第二百九十話 受け継ぐ者
二月二十六日。
南信濃遠征軍の準備がすべて整い、出陣は二月二十八日と正式に決まった。
鈴鹿館は慌ただしく、兵の点呼、荷駄の積み込み、馬の調練が途切れなく続いていた。
秀政は政親・長政と最終の軍議を終え、出陣までの二日間は伊勢の政務を整理するつもりでいた。
その日の夕刻――
足音が鈴鹿館の奥へと近づいてきた。
案内役が告げる。
「殿。桑名城主・鷺山利玄様の奥方、綾芽様がお見えにございます」
秀政は顔を上げた。
「……通せ」
障子が開き、白い狩衣に身を包んだ綾芽が深く頭を下げた。
「殿……父の葬儀を、あれほど盛大に執り行っていただき……
誠にありがとうございました」
その声は震えていない。
だが、父を亡くした悲しみを必死に堪えていることは、秀政にも分かった。
秀政は静かに頷いた。
「清隆は芋粥の柱だ。
盛大に送るのは当然のことよ」
綾芽は深く息を吸い、顔を上げた。
「本日は……お願いがあり参りました」
「申せ」
綾芽は膝を正し、まっすぐ秀政を見た。
「此度の南信濃遠征――
白鬼軍団長としての出陣を……辞退させていただきたく存じます」
秀政は目を細めた。
「理由を聞こう」
綾芽は迷いなく答えた。
「二つございます。
一つ目は――
父の抜けた穴を、私が埋めたく存じます」
秀政は黙って聞く。
「浅野家は伊賀・藤林の中忍家の出。
ですが、父は芋粥家家老である武家浅野として、伊賀上忍家との繋ぎ役を務めておりました。
しかし武家浅野の嫡男――三郎兵衛は九つ。
まだ伊賀の上忍衆との繋ぎ役を任せられる歳ではございませぬ」
綾芽は続けた。
「私とて、父と比べれば経験も器量も遠く及びませぬが、それでもこのまま、浅野と伊賀との繋ぎを断ちたくはありません。
この私が何としても父の跡を継ぎ、伊賀と渡り合いまする。
そして、いずれ三郎兵衛が元服し、父のように伊賀との繋ぎを担える器となれば、この役目は弟へ引き渡します。
どうか私を伊賀との繋ぎ役にお認め下さい。
殿の威を借りてでも、この任、果たして見せまする」
秀政は深く頷いた。
「……なるほど。
清隆の役目を継ぐか」
綾芽はしっかりと頷くと、二つ目の理由を口にした。
「そして二つ目は……
お腹に、利玄様との二人目の子を授かりました」
秀政が一瞬息を呑む。
綾芽は恥じらいながらも、言葉を続けた。
「身重の身では、遠征にて白鬼を率いることは叶いませぬ。
ゆえに――白鬼の指揮は、氷花隊を率いる凛に代理を務めさせます」
秀政はしばらく綾芽を見つめ、やがて頷いた。
「……分かった。
綾芽、お前の判断は正しい」
綾芽はほっとした顔を見せた。
秀政は続けた。
「三郎兵衛の教育――頼むぞ。
清隆の跡を継ぐ器に育ててやれ」
綾芽は深く頭を下げた。
「はい。必ずや」
秀政は柔らかく笑った。
「そして……元気な子を産め。
利玄も喜ぶだろう」
綾芽は頬を赤らめ、礼を述べた。
「殿、ありがとうございます……」
父を失った綾芽は、自ら浅野家と伊賀の繋ぎ役を引き受け、腹の子を育てながら、父の役目を継ごうとしていた。
*
そして――二月二十八日。
鈴鹿館前庭に六千の常備軍が整列し、鬼兵の赤・黒・青・白の旗が風に翻る。
秀政は馬上から兵を見渡し、号令を下した。
「南信濃へ出陣する!」
鬨の声が鈴鹿の空に響き渡った。
芋粥軍六千は、南信濃へ向けて鈴鹿を発った。
*
軍は鈴鹿から街道を南東へ進み、伊勢湾沿いを抜けて東海道へ入った。
目指すは――
南信濃・飯田、そして伊那。
秀政は馬上で政親へ声をかけた。
「政親。滝川殿には事前に伝えてあるな」
政親は頷く。
「はい。滝川一益殿はすでに中将信忠様の許可を得ております。
武田が我らへ向けて出陣した場合、美濃方面から挟撃するとのこと」
秀政は満足げに頷いた。
「武田が南へ出れば滝川が刺す。
勝頼は兵を二つに割らねばならん」
長政が馬を寄せる。
「父上、徳川殿にも使者を送っておりましたね」
「うむ。徳川殿は高天神攻めに専念する。
我らが南信濃で暴れれば、武田は援軍を出せぬ。
もし武田が我らへ向かえば――
徳川殿が背後から突く」
長政は笑った。
「武田はどちらへも動けませぬな」
「飯田・伊那――
この二つを揺らせば、武田は必ず足を止める。
援軍も兵糧も動かぬ。
勝頼は“動けば挟撃、動かねば兵站崩壊”。
どちらに転んでも勝ち筋は我らにある」
政親が言う。
「武田は、戦わずして追い詰められましょう」
秀政は馬上で笑った。
「戦わずして勝つ――
これに越したことはない」
*
軍は信濃国境へ入った。
山々はまだ雪を抱き、冷たい風が兵の頬を刺す。
騎乗で進む鷺山の元に、政親が馬を寄せた。
「利玄、また子が出来たようだな」
「ん? あぁ。ここで勝って、綾芽に特上の土産を持ち帰りたいものだ」
政親が頷いた。
「そうだな。実はな。
御影にも子が出来た。またお前と同時だ」
鷺山が眉をひそめた。
「松。お前、本当に性根が曲がっておるな」
「ん?」
「お前の子と同い年になれば、俺の子が霞むやもしれんではないか。
上の子が同い年なのは我慢するとして、下の子まで同い年にしてくるとは、性根を疑うわ」
政親が軽く笑う。
「仕方なかろうが。こう出陣が続くと機会がない。
まぁ、次の子は北畠の名跡を継がさねばならん。
男子だといいがな」
「いや、俺の子は清隆殿の血が入っているからな。
きっと道丸の方がお前の桂丸より優れているに違いない」
「うむ。そうだと良いな」
「その余裕が苛つくのだ」
政親は再び笑って、馬の歩みを早めて持ち場に戻った。
*
赤鬼兵を率いる長政が馬を進め、秀政へ声をかけた。
「父上。まずは飯田周辺から荒らしますか?」
秀政は頷いた。
「飯田を揺らし、伊那を断つ。
村々を揺らせば、武田の足腰は折れる。
城を攻めず、領地を揺らす――
これが今回の戦だ」
「承知しました。
義父上の仰るように、此度は戦わずに済めばよいですね」
「あぁ、そうだな」
秀政はやや上の空で返事した。
(自分で言っておいてなんだが……。
戦をせずには済むまいな。
この戦略は武田を一度挟撃して打ち破ってから、初めて成立する。
必ずあの武田ともう一度正面からやり合うことになるのだ。
もし山県が生きていたなら、この戦略自体が成り立たなかったやもしれん。
だがあの後、赤備えは内藤昌豊が引き継いだと聞く。
山県が猛将、馬場が堅守の将であるなら、内藤はバランスの将だ。
今この場では、あるいは内藤が一番恐るべき存在かもしれんな)




