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新武将・芋粥秀政  作者: 得生
第十六章 織田家宿老編(東方遠征編)

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第三百五話 一人の兵

鈴鹿館へ戻った秀政を待っていたのは、家臣たちと家族だった。


長い遠征を終えて館へ入った秀政の姿を見つけるなり、一人の少年が満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。


「父上! お帰りなさいませ!」


「おう、秀文。ただいま」


秀政も笑って息子を迎えた。


十歳になった秀文は、以前より随分と背が伸びた。

それでも、こうして父の帰国を喜ぶ姿には、まだ幼さが残っている。


秀文は秀政の前まで来ると、興奮を隠そうともせずに声を弾ませた。


「父上! 聞きましたよ!

 あの武田を追い払ったのでしょう!?」


「ああ」


「それも赤備えを打ち破ったと!」


秀政は少し困った顔をした。


「……まあ、そうなるな」


「凄いではありませぬか!」


秀文は父の微妙な反応など気にも留めていない。


「武田の赤備えといえば、戦国一とも呼ばれる兵なのでしょう?

 山県昌景の赤備えを打ち破っただけでも凄いのに、今度は内藤昌豊の赤備えまで退けた!


 父上は二度も武田の赤備えに勝ったのです!」


「…………」


「これで芋粥の鬼兵の名も、ますます天下に響き渡りますね!

 武田の赤備えにも負けぬ兵だと!」


よほど嬉しいらしい。

秀文にとって父親は、戦国最強と名高い武田の精鋭を退けて帰ってきた名将だった。


しかも南信濃を守り切り、武田勢を甲斐へ追い返した。

結果だけを聞けば、大勝利に見えても不思議ではない。


「父上! 此度の戦で、また“鬼伊勢”の名も上がりましょうな!」


「“鬼”の呼び名はあまり広めんでくれ……」


「何故です?

 強そうではありませぬか!」


「お前までそう言うのか……」


秀政は頭を掻いた。

だが、すぐに表情を戻した。


「秀文」


「はい!」


「その鬼兵だがな。

 千人以上を失った」


秀文の笑顔が止まった。


「……千人?」


「ああ。

 死んだ者だけではない。

 腕や足を失った者、深い傷を負って、もう鬼兵として戦えぬ者まで合わせれば千百人を超える」


「千百……」


秀文は目を丸くした。

六千を超える鬼兵のうち、千人以上。

十歳の秀文にも、それが大きな数字であることくらいは分かった。


「それなら……」


秀文は少し考えてから、顔を上げた。


「また増やせばよいのではありませぬか?」


秀政は黙って息子を見た。


秀文は続ける。


「千人減ったのなら、新しい兵を千人集めればよいのでしょう?

 それよりも、武田の赤備えを打ち破ったという名声の方が大切だと思います!」


悪びれる様子はまったくない。

むしろ秀文なりに、芋粥家のことを考えていた。


「戦国一と呼ばれる赤備えを退けたのです。

 芋粥の鬼兵は強いと、もっと皆が知ります!


