第二百九十四話 内藤の揺さぶり
左右の馬防柵――
その両端へ、武田の国人衆・農兵が千ずつに分かれ、突撃した。
段丘の上から見れば、左右の斜面に黒い波が一気に押し寄せるようだった。
「来たぞ!左右だ!」
農兵たちは柵へ取り付き、杭を揺らし、縄を切り、命を捨てる覚悟で破壊にかかった。
鬼兵は農兵を次々と討ち取る。槍が胸を貫き、盾が叩き割られ、血が段丘の斜面を染める。
だが農兵は諦めない。
討たれながらも次々と後続が柵へ取り付き、破壊を続けた。
左右の柵は、徐々に軋み始める。
*
段丘の上から煙が上がり始める中、伝令が内藤昌豊の元へ駆け込んだ。
「敵左翼、右翼、共に半数の兵を、我ら赤備え徒歩隊への増援として中央へ向かわせておりました!
ですが、赤備えが足を止めたことで陽動と判断。
現在、慌てて増援部隊を両端へ戻しております!」
内藤は静かに頷いた。
「両端の柵を破壊せよ。多少の犠牲は厭わぬ。
褒美ははずむと伝えよ。
たとえ死したとしても、その家族に褒美をたんまり渡してやる。
武田の勇を示せ!」
伝令は走り去り、農兵たちはさらに勢いを増して柵へ取り付いた。
鷺山は槍を振り上げ、怒号を飛ばす。
「むぅ、押し返せ!
百歩譲って赤備えに押し負けるのは仕方ない。
だが、農兵ごときに鬼兵が侮られるな!
まもなく中央に派遣した兵が戻る。
倍の兵で押し潰せ!」
時を同じくして長政も叫ぶ。
「騙された!だが、まだ我らの方が優勢ぞ!
中央にやった兵がまもなく戻る!
今、柵を崩されるわけにはいかん!
赤鬼の意地を見せよ!」
鬼兵は農兵を圧倒していた。
だが農兵は諦めない。
討たれながらも、次々と詰め寄り、馬防柵の破壊に全力を尽くした。
左右の柵にいくつかの隙間が出来ていく。
もし、ここに赤備え騎馬が突撃してきた場合、突破されてしまうだろう。
*
その頃、中央では――
赤備え徒歩隊が突然、左右へ割れた。
その隙間から、赤備え騎馬が姿を現した。
赤い具足が陽光を反射し、騎馬の蹄音が地を震わせる。
すぐに左右の陣へ、小母衣衆が駆け、状況が共有された。
鷺山が目を見開き、叫んだ。
「ま、待て!
隠れていた赤備えの騎馬どもは中央だ!
このままでは中央を抜かれて、殿が危ない!
戻れ!再び増援に向かえ!急げ!
殿を守れ!」
中央から戻った青鬼千は、休む間もなく、再び中央へ向けて走り出した。
長政も同時に気づいた。
「まずいぞ!両端への攻撃こそ囮だ!
敵の狙いはやはり中央だぞ!
戻ってきた兵に伝えよ!
急ぎ中央に戻り、義父上をお守りせよ!」
赤鬼千は息を整える間もなく、来た道を戻る。
*
中央の政親が目を見開いた。
「赤備え騎馬はあそこか!
黒鬼鉄砲隊、構えよ。
もし突撃してくるなら逆に好都合だ。
青鬼が耐える間に至近にて鉄砲の餌食にしてやる」
そこへ小母衣衆が駆け付ける。
「申し上げます!
まもなく、両翼より各八百余の増援が参ります!」
政親の顔が歪む。
(は?長政も利玄も、馬鹿か!)
政親は思わず主筋の長政まで心の中で馬鹿呼ばわりした。
「これ以上、踊らされてどうする!
まだ中央に対して赤備え騎馬が突撃してくるとは限らん。
両翼から赤備えが迫る可能性とて、まだ捨てきれないのだぞ!
左右から本陣を挟撃される方がよほど悪いわ。
ただただ、走り回らされて体力を奪われていれば、いざという時に戦えぬ!
ここには黒鬼二千と私が居るのだ!
仮に赤備え騎馬の狙いが中央であったとしても、そう簡単には崩れぬ!
