第三百話 赤備えの退き口
土屋昌恒率いる赤備え騎馬は、中央に開いた穴を抜けた。
一度抜けてしまえば、もはや追いつける者はいない。
赤い騎馬の群れは千代・松尾の平地へ飛び出し、そのまま武田本陣の側面を駆け抜けていく。
だが――
これで武田軍の撤退が終わったわけではない。
むしろ、ここからが内藤昌豊にとって最も難しい戦であった。
騎馬は逃げられる。
問題は、中央で鬼兵と戦っている赤備え徒歩隊である。
敵と槍を交えている最中に背を向ければ、その瞬間に追撃を受ける。
戦列が崩れれば、撤退ではなく敗走となる。
内藤は軍配を掲げた。
「赤備え、退くぞ!
だが、背を見せるな!
前列は槍を構えたまま下がれ!
二列目が受けよ!
入れ替わりながら退くのだ!」
「はっ!」
赤備え徒歩隊が動き始めた。
最前列が槍を突き出し、鬼兵を牽制する。
一歩下がる。
その後ろにいた兵が前へ出て、再び槍を突き出す。
その間に先ほどまで前にいた兵が後ろへ回る。
一歩。
また一歩。
決して背中を見せない。
鬼兵と向き合ったまま、赤備え徒歩隊そのものが少しずつ後方へ移動していく。
*
その動きを見た政親が叫んだ。
「逃がすな!
ここまで削ったのだ!
今こそ赤備えを討ち取れ!
青鬼、黒鬼!
一気に追い立てよ!」
「おおう!!」
青鬼と黒鬼が前へ出た。
退き始めた赤備えを逃すまいと、一斉に追撃へ移る。
だが――
「くそっ!
邪魔だ! 柵が邪魔だぞ!」
鬼兵の進路を阻んだのは、武田ではなかった。
自分たちが築いた馬防柵だった。
先ほどまで、この柵が赤備え騎馬の突撃を防いでいた。
だが、守るために何重にも築いた馬防柵は、こちらから前へ出ようとすれば、逆に鬼兵の動きを妨げる。
赤備え徒歩隊によって破壊された場所には、いくつもの穴が開いている。
しかし、大勢の兵が一斉に通れるほど広くはない。
「穴から出ろ!
早くせよ!」
鬼兵が次々と馬防柵の穴へ殺到する。
当然、そこで兵の流れが細くなった。
一度に赤備えへ襲いかかれる人数は限られる。
それを見逃す内藤ではなかった。
「慌てるな!
敵は一度には出てこられぬ!
出てきた奴から突け!
決して戦列を崩すな!」
赤備えが槍を揃えた。
馬防柵の穴から飛び出した鬼兵へ、何本もの槍が突き出される。
「ぐあっ!」
先頭の鬼兵が倒れる。
後ろから別の鬼兵が押し出され、赤備えへ槍を突き出す。
赤備えはそれを受けながら、また一歩退く。
鬼兵が追う。
赤備えが突く。
そしてまた退く。
少しずつ距離を取りながらも、赤備え徒歩隊は決して背中を見せなかった。
*
政親は歯噛みした。
「上手い……。
ここまで来ても崩れぬか!」
赤備えの戦列は確実に薄くなっている。
白鬼の騎馬鉄砲によって有力な兵を何人も失い、中央戦でも多くの死傷者を出した。
それでも、内藤が指揮を執っている限り軍としての形を失わない。
「構わぬ!
押せ!
少しでも削れ!」
政親がさらに追撃を命じた。
青鬼と黒鬼が、馬防柵を抜けて赤備えへ食らいつく。
その時だった。
遠くから蹄の音が響いた。
「ん?」
鬼兵の一人が横を見る。
赤い。
先ほど中央を抜けていったはずの赤備え騎馬が、再びこちらへ向かっていた。
*
土屋昌恒は、赤備え騎馬を完全には退かせていなかった。
中央を抜けたあと、ある程度まで距離を取ると馬首を返し、徒歩隊の撤退を見守っていた。
土屋が槍を掲げた。
「内藤様がまだ戦っておられる!
徒歩の者どもを置いて逃げられるか!
敵の横腹を突くぞ!
深入りするな!
