第三百一話 戦のあと
ひとしきり笑ったあと、滝川一益は馬上から改めて戦場を見渡した。
先ほどまで浮かべていた笑みが消えた。
「……しかし、伊勢殿」
秀政も一益につられるように、周囲へ目を向けた。
千代・松尾の段丘には、戦の跡が生々しく残されていた。
中央の馬防柵は無残に破壊され、焼け焦げた竹盾や折れた槍が散乱している。
その間には赤備えの赤い具足がいくつも見られた。
だが、倒れているのは武田兵だけではない。
芋粥家の鬼兵もまた、そこかしこに倒れている。
さらに左右へ目を向ければ、赤備え騎馬に突破された場所にも、鬼兵の亡骸が幾重にも重なっていた。
一益が険しい表情で呟く。
「……これは、酷いな」
秀政は答えなかった。
先ほどまで勝利を喜んでいた気持ちが、一気に冷えていく。
「…………」
秀政は改めて、戦場の各所へ目を向けた。
中央では内藤昌豊率いる赤備え徒歩隊と真正面からぶつかった。
左右では武田の国人衆と農兵に馬防柵へ取り付かれ、その後、土屋昌恒率いる赤備え騎馬に防衛線を突破された。
本陣も襲われた。
鬼兵は、中央でも両翼でも戦った。
それだけに、被害も全軍へ広がっている。
秀政は軍配を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
「……勝った、か」
先ほど滝川と笑いながら口にした「勝った」とは、まるで意味が違っていた。
政親が険しい顔をしながら、秀政の横へ歩み寄る。
「義兄上。
まだ正確な数は分かりませぬが……相当にやられております」
「ああ」
秀政は短く答えた。
「分かっている。
中央だけではない。
長政と鷺山の両翼も、赤備え騎馬に抜かれた時に相当やられたはずだ。
本陣も……」
そこで秀政は言葉を止めた。
村瀬のことが頭をよぎった。
まだ、生きているのかすら分からない。
一益も事情を察したのか、それ以上は何も言わず、戦場へ目を向けた。
「政親。
すぐに被害を調べろ。
討ち死にした者。
重傷で戦えぬ者。
軽傷で戦列へ戻れる者。
赤、青、黒、白、それぞれ分けて数えよ。
それと――」
秀政は倒れている武田兵へ目を向けた。
「武田側もだ。
赤備え騎馬、赤備え徒歩、国人衆、農兵。
分かる範囲で構わん。
こちらがどれほど失い、向こうをどれほど削ったのか。
それを知らぬうちは、この戦を勝ったとは言えん」
政親は深く頷いた。
「御意」
秀政はもう一度、戦場を見渡した。
(……酷いな)
赤備えが強いことは分かっていた。
山県昌景の赤備えとは、かつて一度戦っている。
その経験がありながら、今回の被害は秀政の想定を超えていた。
それでも今回は、こちらが六千。
相手は五千。
しかも地形はこちらが選び、馬防柵を築き、鉄砲も用意した。
滝川一益との挟撃まで考えていた。
それだけの条件を整えていたにもかかわらず、
(これだけ、やられたのか)
秀政は唇を噛んだ。
戦略上は勝利と言っていい。
武田勢は退き、芋粥軍は南信濃に残った。
しかし、その勝利のために芋粥軍が支払った代価を、秀政はまだ把握できていなかった。
*
その時だった。
本陣の方角から、一騎の小母衣衆が駆けてきた。
「申し上げます!」
秀政と政親が同時に振り返る。
小母衣衆は二人の前まで来ると、馬から飛び降り、その場に膝をついた。
「本陣の被害、粗方判明いたしました!」
秀政の表情が引き締まる。
「申せ」
「はっ!
本陣を守備していた赤鬼兵四百のうち、討ち死には百四十名弱!
さらに百六十名余りが負傷し、戦列への復帰は困難にございます!」
「…………」
秀政の顔から表情が消えた。
四百のうち、三百。
戦闘不能となった者だけで七割を超えている。
小母衣衆は続けた。
「村瀬新陰流の剣豪隊百名も、二十五名が討ち死に!
