第二百八十八話 戦術と戦略
鈴鹿館・軍議の間。
畳の上には地図が広げられ、空気には張り詰めた緊張が漂っていた。
秀政は静かに座し、政親と長政、そして初めて軍議に参加する秀文が控えている。
秀政は口を開いた。
「俺にも思うところがある。
政親、お前の意見を聞き、俺の策と比べてみたい」
政親は膝を正し、深く頭を下げた。
「は!
私にも策があります。
ですが、その前に一度、若……長政様の策をお聞きしたい」
長政は驚いたように目を見開いた。
「わ、私ですか?」
政親は静かに頷いた。
「はい。秀文様が伊勢を支えていかれるのであれば、長政様は外征を担う側となります。
戦略を組むのは、これからますます必要となりましょう」
長政は緊張した面持ちで地図を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「そ、そうか……。
私の考えであれば――ここは三河殿と協力して、高天神を落とすのが良いと思う。
芋粥と徳川が協力すれば、あの堅城とて落ちましょう。
我らが搦手を取れば、犠牲も抑えることが出来るかと。
徳川殿とは裏で手を結んでおりますので、協力を断られることはないと思います」
秀政も政親も、長政の策を黙って聞いていた。
二人とも、頷き一つ見せなかった。
その沈黙に、長政は二人の胸中を悟った。
「……どうやら義父上と政親殿は、別に考えがあるようですね」
秀政は肯定も否定もせず、政親へ視線を向けた。
「政親。お前の策を述べよ」
政親は一歩進み出て、地図の南信濃へ手を置いた。
「は!
私の策ですが――
芋粥は高天神を攻めませぬ。
あの城は徳川殿に任せます」
長政は眉を寄せた。
「では、我らはどこへ?」
政親は指を南信濃の村々へ滑らせた。
「我らは城を攻めず、南信濃を徹底的に荒らし、
武田の救援能力を奪い取ります。
兵糧道を断ち、村々を揺らし、勝頼の足腰を折るのです。
――どうですか、義兄上?」
秀政は静かに頷いた。
「政親。やはり、お前も俺と同じ考えだったようだな」
政親は我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべた。
その時、秀文が思わず疑問をぶつけた。
「父上は先ほど申されました。
大殿様は、徳川殿に信濃を取られる前に、織田で落としたいとお考えであると。
それでは万兄の策である高天神攻めも、芋粥が一枚噛んだ方が、徳川だけの功にはならぬのでは?」
秀政は秀文を見て、わずかに口元を緩めた。
「うむ、秀文。
疑問を持つことは良いことだ。
よかろう。ならば此度は、少し詳しく説明してやろう」
秀政は地図の上に手を置き、ゆっくりと語り始めた。
「長政の策は“戦術”にすぎぬ。
戦とはもっと大きな目、大局を見なければならぬ。
それが“戦略”だ」
秀文は眉を寄せた。
「戦略……?」
秀政は頷いた。
「城をどう落とすかは戦術にすぎぬ。
そうではなく、城を落とすことを手段として、その後、信濃がどのようになるかまでを考えるのが戦略だ」
長政が身を乗り出した。
「戦略に関して私も興味があります。
ご教示いただけますか?」
秀政は淡々と答えた。
「単純なことだ。
何か事を起こした時、その後に何が起きるか。
その一手、二手先まで読むだけのことだ」
長政は苦笑した。
「それが難しゅうございますな……」
秀政は地図の高天神城を指した。
「城を徳川と協力して落としていく。
これも一つの手ではある。
だが、それは時間をかけて徐々に信濃を切り取っていくことになるだけだ。
武田を滅ぼすのにあと二年、三年はかかるだろうな」
そして、秀政は指を南信濃へ滑らせた。
「だが俺が高天神を落とさずに、南信濃を荒らすだけで――
武田はあと一年で滅ぶ」
秀文は目を丸くした。
「全くわかりませぬ!
どういうことですか?
ただ村々を荒らすより、城を取る方が織田にとっては大きな功となり、武田にとっても大きな痛手になると思います!」
秀政は政親へ視線を向けた。
「政親。お前は分かっているのだろう?