一撃したらすぐに離れよ!」
「おおう!!」
赤備え騎馬が走り出した。
狙うのは、内藤を追う鬼兵の側面。
馬防柵の穴から出たことで、本隊から離れてしまった者たちだった。
「横から来るぞ!」
気づいた時には遅かった。
赤備え騎馬が鬼兵の横腹へ突っ込んだ。
馬体が鬼兵を弾き飛ばす。
「ぐあっ!」
倒れた者を馬が踏みつけ、その上から赤備えの槍が突き下ろされる。
別の騎馬は鬼兵の集団を横切りながら槍を振るい、そのまま駆け抜けていく。
「追うな!
隊列へ戻れ!」
鬼兵が槍を向ける頃には、赤備え騎馬はすでに離れていた。
追撃を再開しようとする。
すると、再び別の方向から赤備え騎馬が迫る。
「また来たぞ!」
一撃。
そして離脱。
決して鬼兵と正面から戦おうとはしない。
徒歩の赤備えを追おうとすれば、騎馬が横から突く。
騎馬へ向き直れば、その間に徒歩隊が距離を取る。
赤備え騎馬と徒歩隊が互いを庇いながら、少しずつ戦場から離れていった。
*
秀政はその様子を見て、思わず唸った。
「……強いな」
政親が悔しそうに答える。
「はい。
退き戦になっても、まるで隙がございませぬ」
秀政は戦場の向こうへ目を向けた。
砂埃が、先ほどより明らかに大きくなっている。
滝川一益の軍勢が近づいていた。
もう間もない。
政親はなおも赤備えを睨んでいる。
「もう少しです。
もう少し削れます。
滝川勢が到着すれば――」
「いや」
秀政が遮った。
そして軍配を上げる。
「もう良い!
追撃を止めよ!」
政親が振り返った。
「義兄上?」
秀政は戦場を見渡した。
倒れた鬼兵。
負傷して運ばれていく者。
馬防柵の向こうでは、なおも赤備えが槍を構えながら退いている。
ここから追えば、まだ討てるだろう。
だが、そのためにはこちらもさらに血を流す。
「これ以上、鬼兵の犠牲を出すな!
十分に赤備えは削り切った。
後は滝川殿に任せよう」
政親は何か言いかけた。
だが、周囲を見渡して口を閉じた。
「……そうですね」
悔しさを押し殺すように、息を吐く。
「すでに多くの血を流しております。
思った以上に、こちらの痛手も大きいやもしれません」
「うむ。
勝って欲をかけば、余計なものまで失う。
退け。
負傷者を収容せよ」
「はっ!」
政親が軍配を上げた。
「追撃止め!
青鬼、黒鬼は戻れ!
負傷者を運べ!」
法螺貝が鳴った。
鬼兵の追撃が止まる。
*
内藤は、その変化を即座に察した。
「……芋粥の勢いが落ちたぞ」
追ってこない。
鬼兵が馬防柵の向こうへ戻り始めている。
そして反対側からは、滝川勢の砂埃が迫っていた。
内藤は大きく息を吸った。
ここまでだった。
「よし!
もう背を向けて良い!
走って逃げよ!
滝川がまもなく来るぞ!」
赤備え徒歩隊の動きが変わった。
これまで鬼兵へ槍を向けながら一歩ずつ退いていた兵たちが、次々と背を向ける。
「このまま散れ!
甲斐へ走れ!
まとまっておれば滝川に追われる!
小勢に分かれて山へ入れ!」
内藤は武田本陣へ向けても叫んだ。
「撤退の法螺貝を鳴らせ!
本陣の国人衆も散れ!
飯田に留まるな!
甲斐へ退け!!」
ボォォォォ――ッ!!
