第二百九十三話 一体の虎
千代と松尾――
飯田城北に広がる広大な段丘と平地の境界。
その中でも、松尾段丘の北端、千代との境界にあたる緩やかな斜面と広い平地が、秀政の選んだ決戦場であった。
段丘の上は見晴らしが良く、平地は赤備え騎馬が突撃しやすい。
そして段丘の縁は馬防柵を展開するには最適の幅を持つ。
秀政は馬上からその地形を見渡して言った。
「……ここだ。
赤備えの突撃を殺し、滝川殿が背後から刺しやすい形を作る。
千代・松尾の境こそ、最も勝ち筋が多い」
鬼兵たちはすぐに動き出した。
*
芋粥勢は、中央やや奥に本陣を置き、そこで秀政は五百の赤鬼兵と百の白鬼兵に守られていた。
次に馬防柵。
黒鬼の木工兵が中心となり、段丘の縁に沿って何重にもわたる柵を築いた。
段丘の上には赤鬼・青鬼各千五百が層を成し、柵を盾に槍を構えて待ち受ける。
青鬼が守る左翼を鷺山が、赤鬼が守る右翼を長政が率いている。
中央だけは特別だった。
段丘の馬防柵に張り付くように、黒鬼鉄砲隊千が並ぶ。
黒鬼鉄砲隊千は三段に分かれ、前列が撃てば後列が装填する形で射撃を繰り返す。
芋粥軍でも以前から用いている射撃方法である。
その後方には五百の青鬼槍隊が控え、赤備え騎馬が突撃してきた瞬間、鉄砲隊と入れ替わるように前へ出る手筈である。
黒鬼騎馬兵千は中央本陣の前に居座り、政親が率いていた。
秀政は段丘の上から全軍を見渡し、息を吐いた。
「……よい。
ここなら赤備えの突撃は殺せる」
一方その頃――
千代の平地へ向けて進む武田軍五千。
赤備えの旗が風を裂き、槍先が陽光を反射する。
内藤昌豊は千代・松尾の境界を見渡し、即座に布陣を決めた。
中央には、赤備えから選抜した弓隊千。
左右には国人衆・農兵二千が広がる。
そして前方には――
土屋昌恒率いる赤備え騎馬隊千。
内藤直属の赤備え徒歩隊千。
武田の精鋭が、芋粥軍の馬防柵へ向けて進む。
土屋昌恒が馬を寄せる。
「内藤様……見えてまいりました」
内藤は頷いた。
「うむ。
段丘に柵を何重にも築いたか。厄介だな」
土屋は槍を握り直した。
「……内藤様より頂いた策、必ず果たして見せまする」
内藤は満足げに頷いた。
「うむ。我ら武田勢は軍勢にあらず。
一体の虎よ。
騎馬も徒歩も弓も、その爪と牙として縦横無尽に動く。
芋粥に武田の戦というものを、とくと味わわせてやれ」
*
段丘の上に芋粥軍六千余。
その下の平地に武田軍五千。
互いに距離を測り、風が草を揺らす音だけが響く。
鬼兵の槍先がわずかに震え、赤備えの馬が地面を踏み鳴らす。
鉄砲隊は息を殺し、赤備え弓隊は弦を引き絞る。
千代・松尾の境界。
ここに、武田と芋粥の命運を分ける戦が幕を開けようとしていた。
*
法螺貝が千代の平地に響き渡った。
土屋昌恒が槍を高く掲げると、赤備え騎馬千が一斉に前へ躍り出た。
赤い具足が陽光を反射し、騎馬の蹄音が地を震わせる。
その後方で、赤備え徒歩隊は動かない。
内藤昌豊の指示通り、騎馬の動きに合わせて“揺らし”を仕掛けるためだ。
段丘の上。
馬防柵の陰に控える鬼兵たちは槍を構え、何層にも槍衾を敷いて赤備えの突撃を待ち受けた。
黒鬼鉄砲隊千は三段に並び、騎馬の動きを見極めながら狙いを定める。
蹄音が迫るたびに、鬼兵の喉が鳴り、槍先が震えた。
「来るぞ……!」
誰かが呟いた瞬間――
鉄砲の射程に入る直前。
赤備え騎馬は突然、左右へ散開した。
「なっ……!」
黒鬼鉄砲隊の狙いが一気にズレる。
鉄砲隊は迷った。
撃つべきか――
撃たざるべきか――
騎馬は馬防柵に沿って並走し、鉄砲隊の射線を乱し続ける。
黒鬼鉄砲隊は必死に狙いを定め直すが、赤備え騎馬は柵の外側を縫うように走り続ける。
銃口を向けた時には、すでに狙った騎馬はその場から離れていた。
鬼兵たちは槍を構えたまま、いつ騎馬が柵へ突撃してくるか分からず、全身に力を込めて待ち受ける。
内藤昌豊は騎馬の動きを見ながら、静かに弓隊へ手を上げた。
「今だ。
火矢、一斉射――!」
赤備え弓隊千が一斉に弦を引き絞り、段丘の黒鬼鉄砲隊へ向けて火矢を放った。
千本近い火矢が一斉に放たれた。
炎の尾を引きながら、雨のように黒鬼鉄砲隊へ降り注ぐ。
「火矢だ!!」
後方からの叫びに、狙いに集中していた黒鬼鉄砲隊が顔を上げる。
次の瞬間、火矢が次々と陣内へ突き刺さった。
「下がれ!火薬を守れ!」
鉄砲隊は慌てて後退する。
数人が射抜かれて、絶命した。
また火矢が段丘に突き刺さった。
「火だ!火が回るぞ!!」
枯れ草や竹盾に火が燃え移り、小さな火柱がいくつも上がった。
火の粉と煙が鉄砲隊を包み、その火がついに火薬袋へ燃え移った。
火薬が破裂し、周囲の黒鬼兵まで巻き込んだ。
黒鬼鉄砲隊は「撃ち逃げ」を行うどころか、火薬への引火を避けるため、射撃位置を変えざるを得なかった。
隊列が乱れ、射撃に集中できる状況ではなくなっていく。
内藤昌豊はその様子を見て、呟いた。
「よし……鉄砲隊は鈍った」
その瞬間――
手薄になった中央へ向けて、赤備え騎馬が一斉に突撃を開始した。
赤備え騎馬が、今度こそ馬防柵中央へ向けて一直線に迫る。
黒鬼鉄砲隊は慌てて馬防柵まで戻り、狙いを定めようとする。
だが、焦った者の火薬袋に、足元の小火が燃え移った。
「やめろ!そこは火が――」
次の瞬間、爆発と共に鉄砲隊の一人が吹き飛んだ。
火薬の破裂音が段丘に響き渡り、黒鬼鉄砲隊の集中はさらに乱れる。
黒鬼鉄砲隊は火のない場所へ移動し、乱れた隊列のまま銃口を向ける。
「えぇい!焦るな!火には気を付けよ!