軍師らしく一度説明してみよ」
政親は静かに頷いた。
「はい。
試されるのは少々気に障りますが……
戦略というものを秀文様にご教示差し上げるのは、やぶさかではありませぬ」
政親は地図の南信濃へ手を置いた。
「先ほど義兄上が仰せになったように、我らが南信濃を荒らした場合、何が起きると思われますか?」
秀文は必死に考えた。
「そうですね……兵糧の搬入が滞る。
援軍に向かうのが遅れる。
そのようなところでしょうか?」
政親は首を横に振った。
「それはあります。
ですが、それだけではないのです」
政親は秀文を否定するわけでもなく、補足するように続けた。
「我らが南信濃で暴れると、武田は我らから領土を守る必要があります。
民を守れぬ領主は、もはや領主にあらず」
政親の声は静かだが、軍議の間に重く響いた。
「武田は我らに向けて出陣しようとするでしょう。
ですが――実際は出来ぬのです」
秀文は思わず身を乗り出した。
政親は地図の南信濃へ指を置いた。
「我らが暴れる南信濃は……」
政親は指をゆっくりと滑らせ、地図の中央に止めた。
「ここ。
中将様の織田本軍と、南の高天神攻めの徳川軍――
その“ちょうど中間”で暴れるからです」
政親は碁石を三つ取り、美濃、甲斐、遠江へ置いた。
「武田の領国は山間が多く、米の取れ高も織田には及びませぬ。
ゆえに兵数にも限りがあり、一度に動かせる兵にも限界があります」
政親は甲斐の碁石を美濃へ滑らせ、再び甲斐へ戻し、今度は高天神へ向けて滑らせ、また甲斐へ戻した。
その動きは、武田の兵の“限界”を示すようだった。
「武田は強兵です。
今までは美濃方面や高天神への援軍も、限られた兵を機動力によって適宜振り分け、その強さで何とか凌いできた」
政親はそこで手を止め、秀文を見た。
「ですが――今ここに芋粥が立ちはだかると、どうしても今後は、南信濃で“引っかかる”のです。
必ず足を止めさせられる」
政親は南信濃に碁石を置いた。
甲斐から南信濃へ碁石を動かし、そこで止める。
「ここで止まると、どうなると思いますか?」
政親は今度、美濃の碁石を滑らせ、南信濃に置かれた甲斐の碁石を“挟む”ように配置した。
「――常に挟撃される危険を背負う」
軍議の間に、静かな緊張が走った。
秀文は息を呑み、長政は目を見開き、秀政は深く頷いた。
政親は続けようとして、秀文の反応をじっと見つめた。
「動きたくても動けぬ……。
仮に中将様が動けずとも、徳川殿が挟撃に回ることもできる」
政親は満足げに頷いた。
「その通りです。
遠江はどうせ徳川殿のご領地です。
勝手に取らせればよい。
そこに居てもらうだけで、武田が動けなくなる」
長政は目を見開いた。
「な、なるほど……」
政親はさらに碁石を動かしながら続けた。
「そうなると、武田は援軍を頼みにするでしょう。
北条や上杉です」
政親は地図上の北条と上杉も指さした。
「ですが、今の上杉は織田の北陸軍団と交戦しており、武田へ援軍を出す余裕はない。
そして北条は徳川と裏で通じている。
奴らは今、関東統一に向けてそれどころではない」
政親は甲斐の碁石を軽く弾いた。
「武田は動けぬままに、無為に時間を費やすのです」
秀政が静かに頷いた。
「その通りだ。これが戦略だ」
秀政は地図の甲斐へ指を置き、ゆっくりと語り始めた。
「武田を滅ぼす決め手は、兵を討ち減らすことではない。
その“求心力”を奪うことにある。
領地内の民を守れぬ領主に国は治められん」
秀政は高天神城を指した。
「そして高天神を見殺しにするようなことがあれば、国人たちの離反を招くだろう」
秀政は指を離し、静かに言い切った。
「それこそが武田の息の根を止める策だ」
その時、鷺山がぽつりと呟いた。
「うむ……見事すぎる。俺の出番が全くない……」
秀政は横目で鷺山を見た。
「なんだ、鷺山。お前、居たのか?」
鷺山は思わず声を上げた。
「は、はあ?!
それは酷うございます!」
秀政は笑った。
「ははは、冗談だよ。
戦は戦略だけでは勝てぬ。戦術も必要だ。
お前がいないと芋粥は戦で勝てんよ」
鷺山は胸を張った。
「そ、そうですよね!
はい、この俺が戦術面で芋粥家を支えてみせます!」
秀政は肩をすくめた。
「調子のいい奴め。
しかし政親と意見が一致したのが心強いな。
――その策でいくぞ」
「「は!」」




