第三百四話 秀政帰国
戦後処理が続く中、四方へ放っていた物見が次々と戻ってきた。
「申し上げます!
北方、武田勢の姿はございませぬ!」
続いて、別の物見も駆け込んでくる。
「東方も同じく!
街道沿いを改めましたが、敵影はございません!」
「南も異常ございませぬ!」
報告を受けた秀政は、一益と顔を見合わせた。
千代・松尾から撤退した武田勢は、そのまま甲斐方面へ退いている。
敗走した国人衆や農兵が残っている可能性はあるが、少なくとも内藤昌豊が率いていた赤備え主力が引き返してくる様子はなかった。
秀政は腕を組んだ。
「……滝川殿。
武田は、もう一度来ると思われますか?」
一益は少し考えてから、首を横に振った。
「来れまい」
「やはり、そう思われますか」
「うむ。
内藤も相当な損害を受けておる。
何より赤備えの損害が大きすぎる。
三割ほどが死傷したのであろう?」
「はい。
我らが確認できた限りでは、その程度かと」
「ならば、すぐには来れぬ。
赤備えは武田の切り札ぞ。あれだけ損なった直後に、もう一度攻めてくるほど武田にも余裕はあるまい」
秀政も頷いた。
「俺も同じ考えです。
南信濃を諦めたわけではないでしょうが、少なくとも当面は動けぬかと」
「うむ。
これだけの血を流した甲斐はあったということだ。
伊勢殿は、内藤にもう一度ここへ来ることを躊躇わせるだけの痛手を与えた」
秀政は苦笑した。
「こちらも同じくらい痛いのですがな」
「それはそうであろうが――」
一益は周囲を見渡した。
「ならば、わしの六千もここに置いておく必要はあるまい。
元の戦線へ戻るとしよう」
秀政にも異論はなかった。
「はい。
滝川殿は元の戦線へお戻りくだされ。
こちらは我らだけで守ります」
「よいのだな?」
「もちろんです。
滝川殿の軍勢までここへ縛り付けてしまえば、それこそ武田の思う壺でしょう」
「ははは、違いない」
一益は大きく頷いた。
「もし武田に再び大きな動きがあれば、すぐ知らせよ」
「承知いたしました」
これで、南信濃に滝川勢六千を留めておく必要はなくなった。
滝川勢が南信濃を離れられるのであれば、秀政もここに居続ける必要はない。
来るかどうかも分からない武田を待つより、失った鬼兵の再建を急ぐべきだった。
*
一益との話を終えた秀政は、長政、政親、鷺山の三人を陣幕へ呼び集めた。
三人が揃ったところで、秀政はすぐに本題へ入った。
「長政」
「は!」
「この地の総大将を、お前に任せる」
長政が目を見開いた。
「私に、でございますか?」
「ああ。
俺は伊勢へ戻る」
今度は政親が反応した。
「義兄上が?」
「うむ」
秀政は三人を見渡した。
「武田が再び来る可能性がないとは言わん。
だが、内藤も赤備えにあれだけの損害を出した。
滝川殿も、すぐに再侵攻はできぬと見ておる。
俺も同じ考えだ。
ならば今、俺がここに残るよりも、優先してやらねばならんことがある」
政親はすぐに察した。
「……鬼兵の再建ですか」
「ああ」
秀政は短く答えた。
「千人以上を失った。
しかも、これまでのように一般常備兵から補充することもできん。
浅野も、もうおらん。
来るかどうかも分からん武田を待っている間に、鬼兵の再建が遅れる方がよほどまずい。
だから俺は伊勢へ戻る」
長政も鷺山も黙って聞いていた。
「この地は長政に任せる。
政親、お前は軍師として長政を補佐せよ」
「……私が軍師にございますか」
「ああ。
今回、内藤の策を最も早く見抜いたのはお前だ」
「確かに!政親殿が軍師であれば私も心強いです」
「長政。
今後、当初の作戦から外れる判断をする時は、必ず政親と諮れ。
独断で兵を動かすな」
長政は深く頭を下げた。
「承知いたしました。
政親殿、頼みます」
「……は。
お任せくだされ」
政親も頭を下げた。
だが、その胸中には別の考えがあった。
(総大将も私でよかろうに)
今回の戦で、内藤の策を最も早く見抜いたのは自分である。
長政も利玄も、内藤の陽動に散々振り回された。
戦だけを考えるのであれば、自分が全軍を預かった方がよい。
政親は本気でそう思っていた。
しかし、それを口にするほど愚かでもない。
長政は芋粥家の後継者であり、秀政が自ら総大将を任せた男である。
ここで自分が異を唱えれば、家中の序列そのものを乱しかねない。
(まあよい。
長政が妙なことをしようとしたら、私が止めれば済む。
だが、この戦で一つ分かったことがある。
こいつは義兄上の跡を継ぐ器量はない。
芋粥家の嫡男は秀文様しかありえない)
政親は何食わぬ顔で頭を上げた。
秀政は最後に鷺山へ顔を向けた。
「鷺山。お前も長政を支えてくれ」
「は!