よく狙え!!」
黒鬼鉄砲組頭が必死に叫び、鉄砲隊は改めて狙いに集中しようとする。
だがその瞬間、赤備え騎馬は再び左右へ折れた。
射程から逃れるように、自陣へ向けて一斉に撤退する。
「おのれ!逃げるか!赤備えの名はその程度か!
……ん?ま、待て!
また来るぞ!!」
黒鬼鉄砲隊が叫ぶ間もなく、中央で集合した赤備え騎馬は、再び一糸乱れぬ統率で馬防柵中央へ向けて突撃を開始した。
鬼兵たちは槍を構え直し、黒鬼鉄砲隊は慌てて前線に駆けて狙いを定める。
鉄砲の有効射程に入る直前。
赤備え騎馬は突然、左右へ散開した。
鉄砲隊は火矢の小火で集中できず、狙いが安定しない。
そこへ――
赤備え弓隊が再度火矢を放った。
炎の尾を引く矢が段丘へ降り注ぎ、黒鬼鉄砲隊の精神をさらに削る。
そこでもまた、射抜かれ、引火し、命を落とす者が現れた。
*
秀政がこの一連の流れを見て呟いた。
「さすが内藤……。真の統率者とはあのような者を言うか。
まるで兵を自らの手のように扱う。
まずいな……。
武田赤備え……やはり戦国最強か」
政親も持ち場で、この惨状を見て歯噛みしていた。
「これが武田の赤備えか。
よくもまぁ、義兄上も父上もこれに一度勝てたものだな」
だがすぐに冷静さを取り戻すと、大声で下知を飛ばした。
「鉄砲隊、退け。
奴らに遊ばれるな!
鬼兵の後方、弓の射程外まで下がれ。
鬼兵は腰を低くして槍衾を徹底せよ!
鉄砲隊は槍衾の後方から立ち撃ちし、近付いてきた騎馬を至近で狙え!
槍衾の頭上からでは射角が上がる。
射程はいつもより短いと考えよ!
こうなれば奇策も何もない。
ただただ耐えよ!」
政親の指揮のもと、中央は何とか盛り返そうとしていた。
左翼の鷺山、右翼の長政も、赤備えの用兵を間近で見て、鬼兵への過信を吹き飛ばしていた。
そんな中、次の動きが武田側に起きた。
今度は騎馬を下げ、赤備え徒歩隊が中央へ向けて突撃を開始した。
左右の馬防柵の端に向けて、農兵も突撃をかける。
「ここから一気にいくぞ」
内藤が呟いた。
柵に張り付く鬼兵に向けて、赤備え弓兵は間断なく矢を浴びせかけた。
*
長政と鷺山は、それぞれの持ち場から戦場を見渡した。
そして、ほぼ同時に同じ結論へ至る。
鷺山が大声で青鬼兵に命じた。
「真に恐るべきは赤備えだ!
左右を狙う敵農兵は、鬼兵であれば寡兵でも勝てる。
八百を中央に派遣せよ!中央を抜かれて殿を狙われるわけにはいかん!」
長政も同様の指示を出した。
「奴らには時間がない。滝川殿が迫っていることは承知しているはずだ!
敵の狙いは義父上に違いない!
中央を抜かせるな!」
中央に迫る赤備え徒歩隊を警戒して、左右から鬼兵が中央へ増援に回る。
だが、途中から赤備え徒歩の歩みが鈍り、目前で止まった。
「しまった!
敵の狙いは左右の柵の端だ!
中央に向かわせた兵を急ぎ戻せ!」
長政、鷺山は同時に敵の目論見に気づいた。
すぐに農兵に向けて鬼兵の主力を向けた。
*
政親が険しい表情になる。
「赤備え騎馬の行方がわからん。
左右の柵の端を狙って、そこから突入する気か?!
黒鬼騎馬!本陣の前に待機せよ!
義兄上を何としても守れ!」
政親は美濃の方角を見る。
「滝川殿が来るまで、義兄上を守りきれば芋粥の勝ちなのだ!」