 父上の名も上がります。

 芋粥家へ仕えたいという者も増えるかもしれませぬ。

 あるいは我らを恐れ、今後戦わずに勝つ機会が増えるやもしれません。


 兵はまた増やせますが、これほどの名声は、そう簡単には手に入りませぬ!」


秀文は得意げだった。


十歳の秀文にとって、千百という数字はあまりにも大きく、かえって実感が伴っていなかった。

千百人減ったのなら、千百人増やせばよい。

秀文の中では、それで計算が合っていた。


秀政は叱らなかった。


「……そうか」


「はい!」


「分かった」


秀政は、坂木や上田がいる、鈴鹿軍政所の方を見た。


「秀文。出かけるぞ」


「え?」


「供をせよ」


突然の言葉に、秀文が瞬きをした。


「今からでございますか?」


「ああ」


「どちらへ?」


秀政は答えた。


「お前が今、また増やせばよいと言った兵たちの家だ」


秀文の表情が止まった。


「……兵たちの家?」


「これから戦死した鬼兵の遺族を見舞いに行く」


秀政はそのまま歩き始めた。


「俺一人で七百を超える家を回ることはできん。

 坂木や上田、その下の者たちにも分担させる。


 俺自身が回るのは、ひとまず組頭以上の家だ」


秀文は慌てて父の後を追った。


「父上、私も行ってもよろしいのですか?」


「ああ。

 お前も来い」


「…………」


「千人減ったなら千人増やせばよい。

 お前の言うことが正しいかどうか――」


秀政は振り返った。


「その目で見てから、もう一度考えてみろ」


*


秀政は軍務関係の家臣たちを集め、戦死者の遺族への弔慰について指示を出した。

七百を超える戦死者を、一軒ずつ秀政自身が訪ねることは不可能である。


坂木、上田をはじめとする家臣に分担させ、さらにその下の者たちにも担当を割り振らせた。


届けるものも用意した。

戦死者の家族に対する扶持米。

弔慰として与える香典米。

そして、戦場から回収することができた遺品。


刀や脇差、兜、数珠、印籠。

他にも、本人が身につけていた品々だ。


秀政は集まった家臣たちを見渡した。


「一つだけ、絶対に守れ」


「は!」


「ただ死んだと伝えて、米と遺品を置いて帰るな」


秀政の声が強くなった。


「軍監どもに書付をまとめさせてある。

 それを持って、訪れよ。


 どこで戦ったのか。

 どのように戦ったのか。

 その最期の勇姿を家族へ伝えてやれ」


家臣たちが黙って聞いている。


「俺たちにとっては、死者七百七十という数字だ。

 だが、遺された者にとっては違う。


 夫であり、父であり、息子であり、兄弟だ。

 芋粥のために戦って死んだ者を、数字だけで片付けるな。

 我らが武田に勝てたのは、紛れもなく、この者ら――勇士どもがいたからだ」


「はっ!」


家臣たちが一斉に頭を下げた。

その光景を、秀文は父の横から黙って見ていた。


*


秀政が最初に訪ねたのは、一人の組頭の家だった。

秀文もその後ろについている。


家では妻と二人の子供が待っていた。

秀政が訪れた理由など、すでに分かっている。

妻は秀政の姿を見るなり、深々と頭を下げた。


「殿……わざわざお越しいただき……」


秀政はその前に座った。

そして自分も頭を下げる。


「すまなかった」


女が顔を上げた。


「殿、そのような……。

 どうか、お顔をお上げくださいませ」


「いや」


秀政は頭を上げたが、そのまま妻を見た。


「俺が連れていった。

 そして、生きて返してやれなかった」


「…………」


秀政は持参した包みを差し出した。

扶持米について記した書付。

そして、戦場から回収された脇差だった。


幼い少年が、その脇差を見る。


「……父上の?」


母親の顔が歪んだ。

答えられない。

秀政が代わりに答えた。


「ああ。

 お前の父上のものだ」


少年は恐る恐る脇差へ手を伸ばした。


「父上は……強かったですか?」


「強かったぞ。

 お前の父上の源三郎は、とても勇ましく、赤鬼の名に恥じぬ武者だったぞ」


秀政は即答した。


「武田の赤備えを相手に、仲間と一緒に踏みとどまって戦った。

 お前の父上たちが戦ってくれたから、俺はこうして伊勢まで帰ってくることができた」


少年は脇差を両手で抱えた。


「……そうですか」


その横で、母親が声を押し殺して泣き始めた。

もう一人の幼い子供も、母親につられて泣き出した。

秀文は何も言えなかった。


先ほどまで秀文は、兵はまた増やせばよいと言っていた。


だが、目の前で泣いている三人を見ていると、もう同じことは言えなかった。


*


次に訪れた家では、年老いた母親が待っていた。