今度こそ武田の好きにはさせませぬ!」
「頼んだぞ」
南信濃の指揮について話を終えると、秀政は村瀬のことを尋ねた。
「村瀬はどうだ?」
「未だ意識は戻っておりませぬ。
高林殿によれば、今は出血も止まり、呼吸も安定しているとのことですが……」
「伊勢まで運ぶのは?」
「無理でしょうな。
少なくとも今は、動かさぬ方がよいとのことにございます」
秀政は目を閉じた。
本当ならば連れて帰りたかった。
しかし、二度も槍を受けた村瀬を、山道を越えて伊勢まで運ぶわけにはいかない。
無理に動かして傷が開けば、それこそ取り返しがつかない。
「……分かった。
村瀬はここに残す」
「は。
高林殿たちも残しましょう」
「頼む。
何より村瀬の命を優先させろ。
動かせるようになるまで、絶対に無理をさせるな」
「承知いたしました」
浅野清隆は、もういない。
そして村瀬兼良も、当分は伊勢へ戻れない。
芋粥家の兵を鍛えてきた第一世代の重臣二人がいない状態で、秀政は千人以上の穴を埋めなければならなかった。
「……参ったな」
秀政が頭を掻いた。
「赤鬼も立て直さねばならんというのに、村瀬までおらんとは」
政親が答える。
「村瀬殿の門弟は伊勢にもおります。
すぐに何もできぬということはありますまい」
「それでも、流祖がおるのとおらんのとでは違う。
剣豪隊に至っては、なおさらだ」
「……はい」
考えれば考えるほど、簡単な再建ではなかった。
それでも、やるしかない。
*
その日のうちに、秀政は帰国の準備を命じた。
負傷者については、この地で治療を続けさせる。
容体が安定し、移動に耐えられる者から順次伊勢へ後送することにした。
戦死者についても身元を改め、姓名と所属を記録する。
遺族へ渡す形見を残し、遺体はこの地で弔うことになった。
その処理は長政たちに任せる。
秀政自身は、一刻も早く伊勢へ戻らなければならない。
「凛!」
「は!」
呼ばれた凛が秀政の前へ進み出た。
「帰路の護衛として、お前たちも俺と一緒に伊勢へ戻れ」
「承知いたしました!」
白鬼は今回の戦で最も損害が少ない。
それに騎馬である。
少人数で急いで帰国する秀政を守らせるには都合がよかった。
秀政はそのまま滝川のところへ向かった。
「滝川殿。
一つ、お願いがございます」
「何じゃ?」
「俺も伊勢へ戻ることにいたしました。
途中まで滝川勢に同行させていただきたい」
滝川はすぐに事情を察した。
「なるほど。
伊勢殿も軍の立て直しか」
「はい。
南信濃は長政に任せます」
「よかろう。
この辺りを少人数で通るより、我らと共に動いた方が安全であろう」
「かたじけない」
こうして秀政は白鬼を護衛として連れ、滝川勢と共に千代・松尾を離れた。
途中までは滝川勢と行動を共にする。
そこから徳川領へ入り、安全な街道を通って伊勢を目指す。
一方、長政、政親、鷺山は南信濃に残った。
そして村瀬もまた、高林たちの治療を受けながら、この地に留まることになった。
「……気が重い帰国になるな」




