第二百八十七話 思い違い
翌朝。
鈴鹿館の廊下には、まだ冬の冷気が薄く残っていた。
秀政は奥の間へ向かって歩いていた。
昨夜は三介の突然の来訪と燈姫を預かることになった衝撃で、寝床に入ってからもそのことが頭を離れなかった。
(……本当に芋粥家で育てることになるとはな)
そんなことを考えながら襖を開けると――
奥の間は、すでに賑やかだった。
「きゃっきゃっ!」
「みおー、まてー!」
澪と燈が、畳の上を小さな足でぱたぱたと走り回っていた。
同い年の二人は、澪が先を走り、燈がよたよたとその後を追いかけている。
笑い声が弾け、まるで昨日出会ったばかりとは思えぬほどの仲の良さだった。
秀政は思わず立ち止まった。
「……もうこんなに仲良しになったのか」
お悠が微笑みながら振り返った。
「弥八様、おはようございます。
燈様、澪とすぐに打ち解けまして……朝からずっとこの調子でございます」
明も袖口で口元を隠しながら笑った。
「澪が『おともだちできた!』と大喜びで……
燈様も負けずに走り回っております」
その時、少し離れたところに座っていた秀文が振り返った。
妹たちの騒ぎに巻き込まれたらしく、少し困ったような表情をしている。
「父上……燈様、すごいです。
澪と同じくらい元気で……朝からずっと遊んでおられます」
秀政は秀文の顔を見て、ふっと笑った。
「秀文、お前は妹がもう一人できたようなものだな」
秀文は苦笑しながら肩をすくめた。
「はぁ……本当にそのようでございます。
二人でいつも以上に走り回るので、私の方が落ち着きませぬ……」
その時、澪が燈の手を引きながら秀政の方へ駆け寄ってきた。
「ととうえ!
あかりちゃんと、いっぱいあそんだの!
たのしいの!」
燈も秀政の前でぴょこんと頭を下げた。
「あい!みおとあそんだ!
おにごっこ、したの!」
秀政は思わず苦笑した。
「いや……燈様はもう芋粥家の子のようだな」
鷺山が控えの位置から静かに言った。
「三介様の姫君は、人の心を掴むのが早いようでございますな。
澪様とこれほど早く馴染むとは……」
秀政は腕を組み、深く息を吐いた。
(……三介の血は侮れぬ。これは世を渡る上では、決して無駄にはならん。
千種の才と、この人たらしの血が芋粥に入るのは、実は望ましいことやもしれん)
澪が燈の手を引きながら叫んだ。
「あかりちゃん、みおのおへやで、おにんぎょあそびするの!」
燈も元気いっぱいに頷いた。
「あい!みおのおへや、すき!」
お悠はその様子を見て、柔らかく微笑んだ。
「弥八様……燈様は本当に澪と気が合うようです。
この子なら、芋粥家での暮らしもすぐに馴染みましょう」
秀政は天井を見上げた。
(……いや、もう馴染みまくってるではないか!)
