになった。
騎馬兵も同様だった。
長野藤綱を足軽大将として召し抱え、その配下から選んだ九十九人と合わせて百人。
岸田牧場で育てられてきた伊勢巨馬百頭を与え、巨馬隊として新たに黒鬼兵へ組み込む。
赤鬼剣豪兵についても、以前から決めていた通りだった。
村瀬の新陰流だけに拘らず、比自山一条流槍術の印可を持つ者から選び、白兵戦に秀でた者を赤鬼近衛隊へ加えていく。
問題は、赤鬼と青鬼の一般兵だった。
こちらについては、新たな兵を集めて補充することをやめた。
「これ以上、常備兵そのものを増やす必要はない」
秀政はそう判断した。
雑賀、根来から六百人もの鉄砲撃ちを召し抱え、長野党からも百人を常備へ加える。
ここでさらに新兵を集めれば、南信濃で失った兵を補充するどころか、常備軍そのものが以前より膨れ上がる。
扶持も掛かる。
具足も要る。
兵舎も必要になる。
何より――。
(これ以上増やしたら、悠に何を言われるか分からん)
六百人の鉄砲撃ちだけでも十分に予定外だった。
赤鬼、青鬼については、これまで通り一般常備兵から昇格させる。
ただし、そのやり方を変える。
南信濃戦役の前に、一般常備兵三千人を赤鬼、青鬼、黒鬼へ千人ずつ昇格させたばかりだった。
代わって採用された三千人の新兵は、まだ鬼兵へ上げられるほど育っていない。
以前ならば、浅野清隆がその兵たちを鍛えた。
だが、もう浅野はいない。
ならば、浅野の代わりになる一人の人間を探すのではなく、兵を育てる仕組みそのものを作る。
秀文が口にしたいくつもの案が、ここで使われることになった。
「坂木、上田」
「はっ」
「始めるぞ」
二人の前には、一般常備兵三千人の名簿が置かれていた。
さらに、その横には別の名簿がある。
南信濃で傷を負った鬼兵たちだった。
腕を失った者や足を悪くした者。
傷が癒えても、以前と同じようには戦えない者たちだ。
その中から、まだ軍務に耐えられる者を選び出していた。
「まず、この者たちを教える側へ回す」
秀政が傷痍兵の名簿を叩いた。
「槍が得意だった者には槍を教えさせる。
組討ちに長けた者には組討ちを教えさせる。
戦場で兵を率いた経験がある者なら、戦場での動き方を教えさせろ」
「はっ」
「それから、新兵どもの得手不得手を見ろ。
全員を同じ兵にする必要はない」
これも秀文が言い出したことだった。
誰にでも得意なものがある。
槍、鉄砲、馬、弓。
力の強い者もいれば、足の速い者、武技に秀でた者もいる。
最初から同じ型へ押し込めるのではなく、鍛えながら適性を見る。
そして、もう一つ。
「身体作りも始める」
坂木が頷いた。
「若殿が申されていたものですな」
「ああ。
走らせろ。
山も登らせろ。
重い物を担がせて歩かせろ。
相撲も取らせろ」
上田が苦笑した。
「随分と厳しい鍛錬になりますな」
「まだある」
「まだ?」
「疲れた後に槍を持たせる」
二人が秀政を見た。
「戦場では、元気な時だけ戦うわけではない。
一日歩いた後に戦うこともある。
腹が減っている時も、ろくに眠っていない時もある」
南信濃で、嫌というほど思い知らされたことだった。
「元気な時に強い兵では足りん。
疲れてからでも戦える兵を作る」
「なるほど」
「ただし、飯は今まで以上に食わせろ。
しかも美味い飯を用意してやれ」
今度は坂木が笑った。
「そこも若殿の案で?」
「いや、そこは俺だ」
秀政は即答した。
「鍛えるだけ鍛えて食わせなければ、強兵になる前に痩せ細る。
米だけではなく、肉も魚も食わせろ。
厳しく鍛えた日の飯は、特に多くしてやれ」
散々体を動かした後に、たらふく食わせる。
辛い鍛錬の先に楽しみがあるなら、兵の不満も多少は抑えられるだろう。
「承知いたしました」
坂木が名簿を手に取った。
上田も立ち上がる。
浅野清隆はいない。
だが、浅野が残した鬼兵たちはいる。
その者たちに自分の経験を次の兵へ伝えさせ、坂木と上田が全体をまとめる。
さらに身体作りと適性の見極めを加え、常備兵三千人を一から鍛え直す。
その中から、赤鬼や青鬼へ上げられる者が育つのを待つ。
すぐに失った人数が戻るわけではない。
数か月で済むのか、一年掛かるのかも分からない。
それでも、以前と同じ鬼兵を急いで作るよりはよい。
「よし」
秀政は三千人の名簿を見た。
「やれ」
「はっ!」
南信濃で大きく傷ついた芋粥家の常備軍。
その再建が、ようやく動き始めた。
*
坂木と上田に常備兵の鍛錬を任せた秀政は、その足でお悠のもとへ向かった。
足取りは重かった。
理由は単純である。
銭の話をしなければならない。
黒鬼巨馬隊を新設する。
藤綱たちがこれまで使っていた具足を、そのまま黒鬼具足として使わせるわけにはいかない。
しかも今回は、従来の黒鬼騎馬とは戦い方そのものが違う。
巨馬の馬勢を利用して敵へ突き掛かり、そのまま駆け抜ける。
そのため、騎乗したまま槍を扱いやすいよう、動きやすさを重視した黒鬼具足を新たに作らせる必要があった。
馬の方にも防具が要る。
次に緑鬼。
雑賀、根来から召し抱えた鉄砲撃ちには、新たに緑鬼の名を与えることにした。
当然、六百人分の緑鬼具足が必要になる。
そして何より――。
(六百人だからな……)
当初は二百人ほど補充するつもりだった。
それが四百人増えた。
扶持も四百人分増える。
さらに常備兵三千人の鍛錬も強化することになった。
走らせ、登らせ、重い物を担がせ、その上で武技まで鍛える。
それだけ体を動かさせるなら、食わせる量も増やさなければならない。
米や魚、肉、その他にも、細かな出費はいくらでも出てくる。
それらをまとめた書付を抱え、秀政はお悠の前に座っていた。
「…………」
お悠が書付を読む。
秀政は小さくなっていた。
普段なら伊勢一国を預かる太守として堂々と座るところだが、今ばかりは背中まで丸まっている。
お悠が一枚目の書付を読み終えた。
黒鬼巨馬隊。
特注の黒鬼具足、百領。
軍馬用の防具。
必要となる革、鉄、その他の材料。
お悠は何も言わない。
書付を傍らへ置いた。
(…………)
秀政の心臓が一つ鳴った。
次に緑鬼。
具足、六百領。
お悠の眉が少し動いた。
(来るか?)