それを見てから動くべきであろう!
焦る必要など皆無だ!
小母衣衆!
両軍の増援部隊へ伝えよ!
中央はまだ援軍不要!
その場に留まり、体を休め、次の指示を待て!」
怒りを露わにする政親に恐れを感じた小母衣衆は、慌てて両陣へ向けて駆けた。
政親が怒りを隠さず、敵中央を睨みつける。
その時、中央に姿を見せた赤備え騎馬に違和感を覚え、軍配を投げ捨てた。
「黒鬼兵!
中央と左右に均等に分かれよ!
敵は三方からくるぞ!」
政親が睨む中央の赤備え騎馬隊。
赤備え徒歩隊に囲まれて、よく見なければわからないが、馬の数が少ない。
おそらく前面に十騎ほど姿を見せてはいるが、その後ろに見えるのは赤備え徒歩隊が掲げる軍旗であろう。
政親は頭を抱えて、呟いた。
「敵の真の狙いは左右両端の砕けた馬防柵だ。
そこからおよそ五百の赤備え騎馬隊が柵を越えて本陣を挟撃する。
中央からは二千の赤備え徒歩隊だ。
両翼の守備が七百程度であれば、鬼兵であれど抜かれるぞ」
政親は小母衣衆を三騎呼び寄せた。
「左右の増援部隊に伝えよ。
敵騎馬隊が左右両端より馬防柵を越えて、本陣を狙う恐れがある。
警戒を厳重に行い、槍衾で少しでも赤備えを止めよ!」
二騎の小母衣衆が分かれて駆け出した。
「……最悪だ。このこと、兄上にも伝えよ!」
三騎目の小母衣衆が本陣にも駆けた。
*
土屋昌恒は、赤備え騎馬隊を半分に分け、左右それぞれの馬防柵の端に近い林へ潜ませていた。
多くの農兵の犠牲によって、左右の馬防柵の両端はすでに大きく崩れ、穴がいくつも開いていた。
その穴は、赤備え騎馬が突入するために用意された“口”としては十分な広さだった。
*
中央から法螺貝が鳴り響く。
長政、鷺山、そして両端付近を守る鬼兵たちが、一斉に中央へ気を向けた。
「くっ……突撃が始まったか。
増援部隊は間に合っただろうか……?」
鷺山は本陣の方向を見つめ、秀政の安否を案じた。
長政も同じだった。
赤備えの恐ろしさを目の当たりにし、秀政が中央突破される未来が脳裏をよぎる。
中央では兵が前進し始めた。
だが――騎馬隊は動かない。
弓隊の一部も槍に持ち替え、突撃部隊は千五百に膨らんでいた。
赤備え徒歩隊は竹盾を構えてゆっくりと、中央を守る青鬼五百に向けて迫った。
黒鬼鉄砲隊が槍衾を構える青鬼の頭上から鉄砲を構えた。
*
鷺山も長政も、その異変に気づく余裕はなかった。
中央に気を向けた、その一瞬の油断を、土屋昌恒は見逃さなかった。
「今だ!」
法螺貝が再び鳴り響く。
左右の林に潜んでいた赤備え騎馬隊――
各五百が、槍を構えて一斉に飛び出した。
*
左翼側の先頭に立つのは土屋昌恒。
槍を構え、馬を蹴り、赤い具足を翻しながら疾走する。
「行け!蹴散らせ!!」
赤備え騎馬隊が、崩れた馬防柵の穴へ一気に流れ込んだ。
武田農兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ散る。
鬼兵は慌てて槍衾を構えようとするが間に合わない。
赤備え騎馬隊が突入し、槍で突き、あるいは馬で轢き殺した。
鬼兵の叫びが段丘に響く。
赤備え騎馬隊は鬼兵へ次々と槍を突き入れ、芋粥勢が怯んだ隙を逃さず、一気にその場を駆け抜けた。
左右の柵は完全に破られ、赤備え騎馬隊は段丘の上へと雪崩れ込む。
「まずい!抜かれたぞ!!」
長政と鷺山が、ほぼ同じ瞬間に叫んだ。
左右の防衛線は破られ、赤備え騎馬が本陣へ向けて突進を開始した。