長い法螺貝の音が、千代・松尾に響き渡った。
それは攻撃の合図ではない。
武田軍全軍へ告げる、撤退の合図だった。
赤備え徒歩隊が走り出す。
国人衆も散る。
土屋の騎馬隊も徒歩隊の撤退を確認すると、再び馬首を甲斐へ向けた。
内藤昌豊は最後まで戦場に残り、退いていく赤備えを見送った。
そして遠くに迫る滝川勢の砂埃を睨みつける。
「……これ以上はくれてやらぬぞ」
武田最後の牙は、まだ折れていなかった。
*
内藤昌豊は、なおも戦場を離れず、遠方から迫る砂埃を睨み続けていた。
滝川勢と思われる軍勢は、こちらへ向かってくる様子を見せない。
逃げる武田勢を追うのではなく、むしろ芋粥勢の中央へ合流するように進んでいる。
内藤はそこまで見極めて、ようやく軍配を下ろした。
「……追っては来ぬか」
ならば、これ以上ここに留まる意味はない。
内藤は戦場を振り返った。
多くの赤備えが倒れている。
騎馬も徒歩も、これまでにないほどの被害を受けていた。
「おのれ、織田め……。
これでは勝ちとは言えん。
赤備えの被害が大きすぎる……」
芋粥勢を散々に打ち破った。
馬防柵を破り、本陣まで騎馬を突入させ、伊勢守と思われる武者にも深手を負わせた。
それでも――南信濃から芋粥勢を追い払えてはいない。
「伊勢守に南信濃を押さえ込まれてしまったか……。
これをこじ開けるには、あまりにも痛すぎるな……」
内藤は悔しげに奥歯を噛み締めた。
「退くぞ。
これ以上は何も得られぬ」
内藤昌豊もまた、供回りと共に戦場を離れていった。
こうして武田軍は完全に四散し、千代・松尾の戦場から姿を消した。
*
それからしばらくして――
滝川勢が芋粥軍の前線へ到着した。
その姿を見た秀政は、思わず目を疑った。
「…………ん?」
騎馬。
騎馬。
また騎馬。
待てども待てども、その後ろから足軽が現れない。
そして全軍が到着したところで、秀政はようやく理解した。
「こ、これが滝川全軍?!」
目の前にいるのは――五百余り。
先ほど遠方から見えた、あれほど巨大な砂埃。
秀政には一万近い大軍にすら見えていた。
その先頭から滝川一益が馬を進めてきた。
「間に合ったようですな、伊勢殿!」
「た、滝川殿!」
一益は馬上から戦場を見渡した。
「伊勢殿が苦戦しておると聞いてな。
本隊六千を進ませつつ、騎馬だけで先行して参った。
わしらが姿を見せて牽制できれば、伊勢殿であれば立て直すであろうとな」
秀政は思わず深く頭を下げた。
「滝川殿、助かり申した!
実際、来ていただかなければ、崩れていたやもしれませぬ。
武田は……それほどに強うございました」
一益は苦笑した。
「で、あろうな。
わしもいつも苦しんでおります」
「…………」
秀政は改めて五百余りの騎馬を見渡した。
そして首を傾げる。
「しかし滝川殿。
遠目には、もっと大軍の増援に見えたのですが……」
「ああ。これよ」
一益が後方を指差した。
秀政が目を凝らす。
「……竹?」
騎馬の後ろから、一本、あるいは数本の竹が伸びている。
いや――
曳いている。
騎馬一騎ごとに竹を曳かせ、その先端を地面へ擦りつけていた。
馬が疾走すれば、蹄が土を蹴り上げる。
さらに後ろで竹が地面を掻き回し、大量の砂埃を巻き上げる。
五百騎しかいない騎馬隊を、遠目には数千、あるいはそれ以上の大軍に見せかけていたのだ。
秀政は呆気に取られた。
「…………」
そして、思わず笑った。
「さ、さすが滝川殿……。
進むも引くも、見事の一言にございますな」
一益も豪快に笑った。
「何を申される。
伊勢殿の此度の御活躍にも、わしは舌を巻きましたぞ。
あの内藤昌豊と赤備えを相手に、よくぞここまで持ち堪えられた。
ははははは!」
秀政はしばらく一益を見つめ――
やがて、つられるように笑い始めた。
「はは……」
散々だった。
馬防柵は破られた。
本陣は蹂躙された。
鬼兵は大勢倒れた。
村瀬も生死すら分からない。
そして最後に現れた大援軍は、蓋を開けてみれば五百騎だった。
それでも――
武田は退いた。
南信濃には、芋粥軍が残った。
「はは。ははははは!」
秀政はようやく声を上げて笑った。
「ようやく――勝った実感が湧きましたな!」
一益も再び笑う。
「はははは!
左様でござろう!」
二人の笑い声が、戦の終わった千代・松尾の段丘に響いた。