何も言わない。
その書付も横へ置かれる。
次。
常備兵三千人の食費増加。
米だけではない。
魚や肉も増やす。
お悠はしばらく数字を見ていた。
また、横へ置いた。
「…………」
「…………」
お悠は次の書付を手に取った。
秀政は耐えられなくなった。
「……いや、そのな」
お悠が顔を上げる。
「何でしょう?」
「これは全部、必要なものなのだ」
「…………」
「無駄遣いをしようというわけではないぞ」
「分かっております」
「巨馬隊はな。
今までの騎馬とは戦い方が違うから、具足も――」
「弥八様」
「はい」
思わず返事が小さくなった。
お悠はもう一度、手元の書付へ目を落とした。
「鉄砲兵、六百名」
「…………はい。
いや、それには訳があってだな」
秀政は慌てて説明を始めた。
「こ奴らが思っていた以上に腕が良かったのだ。
雑賀や根来で実際に戦ってきた者ばかりでな。
しかも自分の鉄砲まで持っておる」
「…………」
「それでも、六百人まで絞った」
お悠の動きが止まった。
「……絞った?」
「ああ」
「六百名に?」
「そうだ」
秀政は少しだけ胸を張った。
「これでも二百人は断った」
「…………」
お悠の手が震え始めた。
(まずい)
秀政は再び縮こまった。
やはり四百人も予定より増やしたのはまずかった。
「お悠。
だがな、あれだけの鉄砲撃ちを逃すのも――」
「何故ですか?」
「え?」
お悠が顔を上げた。
「何故、その二百名を返したのですか?」
「…………は?」
今度は秀政が固まった。
「いや……だから、最初は二百人を補充するつもりだったのに、六百人も召し抱えてしまったから――」
「そこを申しているのではありませぬ!」
お悠が声を上げた。
秀政の肩が跳ねた。
「皆、一流の鉄砲撃ちなのでしょう!?」
「あ、ああ」
「六百名を選んだ上で、残る二百名も断るのを躊躇するほどの腕だったのでございましょう!?」
「そうだが……」
「ならば何故、その二百名まで召し抱えなかったのですか!」
「…………」
秀政は口を開けたまま、お悠を見た。
思っていたのと違う。
「いや、待て。
お悠。
八百人だぞ?」
「承知しております」
「扶持も掛かるぞ」
「分かっております!」
「具足も二百領増える」
「作らせます!」
「火薬も鉛も食うぞ?」
「買えばよろしいでしょう!」
「…………」
お悠は言い切った。
「その程度の銭、私がいくらでも捻り出してみせます」
秀政は完全に言葉を失った。
いつもならば、一文の無駄すら許さない女である。
そのお悠が、自分から銭を出すと言っている。
「だが……」
「弥八様」
お悠の声から、先ほどまでの怒気が消えた。
「南信濃では、弥八様御自身も危うかったと聞いております」
「…………」
「本陣まで武田の兵に迫られたと」
「ああ」
実際、危なかった。
土屋昌恒の突撃を受け、本陣まで敵が迫った。
赤鬼剣豪兵が防いでいなければ、どうなっていたか分からない。
お悠は書付を握り締めた。
「兵が足りず、また弥八様に危険が及ぶくらいなら……」
握った手が震えている。
「私が身を尽くして、銭などいくらでも作ってみせます」
「お悠……」
「ですから、早う使いを出してください」
「使い?」
「その二百名です」
お悠は秀政を睨んだ。
「まだ遠くへ行っておらぬのでしょう?」
「あ、ああ。
恐らくは」
「ならば早く!」
「分かった!」
秀政は思わず姿勢を正した。
「すぐに重秀へ使いを出す!
二百人とも呼び戻す!」
「お願いいたします」
「……すまぬ、お悠」
秀政は頭を下げた。
怒られる覚悟で持ってきたはずだった。
確かに怒られた。
だが――。
(そっちかよ……)
秀政は何とも言えない顔で、お悠を見た。
(これは惚れるわ)