三十五名余りが負傷しております!
本陣を襲った赤備えにも相当の損害を与えました。
周辺には赤備えの死体が多数残されております。
されど……本陣守備隊は、ほぼ壊滅にございます」
政親が険しい表情で顔を伏せる。
秀政はすぐに問い返した。
「……村瀬は?」
小母衣衆が言葉を詰まらせた。
秀政は思わず声を荒らげた。
「村瀬はどうした!」
「はっ……!
村瀬様は、敵将・土屋昌恒と一騎打ちに及び、その最中に二度、槍を受けられました。
一つは背から脇腹。
もう一つは肩から上腕にかけて……。
現在も息はございます。
ですが意識は戻らず……生死の狭間にございます」
「…………」
秀政の顔が青ざめた。
「意識が……戻らぬ?」
「は……」
秀政は軍配を握ったまま動かなかった。
あの時。
村瀬は笑いながら、自分を本陣から追い出した。
『逆に殿がおると守らねばならぬから邪魔じゃ』
そう言って、蠅でも追い払うように。
あの時、村瀬に追い出されていなければ、土屋昌恒が狙っていたのは自分だった。
村瀬が受けた二本の槍も、本来ならば自分が受けていたものだったかもしれない。
「……村瀬」
秀政が一歩、本陣の方角へ踏み出した。
だが、そこで足が止まる。
戦は終わったばかりだ。
まだ被害の確認も終わっていない。
武田勢が完全に退いたことも確認せねばならない。
負傷兵の収容も、軍の再編も必要になる。
総大将である自分が、ここを離れてよいのか。
その迷いを察したのか、一益が口を開いた。
「伊勢殿」
秀政が振り返る。
一益は真面目な顔で秀政を見ていた。
「どうぞ、向かわれよ」
「しかし、滝川殿……」
「こちらの状況確認は、わしが指揮する」
一益は戦場を見渡した。
「武田は退いた。
わしの本隊六千も、まもなく到着する。
負傷者を集め、武田の残兵が残っておらぬか確かめ、戦場の始末を進めておこう。
伊勢殿がおらずとも、それくらいはできまする」
「…………」
「その村瀬殿は、伊勢殿の代わりに槍を受けたのであろう?」
秀政は答えられなかった。
一益はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、短く言った。
「ならば、行かれよ」
秀政は深く頭を下げた。
「……かたじけない。
滝川殿、ここをお願いいたします」
「うむ。任されよ」
秀政はすぐに顔を上げた。
「政親!」
「はい!」
「本陣へ行くぞ!」
「はっ!」
二人は馬へ飛び乗った。
秀政は手綱を強く握る。
「村瀬……死ぬなよ」
馬腹を蹴った。
二騎は、壊滅した芋粥本陣へ向けて一気に駆け出した。
*
秀政と政親は、本陣へ駆け込んだ。
遠目に見た以上の惨状だった。
折れた槍や血に染まった具足が散乱し、その間には動かなくなった赤鬼兵が倒れている。
まだ息のある者は次々と運び出され、あちらこちらで治療を受けている。
秀政は馬から飛び降りた。
「村瀬はどこだ!」
「こちらにございます!」
赤鬼兵の一人が指差す。
秀政は走った。
本陣の奥、敷物の上に村瀬が横たえられていた。
「村瀬!」
返事はなく、目を閉じたまま動かない。
その周囲では数人の赤鬼兵が慌ただしく動き、その中心で一人の年嵩の武者が村瀬の治療を続けていた。
秀政が駆け寄る。
「容体は!?」
「殿!」
武者が振り返った。
村瀬新陰流の高弟の一人、高林恭二郎だった。
「……お前」
まだ芋粥家が今ほど大きくなかった頃から村瀬に師事し、阿坂城攻めにも従軍していた男だった。
「高林、村瀬はどうなのだ!」
「意識がございません。
されど、息はしております!」
秀政はすぐに村瀬の傍らへ膝をついた。
顔色は悪い。
