第三百三話 勝ったが、負けた
「では……」
秀政がようやく口を開いた。
「今、まともに戦える鬼兵は何人残っている?」
「現時点で戦列に立てる者は、およそ四千二百かと。
負傷者の多くは数週から数月で戻ってまいりましょうから、最終的には五千弱まで回復するものと思われます」
「五千……」
元の六千百には戻らない。
その差は、千人を超える。
秀政はようやく、今回の損害を別の意味で理解し始めた。
これは単に、この戦で多くの兵を失ったという話ではない。
芋粥家の軍制そのものに、千人以上の穴が開いたのだ。
*
武田勢の損害についても、おおよその数字は出ていた。
ただし、すでに撤退しているため正確なものではない。
戦場に残された遺体や捕虜となった負傷兵、遺棄された武具や馬、さらに各隊が戦闘中に確認した敵の被害を合わせた推計である。
政親が続けた。
「武田赤備え騎馬千。
死者、およそ百四十。
負傷者は、およそ百七十と見込まれます。
合わせて三百十ほど」
「三割を超えたか」
「はい。
本陣攻撃だけでも相当数を失っております。
さらに撤退時、黒鬼鉄砲隊の一斉射、《飛燕連環陣》などによって損害を増やしております。
死者と、再起が難しいと思われる者を合わせれば、百八十五ほどかと」
土屋の赤備え騎馬も、無傷で帰ったわけではない。
続いて赤備え徒歩・弓隊二千。
「死者、およそ二百八十。
負傷者、およそ三百九十。
合わせて六百七十ほど」
こちらも三割を超える。
中央で鬼兵と長時間白兵戦を続け、黒鬼騎馬の側面攻撃、黒鬼鉄砲隊の射撃を受けた。
最後には白鬼の《廻天連砲陣》によって、特に目立つ強兵から狙い撃ちにされている。
恒久的な損失は、およそ三百八十五と推測された。
「国人衆、農兵二千。
死者、およそ三百十。
負傷者、およそ三百五十。
合わせて六百六十ほど」
ここは死者が多かった。
左右の馬防柵を破壊するため、鬼兵に討たれながらも前進を続けたからである。
恒久的な損失は、およそ四百十。
政親が全てをまとめた。
「武田勢五千。
死者、およそ七百三十。
負傷者、およそ九百十。
総死傷者は、およそ千六百四十。
全軍の三分の一ほどとなります。
死者と復帰困難者を合わせた恒久的な損失は、推定で九百八十ほど」
秀政は自軍の数字と比べた。
芋粥軍――約千九百二十。
武田軍――約千六百四十。
「……俺たちの方が、多くやられているではないか」
「はい」
政親は否定しなかった。
だが、武田の被害も決して軽くない。
特に赤備えである。
騎馬千、徒歩・弓二千。
武田が誇る赤備え三千だけでも、およそ九百八十が死傷している。
恒久的な損失も、推定で五百数十。
これほどの損害を受けてまで、もう一度南信濃へ攻め込めるか。
秀政はそこで、内藤があれ以上戦おうとせず、赤備えを連れて撤退した理由を改めて理解した。
「……なるほどな。
向こうも、これ以上は戦えなかったのか」
誰も答えない。
秀政は昨日の戦を思い返した。
馬防柵を突破された。
何度も陽動に引っ掛かった。
左右を破られた。
本陣にまで赤備え騎馬の侵入を許した。
そして芋粥軍は、武田以上の死傷者を出した。
それでいて内藤は、最後まで赤備えの統制を失わず、撤退戦までやり遂げた。
「戦そのものなら……俺の負けだな」
政親は否定しなかった。
「……はい。
内藤昌豊、恐るべき将にございました」
ただし、この戦の勝敗は、戦場でどちらが多く敵を倒したかだけでは決まらない。
武田が出てきた目的は、南信濃から芋粥軍を追い払うことだった。
その目的は果たせていない。
南信濃には今も芋粥軍が残り、逆に武田軍が撤退している。
しかも赤備えは、すぐに再侵攻することを躊躇するほどの損害を受けた。
戦そのものでは内藤に負けた。
それでも、この戦を始めた目的では秀政が勝っていた。
秀政は苦々しく笑った。
「戦では負けて、戦の目的では勝った……か。
だが――こんな勝ち方をもう一度やったら、芋粥家が先に潰れるぞ」
誰も笑わなかった。
*
秀政は改めて、自軍の報告へ目を落とした。
恒久的な損失――千百余。
(千人か……)
最初は、補充すればよいと思った。
領内から新たに兵を集め、減った分を埋めればいい。
だが、鬼兵は農兵ではない。
百姓を集めて槍を持たせれば、明日から赤鬼や青鬼になれるわけではなかった。
黒鬼鉄砲隊なら、火縄銃を扱うための訓練がいる。
黒鬼騎馬なら、馬を自在に扱えるまで鍛えなければならない。
赤鬼剣豪隊に至っては、村瀬が長年かけて育ててきた新陰流の門弟である。
そこで秀政は、鬼兵を長年鍛えてきた男のことを思い出した。
浅野清隆。
鬼兵を作り、鍛え、芋粥家の軍制を整えてきた第一世代の重臣である。
だが、浅野はもういない。
村瀬まで失えば、剣豪隊の再建も難しくなる。
「数年……いや、それだけで済むのか?」
政親たちが秀政を見る。
「義兄上?」
さらに秀政は、もっと大きな問題に気づいた。
従来であれば、鬼兵に欠員が出ても補う方法はあった。
一般常備兵の中から優秀な者を選び、赤鬼、青鬼、黒鬼へ昇格させればよい。
時間はかかるが、それで穴を埋めることができた。
ところが、つい最近、芋粥家は常備軍を六千から九千へ増強している。
その際、一般常備兵三千を全員、赤鬼、青鬼、黒鬼へ千ずつ昇格させた。
代わりに一般常備兵へ入れたのは、新たに集めた新兵三千である。
つまり、これまで鬼兵の欠員を埋めていた兵たちは、すでに鬼兵へ昇格している。
今残っている一般常備兵は、入ったばかりの新兵ばかりだった。
そこまで考えて、秀政はようやく事態の深刻さを理解した。
「……政親」
「は?」
「補充する兵が……いないぞ」
政親はすぐには答えなかった。
しばらく黙ったまま報告書へ目を落とし、やがて重い口を開いた。
「……はい、義兄上。
それに、浅野殿ももうおりませぬ」
「…………」
「新兵を集めることはできます。
ですが、その者らを一から鍛え上げ、鬼兵にするには相応の年月が掛かりましょう。
これまで鬼兵を鍛え、軍制を整えてきたのは、ほかならぬ浅野殿なのです」
秀政は何も答えなかった。
千百余の穴。
その数字を埋めるだけなら、兵を集めればよい。
だが、失った千百余の鬼兵を取り戻すことは、それとはまったく別の話だった。




