第二百九十一話 武田最後の牙
松雲寺での野営を終え、芋粥軍六千は信濃へ向けて進軍を続けた。
山道を抜けると、飯田の町並みが見えてくる。
飯田城は武田の支城である。
だが秀政は馬上から城を一瞥し、言った。
「……攻めぬ。
城は攻めず、領地を揺らす。
これを徹底するぞ」
長政が頷き、政親が地図を広げる。
「飯田は武田南信濃の兵站拠点。
ここを揺らせば、勝頼は必ず足を止めまする」
秀政は三軍へ命じた。
「赤鬼は北へ。
青鬼は西へ。
黒鬼は南へ散開せよ。
村々を揺らし、兵糧と商流を断て」
鬼兵三軍が一斉に散開した。
*
長政率いる赤鬼兵が北方の村々へ入り、徴税役人を拘束し、兵糧蔵を封鎖する。
村々は混乱し、武田の徴税基盤が一気に崩れ始めた。
鷺山率いる青鬼兵は西の街道を押さえ、武田への荷駄隊を次々と止める。
美濃方面からの商流は完全に遮断され、武田の補給路が断たれた。
政親率いる黒鬼兵は南の商人街へ入り、市場の中心を押さえて商流を止める。
遠江方面からの兵糧・物資は一切動かなくなった。
商人は荷を抱えて逃げ惑い、農民は山へ逃げ込んだ。
飯田城下は半日で静まり返り、伊那へ向かう兵糧も止まった。
武田の兵糧の一部は、飯田、伊那、甲府という流れで運ばれていた。
それが、芋粥軍の「揺らし」で止まった。
政親が馬上から状況を見渡し、秀政の元へ駆けた。
「義兄上。南信濃の商流は完全に停止しました。
甲斐へ向かう兵糧も、今日から途絶えまする」
秀政は頷いた。
「よし。勝頼は必ず動く」
*
その頃――
甲府・躑躅ヶ崎館。
武田家中に緊急の報が走った。
「南信濃が揺らいでおります!」
「飯田・伊那の商人が逃げ惑い、兵糧が止まりました!」
「芋粥軍六千が村々を荒らしております!」
勝頼は激怒して拳を叩きつけた。
「おのれ、織田め……!民を狙うとは姑息な手を!
ただでさえ、新府城築城のために税を増やしたばかりだ。
このままでは飯田と伊那が揺らぐ」
家臣が震える声で続ける。
「美濃方面には織田信忠、滝川一益が控えております。
遠江方面には徳川家康が……
南信濃に大軍を出せませぬ!」
勝頼は歯を食いしばった。
「山県も馬場も木曽谷で討たれた……。
あの者らが生きておれば、ここまで織田に好き勝手されなかったものを!
――内藤を呼べ」
家臣が頭を下げる。
「殿……内藤殿は出陣の支度を整えております」
勝頼は立ち上がり、声を張り上げた。
「うむ、さすが昌豊。
動きが速い。伝えよ!
南信濃へ出陣せよ!
武田の赤備えは健在よ!
織田の芋粥を叩き潰し、信濃から生きて帰すな!
