第二百九十五話 影武者
鷺山と長政は、それぞれ鬼兵八百弱を中央に向かわせていた。
そのため、両翼では七百弱の鬼兵で馬防柵を守備していた。
左右の馬防柵を破った赤備え騎馬隊――
土屋昌恒が率いる五百弱と、もう一方の五百弱。
両隊は、鷺山・長政が率いる各七百の鬼兵による、足並みの乱れた槍衾を容易に突き破った。
鬼兵の防衛線を置き去りにして、秀政が守る芋粥本陣へ向けて一気に駆け上がった。
武田農兵は役目を終えると中央へ退き、内藤の本陣を守る。
赤備え徒歩隊が中央から突撃し、その隙をついて騎馬が左右から本陣を挟撃する――
内藤昌豊が描いた“本命の一手”がついに動き出した。
*
右翼の長政が叫ぶ。
「追え!追え!
義父上の元に行かせるな!!」
左翼の鷺山も血相を変えて怒号を飛ばす。
「まずい、まずい、まずい!
このままでは殿が狙われる!
先に送った兵どもはどうしている!?
我らも走れ走れ!何としても追いつけ!!」
だが――追えない。
鬼兵の脚力では、疾走する赤備え騎馬との距離は開くばかりだった。
段丘の上を赤い具足が疾走し、芋粥本陣へ向けて一直線に駆ける。
土屋昌恒は馬上で槍を掲げ、振り返りざまに叫んだ。
「行け、行けい!!
まもなく美濃より織田滝川勢がやってまいるぞ!
その前に――
伊勢守の首だけは必ず持ち帰れ!!」
赤備え騎馬隊は、芋粥軍の防衛線を完全に置き去りにし、秀政の本陣へ向けて突進した。
長政と鷺山は必死に追うが、赤備え騎馬の背は遠ざかるばかりだった。
*
左右の馬防柵両端に赤備え騎馬が現れたという報せが、政親の耳へ次々と届いていた。
「左右が騒がしいぞ!物見を出せ!
中央も今度ははったりではない。必ず来る!
守りを固めよ!」
政親は軍配を握りしめ、歯噛みした。
(長政、利玄……。あの馬鹿どもが!
内藤の揺さぶりに踊らされおって……。
中央は青鬼五百が守っている。
赤備え徒歩千五百と当たれば必ず押し負ける。
今、動かせる手札は黒鬼鉄砲千に黒鬼騎馬千。
中央を厚くすれば、本陣を突かれる……。
本陣を厚くすれば、今度は中央が抜かれる。
くそ――義兄上の命には代えられない)
政親は決断した。
「黒鬼を本陣に回せ……。
滝川勢が来るまで、中央は青鬼五百で死守せよ!」
(中央が抜かれようとも、義兄上が生きておられる内に、滝川勢が間に合えば勝てる。
うぬぬ……このようなところで俺まで……死んでたまるか)
その時、秀政が政親の背後へ現れた。
「政親!戦況はどうだ?」
政親は目を見開いた。
「義兄上?!
どうしてここに?!
い、いや。お待ちを。
おい!
黒鬼を止めよ!守るは義兄上だ!
中央を厚くせよ!」
秀政は軽く笑った。
「この状況下で邪魔してすまんな。
俺自身の目で戦況を見極めたかった」
政親は一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに心の中で叫んだ。
(いや、これは良いぞ!
本陣に籠られている方が、よほど危なかった)
秀政は続けた。
「とはいえ、実際は村瀬に追い出されたのだ」
「村瀬殿に?」
「あぁ。以前と同様、念のために俺の影武者になると聞かなくてな。
逆に俺がおると守らねばならぬから邪魔だと、蠅でも追い払うように追い出されたわ、ははは。
まぁ、奥で縮こまっているより、ここでお前と共に指揮を執る方が、確かに良いかもしれん」
政親は胸の内で叫んだ。
(でかした、村瀬殿!
その“蠅払い”こそが今の最良手よ!
これで中央と義兄上を同時に守れる!)
政親は深く頷いた。
「はい、義兄上がここにいて下さることほど心強きはございません。
実は……おそらく左右は既に赤備え騎馬に抜かれたやもしれません。
そうなると馬防柵の内側より、本陣に向けて赤備えが襲い掛かって参りましょう。
それとは別に、中央からは赤備え徒歩の敵本軍が迫ります。
ここを抜かれれば、芋粥軍は壊滅します。
ですが、左右からの本陣挟撃も無視はできませぬ。
どちらを取るか決めかねておりました。
ですが、ここで義兄上に指揮を執って頂けるならば、中央は守り切れます。
その後、長政殿と利玄が戻れば、中央の黒鬼騎馬を仕向けて、逆に赤備え騎馬を挟撃できるでしょう」
秀政は静かに息を吐いた。
「なるほど……確かに危なかったな。
ただ、そういう状況であれば村瀬も相当危険だな……」
政親は即答した。
「大丈夫です。村瀬殿をお信じなさいませ。
本陣を守る赤鬼は、新陰流の印可持ちも多いです。
そう易々とはやられませぬよ」
秀政は頷いた。
「うむ……今はそれが一番良いか。
しかし、内藤には完全に策負けしたな」
政親は悔しげに唇を噛んだ。
「はい、口惜しゅうございますな……。
ですが、最後に立っていた者が勝者です。