だが、呼吸はある。
秀政は傷を見る。
一つは背から脇腹にかけて受けた槍傷。
もう一つは肩から上腕にかけての傷。
すでに具足は外され、傷口の周囲も露出させてある。
そして傷には、何重にも折り畳まれた布が強く押し当てられていた。
秀政は思わず布へ目を凝らした。
「……この布」
湯気を上げる釜が、すぐ近くに置かれている。
その中では、新しい布が煮られていた。
血に染まった布は別の場所へまとめられ、一度使ったものをそのまま傷へ戻してはいない。
さらに脇には、戦場へ持ち込んだらしい薬草の入った袋まで並べられている。
秀政は顔を上げた。
「煮たのか?」
「はい」
高林は即答した。
「傷に触れる布は必ず煮よ。
水も一度煮てから使え。
汚れた布は惜しまず取り替えよ。
以前、殿より教わったことにございます」
「…………」
秀政は言葉を失った。
高林は村瀬の傷を確認しながら続ける。
「阿坂城にて、羽柴様が重傷を負われた折です。
村瀬様は殿の命により那古野へ向かわれましたが、私はそのまま陣に残っておりました。
そこで、殿が羽柴様の手当てについて薬師へ命じられたことを見ております」
北畠攻めの折、秀吉が初めて重傷を負った、あの時だった。
あの頃の秀政は、戦国の治療があまりにも不衛生なのを見かねて、知っている限りのことを教えた。
手を洗え。
水は煮ろ。
布も煮ろ。
汚れた布を使い回すな。
傷を清潔にしてから薬草を使え。
秀政が教えたのは、その程度の知識だった。
高林は村瀬の傷を確認しながら続ける。
「村瀬様が那古野より戻られた後、羽柴様の容体と共に、殿がなされた手当についてもお話しいたしました。
すると村瀬様は、すぐに我ら門弟へ申し付けられました。
戦場では、いつ誰が深手を負うか分からぬ。
ならば高林一人が知っておっても意味がない。
殿より教わった手当を、剣豪隊の者は皆覚えておけ、と」
政親が傍らに並べられた袋を見る。
「それで……薬草まで?」
「はい。それ以来、傷の洗い方や血の止め方を皆で覚えました。
戦場へ出る時には、煮沸に使う釜、清潔な布、薬草も必ず持ち込むようになったのでございます」
高林は村瀬の傷へ視線を戻した。
「血はかなり出ました。
されど、すぐに煮た布を当てて圧迫し、止血しております。
その後に傷の周りを洗い、薬草も教わった通りに使いました。
出来ることは、全てやりました」
秀政は村瀬を見る。
意識はない。
顔色も悪い。
決して安心できる状態ではなかった。
少なくとも、傷口に汚れた布を巻いたまま放置されてはいない。
出血も今は大分抑えられている。
この場で出来る初期の手当は、すでに高林たちが済ませていた。
秀政は大きく息を吐いた。
「……完璧だ」
高林が顔を上げる。
「は?」
「よくやった」
秀政は、もう一度村瀬の傷を見る。
「俺が今ここへ来て、真っ先にやろうと思ったことを、お前たちは全部やっておる」
「殿……」
秀政は村瀬の手を握った。
「何だよ、村瀬……」
返事はない。
「昔、俺が教えたことを、お前がちゃんと残していたのか」
阿坂城で秀吉を救うために教えた手当を、高林が覚えていた。
そして高林から話を聞いた村瀬が、それを自分の門弟たちへ広めた。
ただ知っているだけでは終わらせず、戦場へ薬草や煮沸用の道具を持ち込むところまで、剣豪隊の習慣として残していた。
かつて秀政が教え、高林が持ち帰り、村瀬が門弟へ広めた知識が、今度は村瀬自身の命を繋いでいる。
秀政は村瀬の手を強く握った。
「だったら、生きろ。
ここまでやってもらって死んだら、弟子どもに申し訳が立たんぞ」
村瀬は答えない。
ただ、浅いながらも呼吸だけは続いていた。