秀政から息子の遺品を受け取ると、老婆はしばらく黙ってそれを撫でていた。

やがて、ぽつりと尋ねる。


「殿……」


「うむ」


「倅を返してくだされ。名も銭も要りませぬ。

 ただ、無事に返してくだされ」


「すまぬ……。

 俺が力及ばなかったせいで、お前の息子を……」


秀政は言葉を詰まらせた。

後ろに控えていた妻と思われる女が、老婆に寄り添いながら口を開いた。


「義母上、殿がお困りです。

 殿、夫は立派に務めを果たしましたでしょうか?」


「もちろんだ。お前の夫、彦兵衛は青鬼兵として勇敢に武田と戦った。

 同じ青鬼兵の中には、彦兵衛のお陰で救われた命も多数あると聞く。

 よく尽くしてくれた」


妻は何度も頷いた。


「そうですか……。

 それなら、ようございました」


そう言いながら、涙を拭った。


秀政が米を置いて背を向けると、妻はそこで初めて義母と抱き合い、その場に座り込んで泣いた。

秀文は、その姿も黙って見ていた。


*


それからも何軒も回った。

夫を失った妻がいた。

父親が帰ってくると思っていた子供がいた。

息子の遺品を胸に抱き、何度も頭を下げる母親がいた。


「立派な最期でございましたか」


そう尋ねる父親もいた。

秀政は分かることは話した。

分からないことまで、立派な最期だったなどと誤魔化すことはしなかった。


それでも、一つだけは必ず伝えた。

彼らが戦ったからこそ、自分たちは武田を退け、生きて伊勢へ帰ることができたのだと。


秀文はずっと父の隣にいた。

最初のうち、秀文は父の後ろで立っているだけだった。

だが何軒も回るうちに、自分から遺族へ頭を下げるようになった。


いつの間にか、父の勝利を誇らしげに語ることもなくなっていた。


*


日が傾き始めた頃。

二人は鈴鹿館へ戻る道を歩いていた。


秀文は帰り道、一言も喋らなかった。

秀政も、しばらく何も言わなかった。


(長政にもこの弔問を見せてやったな。

 果たして秀文はこれをどう見て、どう感じたか?

 長政と秀文、どちらが俺の後を継ぐに相応しいか……)


やがて秀文が、小さな声を出した。


「……父上」


「なんだ?」


「私は……間違っていました」


秀政は歩きながら息子を見る。


「何がだ?」


「兵は、また増やせばよいと言いました」


「ああ」


「でも……」


秀文は俯いた。


「あの人たちは、増やせません」


秀政は黙って聞いた。


「あの子の父上も……。

 あのお婆さんの息子も……。


 新しい兵を一人入れても、あの人たちは帰ってきません」


「そうだな」


秀文はしばらく歩いた。


「父上」


「うむ」


「七百七十人、死んだのですよね」


「ああ」


「七百七十人に……今日みたいな人たちがいるのですか?」


秀政は少し考えた。


「全員に妻子がおるわけではない。

 親を亡くした者も、一人身の者もおる。


 だが――」


秀政は足を止めた。


「誰かに大切に思われていた者は、大勢おるだろうな」


秀文も立ち止まった。

秀政は息子を見下ろした。


「秀文。

 お前が言ったことも、武家として全てが間違っているわけではない」


「え?」


「兵を失えば補充せねばならん。

 武田の赤備えを退けた名声にも、大きな価値がある。

 確かにこの名声によって、今後戦わずして勝てることもあるだろう。


 俺だって軍議では、六千百、七百七十、千百四十と人を数字で数える。

 そうせねば戦などできん」


秀文は黙って父を見ている。


「だがな」


秀政は続けた。


「その一という数字の中には、一人の人間がおる。

 親や妻、子がおって、そいつの帰りを待っている者がおるかもしれん」


「…………」


「兵を率いる立場になるなら、それだけは忘れるな」


秀文はしばらく答えなかった。

そして深く頭を下げた。


「……はい、父上」


「うむ」


秀政は再び歩き出した。

秀文も、その隣を歩き始める。

その帰り道、秀文が武田赤備えを破った父の武名を口にすることはなかった。

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第百五十九話 生きて帰るということと第百六十話 戦の後を継ぐ者での対比ですが、長政と秀文の反応の違いが分かりにくくないですか? 長政には明姫が既に嫁としていたから兵達の家族の思いをより我が事の様に実感…
人を数字で見ない、優しい殿様に育ちそうですね。 ここに「戦わずして勝つ」等の理論と「非情の命令を下さなければいけない時もある」の覚悟が備われば良い殿様になりそう。
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