澪と燈の笑い声が、いつもより賑やかに鈴鹿館へ響いていた。
秀政は静かに頷いた。
「……まぁ、良いか。
燈様が楽しそうなら、それでよい」
真面目な顔に戻った秀政は、鷺山に声をかけた。
「鷺山、大河内に使者を出して、政親を鈴鹿へ呼べ。
軍議を行う。
秀文、お前も参加せよ。
軍議の空気だけでも感じてみよ」
「はい!」
*
二日後。
鈴鹿館の表門に、大河内城主・千種政親が到着した。
政親は馬を降りると、すぐに奥の間へ通された。
襖が開き、秀政が姿を見せる。
「政親、遠路ご苦労であった」
政親は深く頭を下げた。
「義兄上――聞きましたよ。
秀文様と大殿の孫姫様がご婚約されたとか」
秀政は苦笑しながら腰を下ろした。
「あぁ、ひょんなことからそうなった。
元服したばかりなのにな」
政親は目を細め、静かに言った。
「いえ、めでたいことです。
これで秀文様は織田家一門でございますな。
これは大殿様が、芋粥家の正嫡たる秀文様を“世継ぎ”としてお認め下さったということですね?」
秀政は首を傾げた。
「ん?いや、そこまでは聞いておらん」
政親は眉を寄せた。
「大殿は秀文様に孫姫様をお与えになりながらも、家督に関しては何も申されぬと?」
秀政は肩をすくめた。
「うむ、そうだな。何もだ」
秀政は軽く笑ったが、その裏で別のことを考えていた。
(殿は家臣の世継ぎ問題など、心底どうでもよいと思っておるからな。
まぁ、口にせんだけで、秀文を芋粥家の世継ぎと見なし、この芋粥を一門同然に扱おうと考えておるのやもしれん。
千種一門も軽くは扱えん。
いよいよ、世継ぎは秀文なのかも知れんな)
一方、政親は政親で、別のことを考えていた。
(信長は何を考えているのだ。血も涙もない奴よ。
ここに至っても、孫娘の婿となる秀文様を差し置いて、長政を推すか。
確かに長政には才気を感じる。
……全く信長という男は、家臣を才気だけで判断するか!?
秀文様とて、長政には負けておらぬというものを!
いや、芋粥も丹羽も等しく囲い込もうと安易に考えているのやも知れん。
そう簡単に他家の内情に土足で踏み込んでくるな!)
秀政と政親は、同じ縁談をまったく別の意味に受け取っていた。
だが――互いに、その肝心な部分を口にはしなかった。
そのため秀政は、政親が抱いた大きな思い違いに気づくことができなかった。
秀政は話題を切り替えた。
「政親。お前を呼んだのは、武田攻めの話をするためだ」
政親は姿勢を正し、声を張った。
「は!」
鈴鹿館の空気が、
一気に軍議のものへと変わった。
*
鈴鹿館・軍議の間。
上座には秀政が静かに座していた。
向かいには長政、政親、鷺山、そして元服したばかりの秀文が正座し、緊張した面持ちで父を見つめている。
秀政は一同を見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「俺は東方遠征軍の副将として、武田攻めを申し付けられた。
ただし、中将様とは別に行動し、徳川領を通って南信濃を攻めることとなる」
政親が静かに頷いた。
「徳川殿と初めての共同戦線になりますな」
秀政は首を横に振った。
「いや、領内の通過を許してもらうだけだ。
協力してくれるかどうかは分からん。
むしろ殿は、徳川殿に信濃を取られる前に、織田で落としたいとお考えだろう」
政親は眉を寄せた。
「そうですか……。
我が手の者の調べでは、徳川殿は高天神城を攻めるつもりのようです」
秀政はわずかに目を細めた。
「そうか。既に調べていたか。助かる」
秀政は一瞬、視線を落とし、胸中で思案した。
(史実であれば――武田は高天神城を見殺しにし、家臣団の求心力を失っていくはずだ。
だが、この世界線では状況が違いすぎる。
北陸では上杉が御館の乱を起こさず、国力を保ったまま柴田・丹羽と越中で戦っている。
上杉と北条も絶縁していない。
甲相越三国同盟は健在……。
高天神を見殺しにするとは限らん)
政親が続けた。
「上杉は武田に援軍を寄越せますまい。
柴田様、丹羽様の軍勢が越中へ押し寄せており、他国へ手を回す余裕はござりませぬ」
秀政は小さく頷いた。
(上杉は強い。だが織田も強い。
確かに、越中戦線が激しければ武田は上杉からの援軍は望めぬか……)
「そうだな。それに――徳川と北条は裏で不戦同盟を結んでいると、家康殿から直接聞いた。
徳川は武田攻め、北条は関東の地固め。
両家はそれぞれの利で結ばれており、北条は武田・上杉との三国同盟よりも、徳川との利を優先している。
そこが攻め所かもしれん」
初めて本格的な軍議に加わる秀文は、父と政親の言葉の応酬に目を輝かせていた。
秀政は政親へ視線を向けた。
「政親。攻め所の策を示せ」
政親は深く頭を下げ、声を引き締めた。
「は!」