飯田を守れ!」
「は!」
家臣が立ち上がり、急ぎ内藤昌豊へ下知を伝えるべく走った。
*
地図を睨みながら戦略を練る内藤の元に、勝頼からの使者が到着した。
「内藤殿、殿より出陣の御下知にございます。
飯田に向かい、織田の芋粥を討ち滅ぼせとの仰せです」
内藤昌豊は膝をつき、赤備えの兜を手に取った。
「承知。
赤備えを率いて参る」
その背後には、若き赤備えの猛者・土屋昌恒が控えていた。
「内藤様、わしも参ります」
内藤は頷いた。
「土屋、共に行くぞ。
武田の牙はまだ折れておらぬ。
それをわしとお前で、織田の弱兵どもに知らしめてやろうぞ!」
武田家最後の牙、内藤昌豊と土屋昌恒が率いる赤備えが、芋粥軍へ迫ろうとしていた。
*
出陣前日、勝頼も兵を鼓舞するために訪れ、その場で内藤が全軍に編成を伝えた。
「赤備え騎馬千騎は土屋昌恒が率いよ」
土屋昌恒は力強く答える。
「承知。
赤備えの騎馬はこの昌恒が直接指揮いたします」
赤備え騎馬千――
武田家の象徴であり、突撃力では日ノ本最強と恐れられた精鋭。
内藤は続けて言う。
「赤備え徒歩二千は、我が直属とする。
槍・鉄砲・弓を整え、南信濃へ向かうぞ」
赤備え徒歩二千――
山県・馬場の死後も、内藤の優れた統率力によって、高い戦闘力を維持していた。
戦場で崩れることはまずない。
さらに勝頼は脇を固める兵を命じた。
「国人衆・農兵二千を付けよ。
南信濃の地を知る者たちだ。
内藤を支えさせよ」
国人衆・農兵二千――
地の利を知り尽くした者たちであり、武田家の“地力”そのもの。
総勢五千の武田軍が編成された。
内藤は赤備えの旗を見上げ、言った。
「殿、南信濃は必ず守り抜きまする」
勝頼は拳を握りしめた。
「内藤……頼むぞ。
今の武田を支えられるのは、お前しかおらぬ」
内藤は深く頭を下げた。
「赤備え、出陣――!」
土屋昌恒が馬を蹴り、赤備え騎馬千が一斉に鬨を上げる。
武田軍五千が南信濃へ向けて動き出した。
*
南信濃を芋粥勢が揺らすその最中、政親が持ち帰った報が秀政の耳へ届いた。
「殿……武田が動きました。
内藤昌豊、赤備えを率いて南信濃へ向かっております」
秀政は地図の上に指を置き、呟いた。
「来たか……武田四天王の一角、内藤昌豊」
長政が近づき、秀政に声をかけた。
「こちらの鬼兵は六千、相手は動員兵も合わせて五千です。
精鋭の数で言えばこちらが倍」
鷺山も胸を張る。
「そうです。しかもこちらはただの精鋭にあらず。
近隣にも名を轟かす鬼兵六千です。
このまま、ここで内藤を打ち倒して、甲斐まで攻めてやりましょうぞ」
秀政は首を横に振った。
「ならん。当初の策通りに、守りの一手だ。
耐えに耐えて、滝川殿と挟撃して追い返す。
それだけで良い」
鷺山は肩を落とす。
「はぁ、そうですか」
秀政は二人へ命じた。
「長政、鷺山。辺りを見て回ってこい。
どこで戦うか候補を決めろ。
そこから軍議だ。
馬防柵を組めるところにしろよ」
「「は!」」
二人はすぐに馬を走らせ、周辺の地形を探りに向かった。
*
政親が秀政の隣に座る。
「まだまだ奴らは分かってませんね」
秀政は横目で政親を見る。
「お前は分かっているのか?」
政親は笑みを浮かべて、答えた。
「義兄上と同じことを考えているかは分かりませんが……
鬼兵はそれほど強くはありませんよ」
「そうだな。統率は取れている。
だが、普通の強兵だ。
その普通の強兵に禍々しい具足を着させているにすぎん」
政親は続ける。
「はい。これまでも鬼兵が真っ向から敵とやり合った戦はそう多くはないでしょう。
決して弱いとは言いませんが、場数で言えば赤備えに比べるべくもありませぬ」
秀政は地図を見つめながら呟いた。
「周りが勝手に芋粥の鬼兵のことを強いと思っているだけだ。
化けの皮を剥がされるわけにはいかん」
秀政は思わず笑った。
「く……しかし、またしてもお前だけは俺と同じ方向を見ているな」
政親は軽く肩をすくめた。
「軍師ですから」
秀政は短く返す。
「そうだな」
秀政は心の中で続けた。
(お前が敵に回らなければ、これほど心強いものはない。
だが一度敵に回ればこれほど恐ろしい者もいないだろう。
政親の忠義は本物ではあるが……
いつまでも芋粥の下にいる器と言えようか)
政親が首を傾げる。
「義兄上、どうかなさいましたか?」
秀政は笑って首を振った。
「いや、お前が味方で良かったよ」
政親は呆れたように笑う。
「何をまた……。
もっと私を頼ってください。
必ずや芋粥と千種をさらなる高みまでお導きしますよ」
秀政は頷いた。
「あぁ、それは心強い。
お前が居れば子らの代までも安心だ」
政親は静かに答えた。
「はい、そうですね……」
「政親、長政と鷺山に決して無理はさせるな。
犠牲を最小限に留めることを考えるのだ」