まだあきらめてはなりませぬ」
秀政は軍配を握り直し、政親の肩へ手を置いた。
「当たり前だ。俺はまだ負ける気はない」
*
赤備え徒歩隊が、ついに中央へ向けて突撃を開始した。
竹盾を前に突き出し、槍を構え、赤い具足を揺らしながら、千五百の兵が段丘の中央へ押し寄せる。
その前に立ちはだかるのは――
青鬼五百。
彼らは馬防柵に張り付き、槍衾を何重にも敷いて赤備えの突撃を受け止めた。
「押し返せぇい!!」
青鬼の怒号が響く。
槍先が赤備えの盾を叩き、赤備えの槍が青鬼の鎧を突き、段丘の中央は一気に血煙に包まれた。
赤備えは青鬼に反撃しつつ、馬防柵を破壊して、突入口を作ろうとした。
*
黒鬼騎馬千は馬防柵沿いを走り回り、青鬼では守り切れない範囲に迫る赤備えを、馬上から次々と突き刺していく。
「そこだ!逃すな!」
黒鬼騎馬は遊撃に徹し、赤備えの隙間へ馬をねじ込み、槍で突き、あるいは馬で押し倒し、中央の防衛線を必死に支えた。
黒鬼鉄砲隊は槍衾の頭上から立ち撃ちを行い、至近距離の赤備えに銃弾を浴びせた。
盾で弾く者、撃ち抜かれる者。
火薬の匂いと血の匂いが混ざり、中央はまさに地獄の様相だった。
*
武田本陣では、戻った国人衆が守りを固めていた。
中央の赤備え徒歩隊は、内藤昌豊が本陣から出て直接指揮を執っている。
内藤は戦場を一望し、機と隙を迷わず捉え、赤備えの動きを一体の生き物のように操った。
その老獪な戦術は、徐々に芋粥軍を押し始めていた。
赤備え弓五百が黒鬼鉄砲隊や黒鬼騎馬隊へ向けて牽制の矢を放つ。
黒鬼騎馬は矢を避けるために一旦下がり、黒鬼鉄砲は射撃の手を止めざるを得ない。
戦慣れした赤備えは、黒鬼の銃撃を竹束盾で受け止めつつ、犠牲を出しながらも中央の馬防柵を確実に破壊していく。
竹束盾が割れ、槍が折れ、馬防柵が軋み、
ついには――
「破られたぞ!!」
青鬼の叫びが響いた。
中央の馬防柵がついに崩れ、赤備え徒歩千五百が段丘へ突入した。
*
黒鬼鉄砲隊も槍に持ち替え、青鬼と共に槍衾を敷いて対抗する。
黒鬼騎馬は遊撃に徹し、赤備えの側面へ突撃を繰り返す。
赤備え徒歩は盾を捨て槍を構えた。
鬼兵も槍を突き入れて対抗する。
両者一歩も引かぬ激戦が繰り広げられた。
段丘の中央は、赤と青と黒の具足が入り乱れ、槍と盾がぶつかり合い、血が飛び散り、叫びが響き、まさに戦国の修羅場そのものだった。
その最前線に――
秀政が立っていた。
「押し返せ!
ここを抜かれれば芋粥は終わるぞ!!」
秀政の声は、混乱する戦場を切り裂くように響き渡った。
赤備えの突撃は強烈だった。だが鬼兵もまた、その声に応えて踏みとどまった。
中央決戦は、ついに本番へ突入した。
*
土屋昌恒が率いる赤備え騎馬――
その赤い奔流を、鬼兵八百弱がちょうど両翼の端と本陣の中間あたりで捉えた。
「千種様のおっしゃった通りだ!
敵赤備え騎馬は既に馬防柵の内側におるぞ!
槍衾で止めよ!本陣に向かわせるな!」
鬼兵たちは慌てて槍を構えたが――
散々走らされて疲弊した鬼兵の動きは鈍い。
縦横に駆け回る赤備え騎馬に追いつけるはずもなく、槍衾を敷く前に、赤備え騎馬はその防衛線を軽々と抜けた。
「まずいぞ!本陣の殿が危ない!
追え!追えー!!」
分隊長たちの叫びが空しく響く。
赤備え騎馬の背は、もう遠い。
*
土屋昌恒は馬上で槍を掲げ、本陣の旗を見据えた。
「見えたぞ!
あの旗が立ち並ぶ場所が芋粥本陣だ!」
赤備え騎馬隊は速度をさらに上げ、本陣へ向けて突進する。
その様子を、本陣前で構えていた村瀬が見逃すはずがなかった。
赤鬼兵は左右に二百ずつ分かれて槍衾を敷き、敵の突撃を牽制する。
残りの百は剣豪赤鬼兵――
村瀬は百の門弟たちへ声を張り上げた。
「皆、抜刀せよ!
左右に分かれて、なるだけ時間を稼げ!
わしが敵を引き付ける。
お前たちは可能な限り赤備えを討ち取れ!
村瀬新陰流の名を広める絶好の場ぞ!
赤備えを討ったこと、生涯誇れ!」
「おおう!!」
剣豪兵たちが一斉に抜刀し、村瀬の左右へ散開した。
*
土屋昌恒は本陣へ迫りながら叫んだ。
「見えた!
あの鬼の前立ての武者が伊勢守に違いない!
あ奴を討ち取れ!
あの首さえあれば、此度の戦は大勝利ぞ!!」
その声に、村瀬は大音声で応じた。
「はーはっは!
来たか、赤備え!
少々増長しておるようだが、“鬼備前”の名を知らぬようだな!
おーっと!今は伊勢守だ!
良かろう!
お前達の首が“鬼伊勢”の伝説の幕開けとなろうぞ!!」
土屋昌恒は槍を構え直し、村瀬へ向けて馬を蹴った。
「ぬかせ!
そのそっ首、今すぐ掻き切ってやる!!」
赤備え騎馬隊が本陣へ突入し、村瀬新陰流の剣豪と、武田の剛将・土屋昌恒率いる赤備えの決戦が――
ついに始まろうとしていた。




